現在の高田若宮八幡社

最後の「高田村志」を読む 第四章 を書いてから3年近くになります。時間ができたらと思いながら延び延びになっていました。15章まであるので少しずつでも進めていきたいと思います。
なお、この第5章 神社を作成し始めて神社の歴史を知ったような気がしました。

「高田村志」を記載するにあたり<再度記載>

「高田村志」は大正九年に書かれた高田の歴史、地理、人物等を記した地誌であり歴史書です。「続高田村志」など高田の歴史についての書籍はこの「高田村志」を参考にしており、「高田村志」は高田の歴史のバイブルです。
 この「高田村志」は臼杵市出身の考古学者、久多羅木儀一郎氏(鶴崎地区の多くの歴史書を書かれ郷土史研究に尽力された方である。)、中村壽徳氏(第12代高田村村長)、小手川又吉氏(後に公民館長、若葉幼稚園の初代園長、初代高田昭和井路組合長等をされる)の三人で編纂され大正9年6月10日に完成しました。鶴崎地区の小さな村の一つに過ぎなかった高田でこれほどの村志が発刊されたのは県下でも驚くべきものだったのではないでしょうか。

《「高田村志」を読む》  第五章 神社

若宮八幡社

第5章 神社 <若宮八幡社>を内容ごとに10ブロックに分け、それぞれに(概略)をつけてみました。

<画面クリックで拡大>

その3
若宮八幡社その2
若宮八幡社その1
①(概略) 現在(村志が書かれた明治末)当社は高田村の氏神で南宇野鶴に鎮座

<原文>
郷社・若宮八幡社は、当村の氏神にして、大字南字鵜ノ鶴に鎮座す。祭神は人皇第十六代・仁徳天皇にして、また大物主命(おおものぬしのみこと)、豊受姫命(とようけひめのみこと)、水波能売命(みずはのめのみこと)の三柱を配祀す。

➁ 若宮八幡社の勧請と創建

(概略)       
 当社は鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を勧請。1198年大友能直の創建。
 当初は大字九亀字亀甲に鎮座1586年豊薩戦争により焼滅する。

<原文>
当社は相州(さがみのくに)鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を勧請(かんじょう)せしものにして、建久九年(1198年)国主・大友能直(よしなお)の創建にかかり、当初は大字九亀字亀甲に鎮座せり。建仁元年(1201年)能直始めて社領として八百九十七歩(ぶ)を寄進せしが、後、応永元年(1394年)大友第十一代親世(ちかよ)は広く高田荘全部を以て当社の神領に充てたりという。されば社地、社殿等も規模広大にして、現、同所にて「馬場」と呼ばれる字(あざ)の如きは、当年若宮社の馬場たりしに由来すと伝へらる。然るに大友氏の季世(きせい:末期)、薩軍(さつぐん)当国に乱入するに及び、当社も天正十四年(1586年)其の兵燹(へいせん:戦争の火災)に罹(かか)りて烏有(うゆう:焼滅して無くなること)に帰せしが、幸いに神体及び縁起書並びに宝物の一部は焼失を免(まぬか)れるを得たり。

 

③ 大洪水で神体が亀甲から大字南字榎ヶ瀬へ 

(概略)       
(戦災後)の1625年の大洪水で神体が亀甲から大字南字榎ヶ瀬の古木に引
 かる。そこに、仮の社殿を設けるがこれが遷座の要因となる。

<原文>
翌十五年小祠を営みしが固より?昔日の観を見るべくもあらず。しかも此の社殿は寛永二年(1625年)九月に至りて大洪水のため流失し、神体亦(また)漂流して大字南字榎ヶ瀬の古木に懸かる。依りて同所に仮社殿を営みて暫(しばら)く奉祀することとなりしが、是れ実に亀甲より南に遷座(せんざ)するに至りし始めなり。

➃ 神殿を南ノ鶴遷祀

(概要)     
 1629年肥後侯・加藤忠広は神殿を現社地(南ノ鶴)に遷祀。当初は高田手永
 の宗廟として尊崇を受ける。1645年鶴崎に剣八幡社ができた後は、高田の氏
 神となる。

<原文>
寛永六年(1629年)領主・肥後侯・加藤忠広、神殿を現社地(南ノ鶴)に営みてここに遷祀し、稍々(やや)旧観に復するを得たり。此の頃にありては、当社は高田手永(てなが)の宗廟(そうびょう)にして尊崇せられしが、後・漸く範域縮小して琵琶洲一圓の氏神となり、更に正保二年(1645年)鶴崎に剱八幡社の創建されるに及び、遂に当村のみの氏神たるに至れり。

⑤ 社地の築上げの企画 

(概要)   
 1840年、社地が低く洪水被害を免れるため、常行の庄屋首藤理左衛門が
 社地の築上げを企画する。

<原文>
正徳三年(1713年)社僧・頼鏡(らいきょう)鋭坊(えいぼう)其の神殿を改築せしが、社地未だ低くして比年(近年)洪水の侵害を免れざりしかば、天保十一年(1840年)常行の庄屋首藤理左衛門率先して社地の築上げを企画し、自ら奔走斡旋大いに力むるところあり。

