👉鶴崎地区通信 (旧鶴崎市・鶴崎地域)全般

※首藤氏の原本をHP用にアレンジさせていただいております。


1・遥かなる古代: 丹生遺跡と阿蘇入横穴古墳群

台地が海に面していた数万年前

数万年前もの昔は大野川、 大分川の河口に近い流域は海で上野ヶ丘、 明野、 丹生の各台地部分が海に接した陸地であったといわれています。
 そして小池原 横尾の線が奥深く海岸線であったということは、 共に貝塚のあることでそれを知ることができます。

考古学界を揺るがした「丹生遺跡」

その台地の一つである丹生台地には、 昭和37年、38年に旧石器時代から縄文時代にかけての石器類が数多く出土して、 考古学界に大きな話題を提供して有名になった丹生遺跡があります。
丹生郷と川添に挟まれたこの台地は川添の台地でもあるわけで、 近くの一帯には数万年も昔から古代人が住みついていたことが実証されたわけです。
そして大野川上流から大量の土砂を運んできて沖積地ができ、 平地が広がるにつれて古代人の居住区域も下方の川近くに移ったことが想像できます。 すなわち、その低地の川近くがいわゆる川添です。

卑弥呼の時代と重なる「阿蘇入横穴古墳群」

宮河内の小字阿蘇入の山際には、これまた立派な金環、 銅環、 勾玉、 管玉、それに刀剣類が出土した横穴古墳群があります。
この古墳群は紀元300年頃のものと推定されていますので、 耶馬台国卑弥呼の時代から大和政権樹立の前後のものとなります。
丹生台地に住んだ古代人の子孫がどこから移住してきた人種かはわかりませんが、ついにその頃にはこの川添一帯にも、一つの勢力をもった種族が住んでいたことがわかり、 郷土川添の古代に思いをはせると、 限りなくロマンが広がるのを感じます。


2・ 川添村誕生までの経緯

川添の地理的特徴と「行政の複雑な歴史」

北は迫から南は宮谷火振まで約8kmにわたって、 細長く大野川に沿い、 さらにすこし山手に入った広内をふくむ一帯を川添と呼んでいます。 が、 川添というようになったのは明治の中ごろからで、それまではいわゆる川添村というのは存在していませんでした。 昔から広くもないこの地域はいくつものちいさい村、 村に分かれ、 中世以後ずっと時代、 時代の支配者によって、所領区分、 行政区分が複雑に分割され、 統治され続けてきました。

「難産」の末に生まれた川添村

 それがやっと明治に入り22年の行政区分改革によって迫、 種具、 宮河内、広内の各村が合併してはじめて川添村が生まれたのです。
 このように統合合併によって、 生まれた新生の村に、 新しい村名をつけるに当ってはいろいろ考えられた末、 おそらくこの大野川に細かく、 長々と沿った村の特殊な地形を象徴して、 「川添村」 という名前がつけられたものと思われます。
 難産の末、 やっと誕生した川添村ですが、 行政上のままこ扱いはまだまだ続きます。 海部郡から北海部郡へ、大分郡へと次々と編入替えされ、さらに鶴崎市への合併と、 幾多の紆余曲折を経てようやく現在の大分市川添の姿に落着いた次第です。

川添の歴史・領地変遷年表

それでは川添村がどのようにして誕生したか、 その経緯と年代を追ってたどってみましょう。
昔から6ヵ村に分かれていた川添は、 昭和51年に刊行された「鶴崎地方歴史年表」によると次のようになります。

時代    年代(元)  区分・所属の変遷           歴史的背景と詳細
鎌倉中期1285年
(弘安8年)
高田荘所領:
迫村、鶴村、中ノ瀬村

その他:
百堂村、宮河内村、広内村
中世鎌倉府に提出された『豊後国図田帳』による記録。当時、高田荘(東大分、日岡、三佐、鶴崎、高田などを含む大規模な荘園)の大部分(180町)は京都の寺領であり、地頭職の三浦介が管理していた。

<「高田村志」参考>
高田莊 二百町
本荘  百八十町 領家 城興寺
         地頭 三浦助入道殿

牧村  二十町  領家 城興寺
         地頭 御家人牧三郎惟行


安土桃山1594年
(文禄3年)
臼杵藩領:
宮河内村、広内村


大友領地が秀吉に没収された後、 秀吉によって家島、森、 森町、小池原、 猪野、 横尾、 葛城の大部分、 大津留、 毛井各村と供に宮河内村、 広内村は臼杵領となる。

江戸初期1601年
(慶長6年)
熊本藩(肥後領):
迫村、鶴村、中ノ瀬村、百堂村


関ヶ原の合戦後、徳川家康によって鶴崎や高田などと共に、4ヶ村は「熊本肥後領(加藤氏、のち細川氏)」となった。

江戸中期1803年
(享和3年)
高田郷:
迫村、鶴村、中ノ瀬村、百堂村
丹生郷: 宮河内村、広内村


この頃完成した『豊後国史』の記録。川添は小さな村に分かれ、さらに「熊本藩」「臼杵藩」の2つの藩領に大きく二分された状態が明治初期まで続いた。


江戸中期1813年
(文化10年)
熊本藩高田手永会所領:
迫村、鶴村、関門村の枝村(中ノ瀬村、百堂村)


熊本藩高田手永会所編纂の『高田風土記』による記録。
中ノ瀬村と百堂村は、大野川を隔てた「関門村の枝村」として組み込まれていた。迫村・鶴村は志村、小中島と共に「近在4ヵ村」、中ノ瀬・百堂を含む関門村は「洲ヶ在8ヵ村」と呼ばれた。

明治1871年
(明治4年)
熊本県: 迫村、鶴村、中ノ瀬村、百堂村
臼杵県: 宮河内村、広内村

同年のうちに全村が大分県になる

廃藩置県による一時的な行政区分。同年のうちに「大分県」へと統合され、全村が大分県所属となった。


1875年
(明治8年)
第4大区(海部郡):
迫村、種具村、宮河内村、広内村



大区・小区制の実施にともない、鶴村・中ノ瀬村・百堂村が統合されて「種具村」となる。


1889年
(明治22年)
北海部郡 川添村の誕生
(迫・種具・宮河内・広内の4ヵ村が合併)


町村制の実施により、迫・種具・宮河内・広内の4ヵ村が合併。ここで初めて「川添村」が誕生した。

昭和1950年
(昭和25年)
大分郡への編入替え

所属が北海部郡から「大分郡」へと変更される。

1954年
(昭和29年)
鶴崎市の誕生

鶴崎町・明治村・高田村・松岡村・川添村の5町村が合併し、人口28,000人の「鶴崎市」となる。

1963年
(昭和38年)
新「大分市」の誕生(旧)大分市・ 鶴崎 (市)・大分町・大南町・ 坂ノ市町・ 大在村が合併し、
2市3町1村の大合併により、川添は「大分市川添校区(大分市川添)」となる。
平成2005年
(平成17年)
平成の大合併大分市、佐賀関町、野津原町が合併し、現在の広域大分市となる。

【主要参考文献・出典】

  • 『鶴崎地方歴史年表』(昭和51年刊行)
  • 『地名の由来とその歴史 (川添P57~64)』(鶴崎地区文化財研究会 平成3年度研究紀要 研究小報 第14集)
  • 『川添グループ記』 瓜生田春喜・姫田弘・石川敏明