
岡藩と三佐のつながり
👉岡藩、参勤交代犬飼から三佐港へ
三佐地区では4月28日、29日両日にわたって野坂神社の春の例大祭があります。この野坂神社は岡藩(中川氏)と深く関係しています。以前、「〈鶴崎地区の歴史〉竹田岡藩の参勤交代ルート 犬飼港から乙津川を下り三佐港へ」をアップしましたが、岡藩は内陸だったため物資の運搬や参勤交代で瀬戸内海に面した港が必要だったため、文禄3年(1594年)に萩原(のちに乙津)を領地としました。その後、松平忠直の配流によって萩原・乙津が幕府領となり、その代わりとして元和9年(1623年)より三佐が岡藩領となった経緯があります。それからは三佐は岡藩の参勤交代の港町となり発展していきます。3年後の1626年には岡藩の参勤交代時のお茶屋や港湾施設が建設されていきます。そのお茶屋は明治時代になり三佐小学校となり、昭和41年まで続きますが、現在は大分市の「なかよしプール」になっているそうです。
なお、ウィキペディアを参考に豊後国の石高表を作成してみると岡藩の石高は豊後の国では最大の7万石がありました。。なお、中津藩は10万石あったのですが、豊前に属していたため中津藩は除いています。
1623年(元和9)岡藩の参勤交代の港町となって以来、乙津川の河口部三佐は御座船(藩主中川氏の専用船)住吉丸をはじめ参勤交代に従う船のために港湾施設が設けられ、三佐町として発展しました。

野坂神社・遠見山の位置図

現在の三佐港
現在は下流にある三佐船溜(みさふなだまり)漁港として残っているようです。三佐港を探してみたのですが、三佐港という名前は出てきません。三佐港の変遷を調べてみたいと思います。



野坂神社
野坂神社のソテツ
「野坂神社」は、県道22号(大在大分港:通称40m道路)家島橋の手前を北に10mも進むと右側に見えてきます。小中島川(家島橋がかかっている)側から進むと、50mほどで第一の鳥居が見え、それから150mほど行くと野坂神社の境内があります。鳥居をくぐると右側に大きなソテツが目に入ってきます。その説明によると、そのソテツは大分市の銘木に指定されており、樹高10m、幹回り3・0m、樹齢400年とあり、このソテツはこの神社を参勤交代時に船着き場の休憩所として利用していた岡藩の中川 によって植えられたものと言われています。



岡藩船三佐入港船絵馬
目的の「岡藩船三佐入港船絵馬」は、本殿左側の屋舎に収納されています。その左脇に、大分市教育委員会の説明板があり、その説明板によると、
10代藩主中川久貴が航海安全を祈願して1813年(文化10年)野坂神社に寄進した。絵馬中央下部に「遠見灯籠」(灯台)が描かれているが、その跡は今も小丘状に残っている。 絵馬
は縦198cm、横296.5cm。”などと表記されている。
この絵馬h岡藩の絵師淵野真斎の筆になるもので、遺作の少ない真斎の絵としても貴重なものだそうです。
この絵馬は岡藩の船が大阪から戻ってきて三佐港に入る様子を描いています。絵馬の真ん中の下段に遠見灯籠が描かれています。
なお、この絵馬は実物が直接見ることもできます。ただし、一枚ガラスが保護のため前にあるため反射で撮影に苦労しました。鶴崎の剣神宮で見た熊本藩の参勤船団の鶴崎入港絵馬とよく似ていましたが、それにも劣らず素晴らしいものだと思います。





本殿の鬼瓦付きの屋根と扁額
扁額には「野坂神社」の文字の横に従五位中川久成敬書と書かれていました。 筆者は岡藩最後となる第13代藩主(明治2年~4年)中川久成侯です。
また、拝殿の屋根に設けられた鬼瓦も見事でした。



遠見山〈三佐港の灯台〉
産業道路(40m道路)から小中島川沿いに進むとバス停の終点があり、そこに登り口があります。ちょっと上ると頂上に着きます。海側は国東半島が、大分側は由布、鶴見岳が見えます。前は、このあたりが陸地の先端だったと思われますが、今は埋め立て地となり民家や工業地帯などが立ち並んでいます。 遠見山の登り口付近には小山が築かれ、船の出入りの際の標識となる木造二層の灯台(遠見灯籠)がかって建てられていました。今はその山頂には標高7.9mの三等三角点と石祠(金毘羅様)と漁業組合の沿革碑が立てられていましたが、当時あったと思われる遠見灯籠(灯台)の跡は見あたりませんでした。



野坂神社 春季例大祭
今回のメインの野坂神社例大祭を予定していたのですが、急きょ中止せざる負えなくなり、来年に延期です。


