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ふるさと川添の歴史誌の第3回を掲載します。
部分的にアップの予定でしたが、首藤氏の川添の人たちに川添について知ってほしい。という要望もあり、時間はかかりますが、「ふるさと川添の歴史誌」をできる限りアップしたいと思います。

第3章 川添の自然環境

1・ 古代からの地層 緑泥結晶片岩(りょくでいけっしょうへんがん)の誕生


(1) 中生代 ジュラ紀 1億8千年前に誕生
(2) 川添の緑泥結晶片岩類は杵河内 宮谷 広内 九六位山脈
(3) 三波川層(さんがわそう)
  九六位山から群馬県の利根川の支流の三波川 (群馬県) まで続いています。ここは中生 
  代に広域変成作用をうけた地帯です。広内峠の岩は渦を巻いています。
                 ※[学研 学習百科大事典。 P461]

2・ 間氷期の化石 赤い土 (鉄分)

西日本の丘陵や台地には、 あざやかな赤い色が見られます。 これは何万年前の、今より暖かった時代にできた土の名残です。 鉱物の風化が非常にすすみ、養分元素や珪酸にとぼしく、鉄やアルミに富んだやせた土です。
ここには、はげ山や小さな松林が多く樹木や作物は、よく育ちません。
※[学研 学習百科大事典。 P400]

大野川の右岸にある丹生台地の表層には、 赤い色が見られます。これも間氷期の化石士といわれます。
下広内の山の傾斜を削った道路工事あとを見ると赤い土が見られます。
川添公民館横にある村上広治氏方では井戸水で風呂を沸かすとタオルが赤くなると言われています。

3・ 地域別の地質(参考文献 大分市の地質図)

1) 大野川沿いの川添に面した地区は沖積地帯 (礫・砂及び泥)
2) 川添橋から百堂登り口まで滝尾層群 (軽石質砂・泥および砂)
3) 百堂登り口から宮河内まで東植田層群
  (シルト及び砂・軽石質凝灰岩層及びガラス火山灰層を挟む)
4) ハイランドは滝尾層群 (軽石質砂・泥および礫)
5) 迫・阿蘇入は敷戸火砕類堆積物
  イ・ 非溶結のガラス火山灰及び軽石 (普通角閃石黒雲母流紋岩)
  ロ・ 泥質片岩
6) 新田は自然堤防堆積物 (砂)
7) 杵河内、 宮谷、 広内、 九六位 (白亜紀の三波川変成岩類)
8) 川添の背後にある丹生の台地は大在層 (礫砂及び泥)
9) ハイランドの南側 (貝ヶ迫) に安山岩がある
(通商産業省工業技術院地質調査所 平成9年3月28日発行 大分県立図書館で調査)
★御手洗謙一郎氏談
丹生の台地には阿蘇山が噴火 (9万年前 ホヤ、 明治の貝塚遺跡からも出土) したときの灰が堆積している。

10) 沖積地帯に埋まった木の化石 (珪化木) を神明社に奉納

神明社・珪化木
大木が土砂に埋まり堆積 した中で何万年もたつと、このような鉱物に変化していきます。 大野川一帯の三角側には地下深く木の化石物が埋まっています。

4・ 断層  (大分市の断層図 添付資料209頁)

1) 月ヵ平断層 (鶴崎橋ー大在志村一月ヵ平)
2) 種具一若葉台一岡断層
3) 丸尾山断層 (高尾 横尾下組 百堂)
4) 杵河内 浄土寺 赤迫断層(この断層が赤迫で佐賀関断層と合流している)
5) 佐賀関断層 (宮谷 ハイランド 赤迫土手 屋山 佐賀関コース)

5・ 大分市近辺で発生した過去の大地震

I) 慶長の大地震

[インターネット 防災情報新聞]