⑥ 地地の築上げと建造物の拡張

(概略)     
 東西約14.5m・南北約32.7mの範囲を高さ約2.4m盛り上げ、石垣で囲う。
 のべ2,700人以上の人手を投入。 同時に建造物の大拡張をも併せて行う。
 神殿は銅葺屋根とする。

2020年(令和2年)新田屋根の補修

<原文>
かくて東西八間・南北十八間余に亘(わた)る地域を、高さ一間二尺に盛上げ、其の周壁は割石垣を以て畳(たた)みしが、この工事に要せし人夫総員二千七百余人に及びたりという。之と同時に建造物の大拡張をも併せて行い、先づ神殿を改築して新に東向に営み、葺くに銅瓦(どうがわら)を以てせり。其の他拝殿、神楽殿、辯財天社、稲荷社、観音堂、鐘楼、四脚門、玉垣、庫裡等を新築或は修覆し、又馬場先参道の曲折せしを直通する等、各方面の工事悉く完成して、神域の面目全く一新せり。

[下記の歌は神社の美しさを歌ったものか?]

馬場先櫻樹
 咲きみつる 花の色香を 其のまにに たむけのぬさ(幣)も 神や見るらむ (詠人不知)

その後の災難と再建 

(概要)       
 安政元年の地震の被災、明治維新後の神仏混淆の禁止
 その後、神殿は明治二十二年六月に、拝殿は同十四年三月に新築。

 神楽殿、社務所等も整備される。

<原文>
かく輪奐(りんかん:建物の大きく立派な様)を易(あらた)にしたる社殿も、爾後わずかに十有五升(年)を経たるに過ぎずして、安政元年の地震(※安政東海・南海地震等)に際会して頽敗(たいはい)せし以来、修理漸く怠り、加うるに明治維新後神仏混淆を禁ぜられるに及び、佛寺に属する堂舎は移転或は毀却(ききゃく:壊すこと)せしを以て、復昔日の観を見るに由なきに至る。而して現今(※本書編纂当時)の神殿は明治二十年六月に、拝殿は同四十年三月に新築せしものにて、其の他神楽殿、社務所等よく整備せり。

⑧ 祭日と神幸祭(お上り・お下り)の変遷  

(概要)      
年3度の祭りを年2度に変更。
春の例大祭では山車が曳かれ、神様が御旅所へ渡る

神幸(おたり/しんこう)」が行われる。

<原文>
当社の祭日は、もと旧暦二月十五日、六月二十八日、九月十二日の年三度なりしが、現今は春秋二季即ち二月十五日と十月十二日の再度とせり。春季の祭礼は所謂(いわゆる)神幸祭にして、例年山車引(だしひき)の神事あり。神幸場(しんこうじょう:お旅所)は、草創当時は鶴瀬字鐙河原なりしが(現在の護岸工事をしている辺りか)、のち丸亀字亀甲の閼伽池畔に変更となり、更にまた字上徳丸西海寺河原に移れり。何れの頃よりか神幸の儀中絶して、久しく其の盛儀を見るに由なかりき。されば天保十一年当社の大改築に尽力せし首藤理左衛門大いに之を遺憾とし、同十三年六月十八日の祭典に当り久々にて復興し、西海寺河原に神幸の儀を行ふ。然れども当時ありては未だ表面上挙式を許されざりしを以て、夜間之を行い居たり。其の各種(※後)十年を経て嘉永六年に至り、正式に許可ありしかば、是より日中に執行することなりたり。かくして明治七年に至り四たび神幸場を変更して常行中洲河原に改め、爾後(じご)稍々(やや)久しく怠る(※滞る)ことなかりしが、近年また之を改めて、中洲河原と西海寺河原とを隔年交替に神幸場とすることとしたり。

⑨ 御幸所の変遷

(概要)
神幸場(目的地)は時代とともに「鶴瀬字鐘河原」→「亀甲の関伽池」→「上徳丸の西海寺河原」➔常行中洲河原
※・常行中洲河原は現在の高田橋の北駐車場辺りか。
 ・上徳丸の西海寺河原は現在の川添橋の上流河川敷辺りか。

 

<原文> 
秋季例祭が明治41年(1908年)3月31日に「神饌幣帛料供進社(※県や郡からお供え物の費用が与えられる神社)」に指定されたことをきっかけに、最も重要な祭りへと位置づけが高まりました。
 ※現在「春季例大祭」と「秋季例大祭」に二つの祭典の始まりはこれからか。

⑩ 秋例祭の位置づけとその変化 

<原文>
又秋季の祭典はもと例祭たるに過ぎざりしが、明治四十一年三月三十一日神饌幣帛料供進社(しんせんへいはくりょうきょうしんしゃ)に指定せらるるに及び、最も重なる祭礼となり、爾来十月十二日の祭日には毎年郡(※大分郡)より供進使の参向あり。

現在の例大祭

現在の御旅所