「つるさき七輪の街づくり」では平成18年ごろから「歴史マップ」を作成しました。それから20年が経ちました。これを契機に鶴崎地区の歴史マップの「写真やルート地図を加えた『Web版 歴史マップ』」を計画してみました。まずは『別保校区歴史マップ Web版』から手掛けてみようと思います。
大分市からの つるさき七輪の街づくり「歴史マップ」の案内 (2024年3月18日)
鶴崎地区では、地域まちづくり活性化事業 「つるさき七輪の街づくり」 事業の中で、 各校区の歴史マップを作成しています。 これは、校区の歴史に触れながら、 世代を超えた交流と政策による健康増進を図ることを目的に、 各校区の推進委員会が地域の伝承や歴史資料等を調査し作成したものです。
鶴崎支所窓口では、マップの縮小版 (A3サイズ) を配布していますので、 家族やお近くの皆さんと共にご活用ください。

『別保校区歴史マップ Web版』

1・別保小学校の木

1・別保小学校の楠の木
明治36年(1903)] 別保小学校の卒業生が背丈ほどの楠の木を先生と一緒に心をこめて記念に植えました。その後、戦争や風水等に耐えながら現在まで生き抜き、小学校の児童等を見守っています。


2・別保小百周年記念碑

2・別保小百周年記念碑
明治25年(1892) 皆春尋常小学校と森町尋常小学校が統合して別保小学校が誕生し、森町の現在地に校舎を建設、昭和50年10月22日に開校100周 年記念行事が盛大に行われました。 記念事業として小学校発祥の地記念百周年記念碑建立[皆春小学校跡・森町小学校跡]100周年記念碑建立、国旗掲揚塔建設、記念樹木園新設等が行われました。



3・森町小学校跡地の碑

3・ 森 町 学 校 跡 地 の 碑
明 治 8 年 〔 1875 〕 創 設 。 森 町 、 森 、 葛 木 を 学 区と し て 授 業 を 開 始 し 、 明 治 20 年 〔 1887 〕 4 月1 日 よ り 尋 常 小 学 校 と な り ま し た 。 明 治 22 年〔 1889 〕 4 月 1 日 森 村 、 森 町 村 、 皆 春 村 が 合 併し 別 保 村 と な り ま し た 。
明 治 25 年 〔 1892 〕 7 月 13日 皆 春 尋 常 小 学 校 と 統合 し 、 現 在 の 別 保 小 学 校の 位 置 に 別 保 尋 常 小 学校 と し て 移 転 し ま し た 。



4・龍華山専想寺 りゅうげざん せんそうじ

4・ 龍華山専想寺
浄土真宗本願寺派 本尊は阿弥陀如来。 開基は天然釈浄祐です。 天然は周防国山口の人で、文明8年〔1476] 高田郷森町に一寺を創したのが専想寺の起源です。 その6年後、 上京した天然は、 本願寺の蓮如上人の弟子となり浄土真宗に改宗。 文明16年 [1484] に蓮如上人から西国九州伝道の命を受け森町に帰り、 専想寺を根本道場として広く浄土真宗の弘通に努めました。その教化は九州をはじめ中国地方にまで及びました。九州最古の真宗寺院として名高く数多くの寺宝を所蔵しています。 昭和50年[1975]本堂を焼失。現在の本堂は昭和56年〔1981〕3月に完成したものです。





4ー2・専想寺の槙(マキ)の木

市 名 木 専 想 寺 の 槙 の 木
昭 和 49 年 〔 1974 〕 2 月 1 日 、 大 分 市 の 名 木 と し て 指 定 さ れ ま し た 。 樹齢 150 年 位 、 高 さ 5 m 、 幹 周 1.8m 旧 本 堂 の 建立 の 際 、 檀 家 か ら 寄 進 を 受 け た も の で 、 そ: の 当 時 、 す で に 相 当 古 く 大 き な も の で 、 檀家 の 人 が 乗 っ て き た 馬 を つ な い で い た と言われて い ま す 。 昭 和 50 年 〔 1975 〕 2 月 19日 の 本 堂 火 災 で 一 部 焼 失 し ま し た 。
〔 高 さ 等 は 平 成 18 年 度 調 査 〕