1586年の「天正大地震」から10年後、 1596年(慶長元年)には、まず9月1日に、 豊後地方でM7.0 前後の地震が発生、 別府湾の沿岸には大津波が襲来した。
 府内 (現在の大分市) では、ほとんどの家屋が流失したという。 この地震で、 別府湾にあった瓜生島が水没したという伝説があり、 近年調査も行われたが、 手がかりも見つからず、 いまだに真意のほどは不明である。
記録は不明ですが、 おそらく、 川添もやられていたものと思われます。

2) 安政の大地震

<豊予海峡地震 出典: フリー百科事典 「ウィキペディア」>
豊予海地震(ほうようかいきょうじしん) は、 江戸時代後期の1854年12年26日(嘉永7年/安政元年11月7日) 辰下刻 (8-9時頃)に、豊予海峡を震源として発生したマグニチュード(M) 7.4の地震である。豊予地震、 豊予大地震とも呼ばれる。
概要
震源地は現在の九州の大分県と四国の愛媛県との間にある豊予海峡のやや大分県寄りで、 マグニチュードは7.4程度と推定される。 安芸灘から伊予灘を経て豊後水道に至る領域を震源とするプレート内地震のひとつと考えられる。
この地震の直前には、 12月23日の安政東海地震 (M8.4) 12月24日の安政南海地震 (M8.4) 巨大地震が相次いで発生している。
本地震は南海地震の約40時間後に発生している。
被害
2日前に発生した安政南海地震と被害地域が重なるため、現存する記録からはいずれの地震による被害か区別が困難であるが、 豊後国鶴崎で100棟の家屋が倒壊した。
広内ではこの地震の影響で48戸、 納屋を含め96軒と牛1匹が焼失している。
臼杵藩御会所日記12月29日の欄に広内大火事の記述がある。

[参考 日本の巨大地震マグニチュード上位]

・1位:東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)マグニチュード:9.0(最大震度7)
・2位:昭和27年十勝沖地震     マグニチュード:8.2
・3位:平成6年北海道東方沖地震  マグニチュード:8.2
・4位:平成15年十勝沖地震     マグニチュード:8.0
・5位:昭和58年日本海中部地震   マグニチュード:7.7


関東地震関東大震災) マグニチュード:7.9
兵庫県南部地震阪神・淡路大震災) マグニチュード:7.9
令和6年能登半島地震          マグニチュード:7.6
平成28年熊本地震            マグニチュード:7.3
令和8年熊本地震             マグニチュード:7.1(最大震度7)

6・ 川添に存在する鉱石と化石

種 類特 徴場 所
石灰石サンゴの化石火振 深迫
金鉱石石英中に含む杵河内・長迫
水銀朱硫化水銀赤迫池周辺
緑泥結晶片岩ヒスイの原石三波川層
黄銅鉱黄色黄鉄70%
 銅30%
種具 
勝ヶ平神社周辺
昆布の化石川添小学校裏山
貝殻迫の裏山からハイランドの入り口辺りまで出土
間氷期の化石赤 鉄分 井戸水が赤い地域浄土寺・金谷・百堂清流苑
迫上開一般

