手元にある「高田公民館だより」から当時の時代背景や出来事を当HPの「平成30年の記録」に転写する作業を進めていますが、その中で個別にあげてみたいものがあれば単独でアップしてみることにしました。
今回は平成5年4月から平成12年3月まで高田校区公民館長を務められた中村壽夫さんが退任の春に「公民館だより」に書かれた「高田輪中について」をアップしてみたいと思います。
なお中村壽夫さんは昭和3年(1928年)上徳丸に生まれ、令和2年(2020年)92歳で亡くなられました。また平成5年から平成12年まで7年間高田校区公民館長をされていました。
「高田輪中について」 中村壽夫 元高田校区公民館長

右が中村壽夫さん宅前、そこには昭和18年大洪水の水位標が掲示されています。
また、中村さんの蔵辺りに高田小学校ができる前に中村壽八郎(じゅはちろう)さんが家塾として多くの子弟を教えていた明倫堂がありました。それを明治6年に村が引き継ぎ、村立の学校明倫校としました。
※高田公民館1F通路上に高田校区の石垣の写真が掲示されていますが、中村さんの記事からすると、県が石垣調査した時の写真を県から頂き、その写真24枚が掲示されているそうです。
公民館に行き、ゆっくりと高田の石垣の美を鑑賞してください。


高田輪中について
私達の住むこの高田は、慶長の時代から今日まで四百年間に、記録の残っているだけで約60回も洪水が起きている。
これは堤防の決壊もあるが、昭和の初期までの堤防は、高田橋━鶴瀬━丸亀━東陽中学校の東方の間しか無かった。それで川が増水の度に地区内に「しりごみ」として流れ込み、加えて上野地域の雨水が下の地域へと流れて溜まっていた.
従って生命と財産を守るため屋敷は高さ2m~3mの石垣を築き、更に家の基礎を積み上げている。それで家を建てるに当たって、この費用と建築費とが同額くらい要したとのことである。
戦後、道路が50cm~70cm(場所によって違うが)高くなったので、現在見る感覚よりはるかに高かった。
また家の廻りに「クネ」と呼ぶ防水林を植え、洪水の勢いをやわらげ、家屋が流されるのを防いだ。石垣と共に、先人の遺産であり、「天井川」の高田にとっては今なお必要な構造物である。
数100年経った今でもビクともしていない石積みの技術と景観をいつまでも残そうと、先に大分市が「高田輪中地区住環境調査」を実施し、取りあえず石垣とその上に立つ家とクネを写した大きな写真を24枚頂戴したので、近日中に田赤田公民館に掲示します。
ぜひご覧になっていただき、石垣の保存にご尽力を賜りたいと思っています。
※表題の「輪中」との呼称は堤防が整備され囲堤された昭和30年ごろに木曽三川より入ってきたと言われている。



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👉高田水害の歴史