5・昭和18年大水害の水位標式

5・ 昭 和 18 年 大 水 害 と 水 位 標 識
昭 和 18 年 〔 1943 〕 9 月 20 日 の 大 洪 水 で 、 別 保 地 区 の 住 宅 の 殆 ど が 2m 程度 の 床 上 浸 水 と な り 、 地 区 一 帯 は 泥 海 と 化 し 家 畜 、 家 具 類 、 木 材 等 を 浮 かべ 激 流 と な り 恐 ろ し い 光 景 でし た 。 別 保 地 区 で 6 人 の 溺 死若 宮 八 幡 宮 の 東 〔 乙 津 川 河 川
敷 内 〕 に あ っ た 旧 制 鶴 崎 中 学校 〔 鶴 崎 高 等 学 校 〕 の 校 舎 が 流失 し ま し た 。 別 保 小 学 校 は 、 校告 の 床 上 1.51m の 大 浸 水 。 校舎 の 破 損 校 具 の 流 失 が 多 数 あり 3 名 の 児 童 が 溺 死 し ま し た 。
※現在、水位標は別保小学校の位置口付近にあるもの、うるま優交社裏入り口前に立てられています。
マップに乗っていた洪 水 の 水 位 の 痕 跡 が 、 森 町 の阿 部 成 美 氏 宅 の 壁 面 〔 床 上1.73m 〕 に 残 っ て たとあり、探し回ったのですが発見できませんでした。宅地開発で現在の箇所に移転したのかもしれません。
別保小学校入り口



うるま優交社裏入り口前


6・キリシタンの墓

6 ・キ リ シ タ ン の 墓
徳 川 幕 府 は キ リ ス ト 教 を 禁 じ 、 寛 永 5 年 〔 1628 〕 か ら 徹 底 的 に キ リ シ タン 狩 り を 開 始 し 、 明 治 6 年 〔 1873 〕 に 廃 止 さ れ る ま で 続 き ま し た 。 現 在 の皆 春 、 当 時 の 門 田 村は 貞 享 3 年 〔 1686 〕頃 幕 府 の 直 轄 地 で日 田 藩 に 属 し 、 高 松代 官 は 信 者 を 逮 捕 し 、長 崎 奉 行 に 差 し 出し ま し た 。 森 村 、森町 村 は 臼 杵 藩 に 属 し 、踏 み 絵 の 方 法 で キリ シ タ ン の 摘 発 が行 わ れ ま し た 。 別 保校 区 に 残 る 数 少 ない キ リ シ タ ン 墓 で す 。
7・小 剣 譽 三 郎 の 墓

7・ 小 剣 譽 三 郎の墓
森村に生まれた小 剣 譽 三 郎。 生年等不明ですが、 天保12年頃 [1841] の生まれと推定されます。 小剣は力士のしこ名。
上方相撲界に入り上位に君臨するようになり、 慶応3年頃 [1867頃] 故郷に錦を飾るべく帰郷の途中、 下関より航路別府に向かう船中[別府へ上陸後ともいう〕 同行した力士に毒入り饅頭を食わされ、 最後を遂げたと言われています。 [享年27歳位と推定]、 明治20年[ 1887] 栄光の力士を末永く顕彰するとともに、後世にこれを伝えようと墓碑を森村字乗越に建てましたが、 度々の水害で流失し、 墓石だけを現在地に移しました。
(別保小記念誌 「にぐるま」 引用)。
※幕末期に関西(上方)相撲で活躍した大分市森(旧・大分郡別保村大字森)出身の力士です。本名は幸 與三郎で、小剣は力士としてのしこ名(四股名)です。
※なお、見つけることができず、まだ調査中
8・若宮八幡宮


8・ 若宮八幡宮
鎌倉時代 [1192~1333] の創建で豊後の国の守護大友能直が、鎌倉の鶴ケ岡八幡宮の分霊を祀ったものと言われています。 初めは大分市大字横尾字岩船にあって岩船八幡宮として建立されたのに始まります。
昭和18年 [1943] の大洪水に伴って乙津川の改修工事のため、森天神社の宮地[現在地] に昭和40年 [1965年〕 移築し、 森天神社と合祀して若宮八幡宮となりました。 祭神は「大鷦鷯尊(オオサギノミコト)」 「菅原道真公」。