7・ 古代の朱  松田壽男 (まつだひさお)ちくま学芸文庫

『丹生の研究一歴史地理学から見た日本の水銀』 を早稲田大学から出版
 昭和36年に大分合同新聞社、 大分大学、 早稲田大学が合同で、 丹生、宮河内一帯を朱 (硫化水銀) について学術調査を行っています。
 その結果をこの本にまとめてあります。 その内容を以下に記します。
(P158) 調査隊は丹川 (あかがわ) 地区から宮河内地区へと進みこの地帯はむかしから朱砂 (しゅさ) の産出地があったとし、 現在でもそうであることは、 自然科学から証明できたし、一行の及川技師は赤迫にある丹生鉱山 (奥ヶ原 佐野清掃センター南側の谷一広内にも出る)のニッケル鉱に混つて朱砂が産出されたことを、 実際に確認している。
宮河内地区は大野川の下流右岸にあたる。そして『豊後国志』 によれば、丹生神社の一宮は宮河内地区にあったという。
 私たち一行は、 まずこの地区のうちもっとも川上にあたる火振 (ひぶり)に鎮座する阿蘇神社を、有力な候補地として進んでいった。 火振の狭い河原に、 大野川を背にして県道に面し、ポツンと立つ神社だった。
 むろんこのあたりも朱砂地帯と確認したものの、 私の心は満たされない。たぶん宮河内には、 もう一つ阿蘇神社があったはずだ。 それに気づいた私は、 火援の阿蘇神社からもとの道を川にそって1キロほどもどる。 なんのことはない。 道の上におおいかぶさるように立っていた。 名ばかりの小祠ながら、 元宮 (もとみや) と呼ばれ、 部落の名を阿蘇入という。
部落の古老は、明治年間にこの社から火振に阿蘇社が勧請されたと話す。
私は、そのためにこの社が元宮と呼ばれていると、一応は受取ったが、よくよく考えて見ると、 どちらにせよこれが丹生の一宮であったにちがいない。 私が社地から採収した試料は驚くべし、 水銀含有0、 13%という高品位を示す物だった。この社こそ、 朱砂の採掘にちなんで創立された丹生神社だったのである。

★水銀およびその原料たる辰砂 (朱砂、 丹砂) は古来、 金属製錬、 鍍金、
医薬 顔料 化粧品などに広く用いられた重要な金属資源である。
上記以外に古墳や磨崖仏にも使用されています。
★丹生 (にゆ) の地名は全国で凡そ65所あるといわれています。
★この本は、全国の丹生地区の水銀について調査し、まとめています。

8・ 気候 

温暖で、冬季は西北の風強く、 大野川の川嵐(かわあらし)は一層の寒さを感じます。
台風時の豪雨で新田地区、 迫地区は内水で床上浸水になります。
内水対策で追地区は平成16年3月国土交通省が約15億円の経費を投入し排水ポンプが完成しました。
この排水ポンプのおかげで床上浸水がなくなり安心して暮らせるようになりました。

9・ 九六位山 本城山の森 「大分市文化財だより 2004 年号 特集」

本城の森の樹種は、 イスノ木、ウラジロガシ・スダジイ・アカガシ等が主体となっています。 このような森林は、かつて西日本に広く分布していた常緑広葉樹林の残存林といわれています。 今後動物を含めて詳細に調査をする価値のある森林です。

10・ オオサンショウウオの生息

川添では絶滅危惧種である大分サンショウウオが生息している。
大分キャノン工場の立地に伴い、現在川添橋から丹生の下久所に向けて道路を新設しています。
清流苑裏手の高台を建設途中で池にサンショウウオが確認されたので、保護するための工事が変更されました。
池の埋め立てを中止し、 高架に変更しました。 嬉しい事です。

★ 若葉台クリニックの谷にも生息している。
★ 迫川ではメダカ、 コイ、フナ類が生息しています。 川添一帯は自然環境に恵まれています。

11・大野川

川添公民館での講話

 川添公民館長 殿 平成24年2月3日 (金)  まとめ 迫 首藤安男
          「昭和18年 川添の大洪水」 について

豊かな文化と自然を育み、 生活、 産業を支える大野川
・幹川流路延長 107km
・流域面積 1,465 km²

昭和12年当時までは乙津川と分かれていました。 昭和4年堤防築堤、河道の掘削など本格的な工事に着工、 昭和37年乙津川分流堰建設によって現在の大野川となりました。
川添の迫村の上に白嵩という山があり、 その下を流れていることから江戸中期までは白嵩川と呼んでいました。
大野川は荒れるほうの川であることから、 大昔より川の流れる方向がたびたび変わったことは高田風土記の中にも書かれている。
今の本川は元は (昔)地面であった。 寛永 (1624~1642 江戸初期) の頃の水害により川と変化したと伝えられている。 今でも新川とよぶ人もいる。
 このように水流が変化して昔の本流は小川となり、 東の小川は絶え、溝だけ残り (現在の浄土寺、 金谷道路) 中央の新川本川となり、 水の勢いが強く水害はたびたびで洪水の時は堤防を破って田畑をうずめ、 荒地となって農民を苦しめ、 飢饉で人や家畜が死亡したと伝えられている。
 高田誌によれば、 1624年 (寛永1年) から1865年 (慶応1年)までの240年間に30回、 明治から大正4年まで48年間に18回の洪水被害をうけている。

