先に高田の大字、小字について調べるうちにその大字にあたる現在の高田を構成する元になった9ケ村(亀甲村・上徳丸村・大鶴村・鵜猟河瀬村・下徳丸・南・常行・関門村・堂園村)について高田住民の基礎知識として調べてみたいと思いました。
これについては「角川日本地名大辞典」角川出版 から引用させていただきました。
なお、その高田の地名に関しては「高田風土記」 「高田村志」と重複している部分が多く見られますが、他の書籍によってどのように高田を書かれているかを見ることは面白くもあり勉強にもなると思います。

再度、高田の行政区の流れを書いてみたいと思います。

1・江戸から明治の初期まで

[亀甲村・上徳丸村・大鶴村・鵜猟河瀬村・下徳丸・南・常行・関門村・堂園村]
9村

STEP
1
2・1873年(明治6年) 大区小区制が実施

高田は大分郡になる。
高田は第3大区(大分郡)第11小区に属すようになります。

STEP
2
3・1875年(明治8年) 町村の合併

丸亀村・鶴瀬村・下徳丸村・南村 ・常行村・関園村の6村になります

STEP
3
4・1889年(明治22年)4月1日 町村制施行

町村制が施工され、高田は先の6村が合併し高田村になります

STEP
4
5・1954年(昭和29年)3月31日 鶴崎市へ

鶴崎町、川添村、高田村、松岡村、明治村と合併して鶴崎市になります。

STEP
5
6・1963年(昭和38年)3月10日 –大分市へ

鶴崎市が大分市・大分町・大南町・大在村・坂ノ市町と合併(新設合併)し大分市となります。

STEP
6

鶴 瀬  (大鶴+鵜猟河瀬)

鶴瀬公民館
一乗寺
宝塔様

鶴瀬村 
大野川と支流乙津川に囲まれる輪中地域に位置する。
中世は高田荘に属する。地名は大鶴村と鵜猟河瀬村の各1字を採った。
[近代]鶴瀬村 明治8年~明治22年の村名。大鶴村と鵜猟河瀬村が合併して成立。同22年大分郡高田村の大字となる。
[近代]鶴瀬
南 明治22年~現在の大字名。 はじめ高田村、
昭和29年鶴崎市, 同38年から大分市の現行大字。

鵜猟河瀬村  うりょうがせむら    👉高田風土記「鵜猟ガ瀬」
[近世] 江戸期~明治8年の村名。 豊後国大分郡高田荘のうち 大野川とその支流乙津川に囲まれた輪中地域。慶長6年肥後熊本藩加藤清正領。 寛永9年から同藩細川領。高田手永洲ケ在8か村に属し、 高田会所支配を受ける。 村高は「正保郷帳」 173石余で、 すべてが水損所畑。 寛文4年の郷帳、元禄14年の「見稲簿」も同高。「天保郷帳」 174石余。 「旧高旧領」 200石余。 農間期は日雇他所稼のほか、婦女は織物を行った。そのほか大工・ 木挽・ 左官・ 屋根葺を業とし、商礼をもって渡世する者もある。 課役は水夫2人・堤防普譜・ 山林竹木伐持出・宿駅役など。 文化10年当時の家数54・ 大鶴村の百姓13、瓦葺藏1、 土藏1、 人数260、 馬12 (高田風土記)。 鎮守はなく、 寺は法華宗鶴崎法心寺末一乗寺。
明治4年大分県に所属。 同8年3月大鶴村と合併して鶴瀬村となる。
現在の大分市大字鶴瀬のうち。