〇創建八百年祭記念碑ーA



〇五厘社の碑ーB

8・五厘社の碑
五厘社は、 明治24年 [1891]大津太四郎が、 幸富太郎、 大津幾三郎と共につくったものです。 青年がよく働き、 真面目な気風を作ることを目的として、家業の暇をみては草履、 縄、 綱などを作ることをすすめ、その利益金を一人一日五厘ずつ積み立てて、 組合員がお互いに助けあい公共事業をおこしました。 組合員は40名、 お互いに励ましあってよく働き、 25年間も続けて実行しました。 この事業が地方産業の奨励に役立ちました。
【五厘社之碑】
※写真の右側です
〇森天神社記念碑ーC



9・森水神塔

9 ・森水神塔
森地区は、昔から毎年のように大洪水にみまわれ、被害が多く発生し大変苦労していました。 このような大被害がないように、 水の神様をおまつりし、地区の住民で毎年お参りしています。


10・鴨園(かもその)川の排水ポンプ場
※乙津川左岸[別保側]に関するすべての樋管、樋門、ポンプ場は次をクリックしてください。
👉乙津川左岸樋管、樋門、ポンプ場

10 ・鴨園川の排水ポンプ場
近年の異常気象等により、 住宅への浸水被害がたびたび発生しました。このため国土交通省大分河川国道事務所では、 浸水被害の軽減を目的に「排水ポンプ場」 を平成19年 [2007] 3月新設しました。
雨が続くと鴨園川の水位が上がるため、 ポンプを運転して強制的に雨水を排水します。 毎秒4トンの排水能力があり、 今後、過去と同じ規模の雨が降っても被害を大幅に軽減することができるようになりました。
11・中嶋水天宮石祠(左) 12・或 司(くにつかさ) 竹 五 郎 塔(右)
11と12は同じところに祀られています。今、新中島橋が建設中ですが、その皆春側の堤防の法面上に祀られています。





11・中嶋水天宮石祠

11・中嶋水天宮石祠
この地区は、近年まで毎年のように大洪水にみまわれ、被害が多く大変苦労していました。 そこで、このような大被害がないように、 そしてこの被害でなくなった人や牛、馬の鎮魂を込めて水の神様をおまつりし、 皆でお参りしました。 以前乙津川河川敷の中にありましたが、 河川整備と 堤防建設のため、現在地に移しました。
12・或 司(くにつかさ) 竹 五 郎 塔

12・或 司 竹 五 郎 塔
中島生まれであるが、生年不明。 江戸末期は地方相撲が盛んで各村の祭典等に必ず宮相撲が盛大に行われ奉納されていました。 当時の名行司ではなかったかと言われています。 「願主府内領小野津留邑 〔村] 隅田川金五郎惟継」と向かって左側に刻まれ、裏側に 「石工、 久下新作、同源助、 同仁兵衛」 と刻まれています。
13・後藤九右衛門の碑

13・ 後 藤 九 右 衛 門 の 碑
江 戸 末 期 、 最 後 の 庄 屋 を 勤 め た 皆 春 中 島
の 人 で 、 大 変 立 派 な 人 で し た 。 名 前 は 宰 治 、又 は 道 忠 と い い 、 家 業 に 励 み 、 仏 教 を う や まい 、 水 害 な ど の 被 害 が 出 る と 率 先 し て 、 私 財を 投 げ 出 し 村 人 を 助 け ま し た 。 こ の 功 績 によ り 同 屋 敷 内 に 「 頌 徳 碑 」 が 建 て ら れ 、 村 人か ら し た わ れ た と 言 わ れ て い ま す 。 万 延 元年 〔 1860 〕 78 歳 で 亡 く な り ま し た 。
皆春周辺

14・阿部征矢太郎の碑

14 ・阿部征矢太郎の碑
明治元年(1868] 5月2日森町村に生まれ、 英吉利法律学校 [現在の中央大学]を明治26年(1893) 卒業、 明治28年(1895)28歳で県会議員、 その後、 別保村村長等多くの要職を勤め、 大分県の発展に大きく貢献しました。 また郷土別保のため別保橋の架橋などに多くの業績を残しました。 県会議員在任中に亡くなりました。
享年54歳でした。