「参考資料 鶴崎の歴史と地理  鶴崎町史]

OBS[大分放送]取材 昭和18年川添の大洪水の状態を示す遺跡調査

<OBS 株式会社大分放送 報道局放送部 記者 一史>
県立図書館で地震と津波の展示をしています。
OBSの取材時、大野川の洪水に残る被害状況を示すものがないか問われて、 川添に水害時の標識がある事に気がつき案内してきました。

取材日程は平成24年2月4日 (土) 午後1時からに決定しました。
当日撮影内容を検討した結果昭和18年9月20日に土手が破れた時の水の高さを示す水位標、当時の体験者の生の声、新田地区の洪水対策の石垣を撮影収録しました。

体験者の生の声
椎原好夫氏
 全部家が流されてきて、 つまってしまって、その中に牛や馬が一緒に死んでいました。

椎原ヤス子さん
 子ども心に水の恐ろしさを初めて知りましたね。

以上、 上記内容が平成24年2月7日 (火) イブニング NEWS午後6時
27分に放映されました。

放送のための準備資料

洪水日時 昭和18年 (1943) 9月20日
大野川が氾濫、 毎秒 8,800㎡の流量で有史以来の洪水であった。
宮河内では堤防が決壊し、 家屋が流失し20数名が流されていましたが消防団の救助活動が早く、 舟での救助で死者はありませんでした。
決壊場所は宮谷堤防と金谷の堤防で、 金谷部落の民家は舟で通い、 新田地区は全戸が孤立しました。

1・ 「被害状況」 昭和18年9月23日付大分合同新聞)

   死者行方不明合計 59名
   流出家屋合計 197戸
   半壊家屋   1,560戸

鶴崎高田戸次松岡桃園竹中川添日岡
死亡行方不明18181111
流出家屋403252121829
2・ 洪水体験

① 迫地区の消防団は大野川に人が流されていたので腰にロープをつけ救助しています。
② ある夫婦と子供たちの避難活動場所  鶴崎寺司  乙津橋手前、
  母親がおにぎりにし、一人ひとりの子ども5人の背中にかるわせ、一方父親はせまりく 
  る増水の中でタンスを開け階段式にし、 屋根裏をやぶり全員を屋根の上に引き上げ難を
  逃れています。
  最終的には水は平屋の軒先まで来ていた。
③ 鶴崎法心寺では軒先まで水につかる
④ 森町専想寺では避難してきた人や牛馬でごったかえした
⑤ 乙津の親戚では牛の死がいが庭に流れて来て片付けが大変であ った。
⑥ 水がなかなか引かなかった原因
・日豊線にかかる鉄橋下に多くの木が詰まった
・日豊線の高架が堤防の役目になり溜池状にった
⑦ 救援物資の発送
東京から父親が救援物資を送っていた

3・鶴崎中学校での洪水体験記

(鶴崎中学校校友会誌 昭和18年発行白井正巳氏所有資料)

