二・常行神社

《原文》
二 常行神社
常行字井樋ノ口に鎮座する無格社常行神社は、 筑前太宰府神社の御分霊を齋きま
つり、往昔同所の住人仲摩五兵衛なる者之を勧請すと傅ふ。社殿は今を距る約三
百五十年前なる元龜の頃には、現時字初穂田と稲せらるゝ地にありて、地一町
有餘步、神領十貫を有し、 神坊として松林寺、 安照寺、 尊長院と稱する真言宗
の三僧院ありたりといふ。 現時字名權大と呼ばるゝ地は、當社坊の首腦者たりし
大僧都の邸宅ありしに由来すと傅へらるゝによりて見るも、其の盛観を想察す
るに足るべし。然るに天正丙戌の兵乱によりて災禍を被りてより、爾後祠廟漸く
荒廢に向ひたり。
萬治二年(紀元二三一九)年 六月、同所の住民首藤杢左衛門の所有地(現地の北方)に
ありし枯死せる一松樹の端に、毎夜星光の如く輝くものあり、左衛門怪みて
之を檢せしに 初穂田に奉祀せる菅公の尊像ならしかば、大いに恐懼して、現
地を寄進して社殿を営み、尊像とこに遷祀したり。仍て之より枯木天神と称せ
らる。享保元年(二三七六年)六月三日、不幸にして復回祿の災に罹りて、縁起
宝物等に至るまで悉く焼亡せしが、後四十餘年を経て宝暦頃熊本地方の大旱に
際し、當社坊位乘院(「高田めぐり」の編者にして、墓は今首藤長次郎宅の前
に在り) 藩主の命を受けて雨を祈りしに、霊驗いやちこにて直に感應ありしかば
報賽(ほうさい)として藩侯より社殿を造營せられたり。 明治三年常行神社と改稱す。
《現在語訳》
常行の字(あざ)井樋ノ口に鎮座する無格社・常行神社は、筑前太宰府神社の御分霊をお祀りしており、昔、同所の住人である仲摩五兵衛という者がこれを勧請したと伝わる。社殿は今を去る約350年前の元亀の頃には、当時、字初穂田と称された地にあり、土地一町有余歩、神領十貫を有し、神坊として松林寺、安照寺、尊長院と称する真言宗の三つの僧院があったという。現時、字名「権大」と呼ばれている地は、当社坊の首脳者であった大僧都の邸宅があったことに由来すると伝えられていることによって見ても、その盛観を推察するに十分であろう。しかしながら、天正丙戌(へいじゅつ)の兵乱によって災禍を被ってより、それ以降、祠廟(しびょう)は次第に荒廃に向かっていった。
万治二年(皇紀2319年)六月、同所の住民である首藤杢左衛門の所有地(現地の北方)にあった枯死した一本の松の木の端に、毎夜、星の光のように輝くものがあった。左衛門は怪しんでこれを点検したところ、初穂田に奉祀していた菅公(菅原道真公)の[御神体/尊像]であったので、大いに恐懼(きょうく:恐れ敬うこと)し、現地を寄進して社殿を造営し、尊像をここに遷祀(せんし)した。よって、これより「枯木天神」と称されるようになる。
享保元年(皇紀2376年)六月三日、不幸にして再び回禄(かいろく:火災)の災いに罹り、縁起や宝物等に至るまでことごとく焼失したが、その後40余年を経て、宝暦の頃に熊本地方が大日照りに見舞われた際、当社坊の位乗院(『高田めぐり』の編者にして、墓は今、首藤長次郎宅の前にある)が藩主の命を受けて雨乞いを祈ったところ、霊験は極めてあらたかで直ちに感応があったので、報賽(ほうさい:祈願成就のお礼のお参りや返礼)として藩侯より社殿が造営された。明治三年、常行神社と改称する。
《歴史散歩28番》 常行天満社 <高田びわのす通信より>
常行天満社
常行天満社は太宰府天満宮の御分霊を勧請(かんじょう)して建てられたものである。神社は今から450年前には現在の初穂田というところにあり、立派な建物であったという。(広大な社地と三つの僧院があった。)
しかし天正の戦火(大友氏と島津氏の戦い)で焼失し見る影もなくなってしまった。万時(まんじ)二年(1659年)初穂田の首藤杢左衛門は、自分の邸の枯れた松の梢から菅原道真公の尊像ををみつけ、そこに社をたてて祀った。常行天満社のことを、[枯れ木天神]と呼ぶのはこのためである。
享保元年(1616年)6月3日にまた火災にあって全焼したが、宝暦の頃、(1751~1763)熊本地方に日照りが続いた時、社僧位乗院が藩主の命で雨乞をし、(この時は高田は熊本藩である)それが成功したので藩主はその御礼として社殿を造営した。これが現在の常行神社である。「高田村志参照」


三・上徳神社

※現在は上徳丸天満社になっていますが、「高田村志」では上徳神社と書かれているので、ここでは上徳神社とします。
《原文》
三 ・上 德神 社
無格社上徳神社も常行神社と同じく、筑前太宰府神社の御分霊を勧請せるものに
して大字丸龜字上徳丸に鎮座す。社殿はもと同所宮前屋敷と稱する地に在りし
が、天正の兵燹に罹りしより、同所得九杢兵衛なる人の邸内に小祠を営みてこゝ
に祀りたり。其の後百八十餘年を経て安永三年(紀元二四三四年)に至り、里人相謀
りて上德金谷渡場北方の堤上に社殿を新営して遷祀し、稍々に舊観(旧観 元の姿)
に復するを得たり。
こゝに鎮座あること凡百二十年、明治二十六年十月十四日未曾有の大洪水にて堤防
決潰し、爲めに當社殿また倒壊せしかば、更に社地を現在の位置に相してこに造宮
遷祀し、以て今日に至る。
《現在語訳》
三・上徳神社
無格社・上徳神社も、常行神社と同じく、筑前太宰府神社の御分霊を勧請したものであり、大字丸亀字上徳丸に鎮座する。社殿はもと同所の宮前屋敷と称する地にあったが、天正の兵燹(へいせん:戦争による火災)に罹(かか)ってより、同所の得九杢兵衛という人の邸内に小祠(小さなほこら)を営んでここに祀った。その後、180余年を経て安永三年(西暦1774年)に至り、里人(村人)たちが相談し合って上徳金谷渡場北方の堤上に社殿を新営して遷祀(せんし)し、ようやく旧観(元の姿)に復することができた。
ここに鎮座することおよそ120年、明治二十六年(西暦1893年)十月十四日、未曾有の大洪水によって堤防が決壊し、そのため当社殿もまた倒壊したので、さらに社地を現在の位置に選定してここに造宮遷祀し、もって今日に至る。
《歴史散歩15番》上徳丸天満社 <高田びわのす通信より>
上徳丸天満社は常行天満社と同じく太宰府天満宮の御分霊を勧請(かんじょう)して建てられたものである。社は最初宮前屋敷にあったが、天正の戦火(大友氏と島津氏の戦い 豊薩戦争)で焼失したため、宮前屋敷の得丸杢兵衛という人の邸(やしき)の中に祠を建てて祀った。その後、安永三年(1774年)村の人たちが、相談して上徳丸金谷渡し場の北の提上に以前のような祠を建てて祀った。しかし、明治26年の大水害で社殿が倒壊したので、場所を現在のところに移してここに社殿を造った。これが現在の上徳丸天満社である。「高田村志参照」