15・乙津川の各水門 [樋管〕
乙津川左岸[別保側]の樋管、樋門、ポンプ場 👉乙津川左岸樋管、樋門、ポンプ場

15・ 乙津川の各水門 [樋管〕
大雨等で区域内の浸水対策として排水調整、 乙津川の水位が上昇した場合等に樋管 [水門] の閉鎖作業を行い浸水被害を未然に防止する重要なものです。 別保校区には、 乙津川下流から乙津第二樋管・皆春第一樋管・皆春第二樋管・森第一樋管・森第二樋管 岩舟樋管の六箇所があります。
乙津川水門、樋門、ポンプ場 (皆春側)詳細はこちらをご覧ください。
👉乙津川左岸樋管、樋門、ポンプ場







16・稲葉吉郎先生の碑

16・ 稲葉吉郎先生の碑
別府で明治20年 [1887] 3月に生まれ、 別府小学校を卒業後、 明治村の市原富士吉氏を師として傘の製法を習い、 その後別保村に移り住んで、傘の製骨を業としました。 村内近郊の人達に仕事を教え、 斯業の改善、販路の拡張に励み、 地方産業の発展に貢献し、 また村会議員としても活躍しました。



17・荒木治郎八先生の碑

17・ 荒木治郎八先生の碑
文久3年 [1863] 12月4日皆春に生まれ、 明治17年 (1884) から皆春小学校、 別保小学校の教員として40余年に亘って、 1400人余の生徒を指導し、 聖職一途に勤めました。 大正12年(1923)教え子達により記念碑が建立されました。




18・皆春小学校跡地の碑

18 ・皆春小学校跡地の碑
明治8年(1875] 創設。 皆春、中島を学区として授業を開始し、明治20年(1887]4月1日より尋常小学校となりました。 明治22年(1889] 4月1日森村、 森町村、皆春村が合併し別保村となりました。 明治25年(1892]7月13日森町尋常小学校と統合し、現在の別保小学校の位置に別保尋常小学校として移転しました。
※バイパス工事の施工範囲のため、取材できず
カーブミラー近くにありました。工事が終了後、また復旧されるそうです。


19・皆春天満社

19 ・皆春天満社
文化9年 [1812] に菅原道真公を主祭神として創建されたと古文書に記録されています。 明治9年(1876] 近郷近在各社の譽田別命、 倉稲魂命、素戔嗚命、 吉備子親王の四柱の神々が合祀され現在に至っています。




19・皆春天満社(市名木 皆春天満社の楠の木)

・市名木 皆春天満社の楠の木
平成12年 [2000] 4月3日 大分市の名木として指定されました。 樹齢250年位、 高さ17m幹周4.0m。 文化9年(1812)に菅原道真公を主祭神として創建されたときに植えられたものと言われています。
[高さ等は、 平成18年度調査〕



20・荒木燕之の墓

20・ 荒木燕之の墓
門田の人で、俳諧、華道、茶道に卓越した人でした。 俳諧を能くし、俳号を燕之と称し、その道の宗匠と仰がれました。
また群書槍術、馬術、 華道、茶道等の諸芸に通じ人々に尊敬されました。 詳細な記録は東京帝国大学 [現東京大学〕 に保存されています。 明治42年(1909) 3月に亡くなりました。


21・合沢亀喜翁の碑

21・ 合沢亀喜翁の碑
終始一貫地方自治のため力を尽くされました。 明治10年(1877) 推されて皆春青年団長を勤めること10年、明治28年(1895] には皆春消防組頭に選ばれ勤続9年、 皆著しい功績を残しました。 その後学務委員、 皆春区長、皆春天満社氏子総代、 別保村村会議員等を勤め温厚で明敏にして数理にすぐれており、みんなの信頼大なるものがありました。
※バイパス施工範囲内
22・明治大分水路

22・ 明治大分水路
灌漑水路として明治30年 [1897] 1月10日着工、 明治33年(1900〕5月竣工。 大分川の中流、挾間町大字谷の取水口から大分川の水を引き鬼崎、横瀬を経て廻栖野、 内植田等を灌漑し、 さらに滝尾地区から牧、 高城等を通り池平から明治で分岐し、一つは森、森町、 皆春を灌漑、一つは千歳、 三川、 三佐を灌漑する延長本線32kmに及んでいます。 別保へは、 明治地区葛木の東側でトンネルが終りここから南北に分岐し一方は南に進み、森、 森町地区、一方は北に進み皆春善福寺方面へと進み灌漑しています。