① 昭和18年当時の洪水発生時の鶴崎中学校の場所
  現在の乙津川の河川敷 (当時は河川敷内に桑畑もあった) 高田の常行の前を流れる乙津
  川で、 別保の若宮八幡宮前の河川敷にありました。
②体験者
  宮谷 三浦岩雄新田 安部俊光新田 白井正巳百堂 釘宮真一中津留君、 教師の 
  5名で宿直警備 (各地区で交替制になり当日が川添の当番であった) に当たっていた。
  現在の大野川と乙津川との接点にある溢流堤分流堰は当時はなく土手を築いていた時代
  です。 
  従って乙津川は機能せず、 従来からある河川敷があいていたので鶴崎町立鶴崎中学を鶴   
  崎小学校にあった学校を河川敷に移転新築した。
「生徒洪水記録 新田 安部俊光 中学2年生」
  警備の日
  警備隊の任務に就いたのが19日の午後5時、 降りしぶく豪雨の中であたえられた勤務を 
  終えて司令白井君以下4名、 昨日より一段と烈しくなった20日の朝を迎えた。
  5時起床直ちに学校警備に当たっていた8時半ごろ朝食を取り巡察。
  その時はもう非常な増水で心なしか刻々とあふれてくる来る様な気がする。
   研修の後どうも私は水が気にかかるので1年の中津留君を巡察させた。
  ところがなんという増水の早い事だろう、 早速体錬場に上がって来るの報告を受け行っ   
  て見ると嘘ではない、 時に9時20分ごろ。 堰を切った白馬はかんせいをあげて今しも 
  体錬場は一面の湖となっている。
  私は堤防が切れたと直ちに悟り赤峰先生の指揮のもとに森部落へと避難にかかった。道
  に出て見ると奔馬たけるがごとく、 どどうっと濁流が渦をまいている。 道路は深くて
  とうてい歩けないので桑畑の方に行って見た。 が歩一歩水は深まりついに股まで入らね 
  ば歩けないようになる。
  ようやくのこと桑にしがみついて引き返し道路上まで帰ってきた。
  もうその時は立っていられない。 5人もろとも手をつなぎやっと校舎にたどりつく。
  それから赤峰先生の指揮にて窓を皆開きその上にあがっていた。
  水は激しくずんずんと増している。 これでは駄目だと衣服を脱いで泳ぐ用意をした。
  浮いている教壇及び流木等を集め泳ぎ始めようとしたが泳げぬ者がいて進退きわまる。
  仕方がないので炊事場の屋根にようやく登り、 減水するを待った。
  しかし、水は減るどころかますます増水し、ごうごうと校舎をつつんで流れて行く。
  見まわせば別保の方は堤防をところどころで越して入り、ひとのみとかかっている?。
  高田村の方はと見ればひとつ島と化している。
  我が校舎も一つの小島となってしまった。 電柱は折れ、 植木は倒れそのものすごさ何   
  のたとえ様もなかった。
  その時、 第2校舎が職員便所をバリバリと突切って流れて行く、時10時20分頃、 考え 
  てみると大工小屋及び仮校舎はずっと前に流れていたのだった。
  第2校舎が流れて後10分も経たぬ時に自分達がいた第一校舎がぐらぐらと揺れ始めた、
  すはと屋上に登る。 先生はやや遅く決死の奮闘の後屋上に登って来られた。
   校舎は静かに浮きすべて流れて行った。
  しかし、神の助けと云うべきか。 幸いに桑畑の中に止まって動かなくなった。 始めて 
  ホット一息入れたが寒さには耐えきれない。
  雨が個々の小石の様にひしひしと当たって痛い。 寒い。 板を取ってきて背に当てて痛  
  さを防いだ。
  救援隊が来ぬかと四方を見まわしたが何物も視界に入らぬ。 止むを得ず瓦をはぎ取り屋 
  根裏の梁に身をひそめて寒さをしのぎ減水を待っていたが減水を始めたと思う間もなく
  またずっと増水して来る。
  数回繰り返して後わずかながら減水しはじめた様だ。 その減水も遅く、 自分達の心を
  いらただせた。 それまでの寒さ及び飢えをしのぐ苦しさ、それを克服してゆく皆の苦心 
  実になみなみならぬ物があった。
  何時間たったのだろうか。 水も大分減りまた雨も止んだ自分達の居場所も大分良くなっ
  た。
  外に出て見ると別保の方で誰か合図をしている。 こちらからも応じて見たが理解できな
  い。
  黄昏の色も濃くなり寒さも烈しいのでまた屋根裏へもぐりこんだ。
   その後自分達は眠くなって来た。 5人1塊になってうつらうつら眠っていった。
  幾時間位たったであろうか人声がする。 目をさました。
  一緒にいた者が誰かと話をしている様だ。耳をすますと確かに外で人声がしている。  
  待ちに待った救援隊が来たのだ。 皆は声に嬉しさを表して「おじさん!」 と言った。
   自分は目に熱い物を感じた。
  出水してから約19時間困窮欠乏に耐えてようやく新しい世界に出たのだ嬉し涙だ。 感 
  激の涙だ、 空を仰げば円い月がこうこうと地上の我々を照らしている。

   別保の村人に救助され大津さんの家にて一夜を明かす。昨夜の風雨とうって変って上 
  天気、 自分は東の空を伏して拝み、有難うございます、 と何にともなく祈らずにはお
  れなかった。後はただ涙が出て来て仕方がない。
  我が校舎はと見れば鳴呼新興の意気を謳った中学も今は無惨な様と化した。 いつ誰が立 
  てたのか日ノ丸の旗が翻闘と朝日に翻っている。
  校舎が流失したとはいえども自分達の心は砕けてはならぬ。 自分達の校舎は流失したが
  これは尊い天の試練である。 それに対して頑張りと努力がなくてはならぬ。

  生死の巷を彷徨した自分も良い体験をした。 あの時の先生の愛と先生への敬いと友の信 
  とは永遠に忘れぬ想いとなろう。 あの気持ちこそ今後あらゆる方面に生かしてゆかねば
  ならぬ。 人生を尽して天命を待つの古語もまた西郷南洲の幾度が辛酸を経て志始めての 
  境地も何かわかる気がする。
  やろう復興へ!復興の意気に燃えて鶴中健児の意気をこれから示すのだ。

4・大水害水位標の設置 (金谷)

2・水神の塔の建立

宮谷、水神の塔 旧象女姫(みずはめのみこと)を祀る。

              水神の塔

大分県大分市川添地区(宮河内)にある「水神の塔」は、江戸時代後期の天保元年(1830年)に建立された石塔です。この地域を流れる大野川の水害から村人を守り、豊かな水恵に感謝するために水神(罔象女命:みづはめのみこと)を祀ったもので、今も地域の歴史を伝える史跡として親しまれています。

<川添校区の歴史マップに記載されています。>

3・洪水対策

ア・ 古くから住んでいる人は高台に居住しています。

イ・新田地区では 「うずら積み工法」による石積の上に家屋を造る
               <新田地区の白井正一氏 平成元年盛夏>
うちの屋敷は「うずら積み」 を何年もかかって高くしてきた。そのため屋敷の造成費用が家を建てるほどかかった。 田や畑より4~5メートルは高くなっている。 それでも、 昭和18年の大洪水のときは天井近くまでつかった。 米、 味噌 醤油等は水害の時の話をよく親より聞いていたので2階へ運んだ。 牛が流されそうになったの母屋の床上にあげた、 牛も、 水位が高くなり身の危険を感じたのか2階へあがってしまったのにはびっくりした。 母屋の前に 「薪小屋」 があったが、 それが家の横まで流されていた。近くの人が洪水で流されたが大樹につかまり助かった。
 金谷の放水路の近くの堤防が決壊したため、急に増水したため他へ避難する余裕がなかった。 洪水がひいたあと家の中は泥や流れ物でどうしてよいか、なかなかもとのようにするには、時間がかかった。
 炊事をするにも井戸がふさがり水がなく、 ご飯を炊くにも薪が流されどうにもならなかった。 金谷交差点の東側に金谷校があったがその校庭まで水位があったと聞いている。
水害の時のこわさや苦しみは言葉で表せず、 また、 わかってもらえないだろう。


ウ・堤防をつくる

住みよい地域を作つくるために、遠い昔から祖先の人々は水とのたたかいをしてきた。 この、 新田堤防づくりも新田の人をはじめ川添地区民は力を合わせ必死で頑張ったことでしょう。
堤防づくりについて、 川添公民館の児玉睦雄氏は次のように話してくれました。 昭和18年の台風による洪水のため新田の堤防は宮谷の水門の近くと金谷の水門の二箇所で決壊した。
終戦 (昭和20年) になって復員したときはほとんど修復にかかっていなく、被害の大きさにびっくりした。 私達、 村の青年団員は奉仕作業 (今のボランティア活動) として全員協力して堤防の復旧工事に取り組んだ。 工事は今のようにダンプカーやブルドーザーがなく、 トロッコを人や馬でひっぱっていた。 土を掘たり、トロッコに入れたりするのは、クワやスコップを使っていた。
冬でも汗をかき、夏は炎天下の中でも休むことなくみんな頑張た。金谷の堤防工事作業中、 体格の良い元気な先輩が土砂に埋ってなくなったことは、今でも忘れられません。
当時の村財政は必ずしも良かったとはおもはないが、 堤防づくりは村を挙げて全力投球したと思われる。

国は昭和4年に大野川全域にわたり治水計画をたて着工した。 昭和21年と昭和49年に過去の水害の教訓を生かして二度に渡り改修工事を立て工事を進めた。 現在の堤防は昭和56年に完成した。

エ・ 宮河内一帯の大谷川河川拡幅工事中で平成25年度完成

(川添 宮河内)宮河内排水樋管 & 宮谷樋門
川添 宮河内 )宮谷樋管

設置位置:大野川河口から 10.72 km 地点
     大分市川添宮河内 
完成  : 1995年3月竣工 管理者  : 九州地方建設局
形状: 幅1.0m 高さ1.0m ∮900
    : ゲートの数:1連
設置位置:大野川河口から 10.72 km 地点(右岸側・大分市宮河内地先)断面寸法(サイズ)1.0m × 1.0m

(川添 宮河内 )宮谷樋門

設置個所 :大分市川添宮河内
     :国土交通省

完成   :2021年(令和3年)
径間 高さ:4.6m×2.5m 
      2門 
開閉方式 :電動ラック式

(川添 宮河内 )大谷樋門

堤防側から望む
川側から望む

・管轄  :国土交通省
適合流量: 大谷川計画流量 953m/sに適応した大断面のボックスカルバート
完成年 :2011年(平成23年)3月 

 形状  : 幅6.05m×高さ3.8m 3門
       ローラーゲート 
大野川の支流である「大谷川」が大野川の本流へと合流する地点に設置されています。 

4・ 堤防破壊防止対策

ア・ 乙津川への溢流堤分流堰を完成させ、 水流圧がかかれば自然に乙津川に流れるように   
  している。

上側が大野川、右に乙津川


イ・ 宮河内地区の堤防を厚くし補強工事完了


5・ 河川防災ステーションの設置

堤防破壊後の修復作業資材の保管、 平成10年に完成


6・ 内水対策

ア・ 迫地区では内水対策として、 土手内に溜まった水の排水設備が平成16年3月に15億円
   かけて完成
イ・ポンプの排水能力は1秒間に5㎡
ウ・ 運転は地元の消防団
エ・ 運転実績
  平成16年には台風が4回あり4回とも1回につき10時間運転を実施。
  平成18年には台風が1回あり20時間の運転であった。
オ・ 評価: 排水ポンプの稼動により家屋の床上浸水はなくなった。

迫排水機場(排水ポンプ場)
(国土交通省管轄)
・設置個所 大分市川添迫 
 大野川右岸3.2km
供用開始: 平成15年(2003年)4月
総排水能力: 5.0 m3(5000ℓ)/秒
川の水位が高くなった時逆流を防ぐため、
川平樋管のゲートを閉めます。
それと同時に内水被害防止として排水ポンプを稼働させ、内水を強制的に大野川へ排水します。


12・ つるさき環境フォーラム 【大野川となかよくなろう】


川添小学校 4年生1組
日時 平成23年1月21日 (土) 10:00~12:00