大鶴村おおつるむら
[近世] 江戸期~明治8年の村名。 大津留村とも書く。豊後国大分郡高田荘のうち。 大野川と支流乙津川の分
岐点に位置する。 寛永9年以来肥後熊本藩細川領であった上徳丸村の枝村であったが,のちに同じ枝村であ
った亀甲から村の枝村となる。 高田手永洲ケ在8か村に属し、高田会所支配を受ける。 村名の初見は享和
3年の「豊後国志」。 村高は文化10年当時135石余 (高田風土記), 「旧高旧領」 150石余。 農間期には日雇他所稼に出る者もあった。 紺屋もある。 課役は堤防普請 山林竹木伐持出・ 宿駅役など。 文化10年当時の家数22・ 人数 71,、ほかに鵜猟河瀬村に住む者13、蔵2、 馬4  (高田風土記)。
明治4年大分県に所属。同8年3月鵜猟河瀬村と合併して鶴瀬村となる。
現在の大分市大字鶴瀬のうち。

亀 甲  

亀甲公民館
高石垣住居
閼伽池

亀甲村 かめこうむら  👉高田風土記「亀甲村1」  👉高田風土記 「亀甲村 川池水利」
[近世〕 江戸期~明治8年の村名。 豊後国大分郡高田荘のうち。 寛永9年以来肥後熊本藩細川領である上徳丸村の枝村で、のちには大鶴村を枝村として抱える。
高田手永洲ヶ在8か村に属し、 高田会所支配をうける。 文化10年当時村高131石余 (高田風土記) 「旧高旧領」 140石余。 農間期には日雇他所稼のほか、大工・木挽桶屋・揚酒屋などを業とし、 また近村の織布そのほか穀物油槽などの取次、炭山 材木山稼で他国へ出る者もあった。 課役は助水夫5人・堤防普請・山林竹木伐持出・ 宿駅役など。 文化10年当時の家数87、 ほかに上徳丸村居住者 10、 瓦葺藏4軒・土藏1軒。 人数は462、地侍1・郡代直触1が雑居、馬21(高田風土記)。
臨済宗上徳丸村能仁寺支配の小庵がある。
明治4年大分県に所属。 同8年上徳丸村と合併して丸亀村となる。
現在の大分市大字丸亀のうち。

丸亀 まるがめ
大野川と支流乙津川に囲まれた輪中地域に位置する。
中世は高田荘徳丸名に属し、 徳丸氏の本貫地。 地名は上徳丸村と亀甲村の各1字を採った。
[近代] 丸亀村  明治8~22年の村名。 大分郡上徳丸村、亀甲村が合併して成立。 同12年の戸数137 人口711、 馬13。 物産は麦・小麦・大豆・栗 (共武政表)。
同22年大分郡高田村の大字となる。
[近代] 丸亀 明治22年~現在の大字名。
はじめ高田村、昭和29年鶴崎市、 同38年から大分市の現行大字


上 徳 丸 

上徳丸公民館
能仁寺

上徳丸村 かみとくまるむら  👉高田風土記「上徳丸村」
[近世] 江戸期~明治8年の村名。 豊後国大分郡高田荘のうち。 慶長6年肥後熊本藩加藤清正領。 寛永9年から同細川領。 高田手永洲ヶ在8か村に属し、高田会所支配を受ける。 高田手永惣庄屋の会所所在地。 枝村として亀甲村・大鶴村がある。 村高は 「正保郷帳」 473石余、すべてが水損所畑方。 「寛文鄉帳」「見稲簿」も同高。 「天保鄉帳」 483石余、「旧高旧領」 233石余で, 枝村が分立して減高。 寛文年間キリシタン信
者1人が捕えられて牢死している (県史料28)。
農間期には日雇他所稼に出るほか, 杣職商札をもって渡世する者がいた。女は織物。 課役は助水夫1人・堤防普請・山林竹木伐持出・宿駅役など。 文化10年当時の家数50余、人数200余, ほかに亀甲村の百姓10、瓦葺藏2.土蔵1,馬11 牛1 (高田風土記)。 鎮守は天神社。 寺は臨済宗丹波国永沢寺末能仁寺、寛文5年の創建で、キリシタン宗徒教化の目的を持ち,、雲歩和尚が初住として迎えられた (同前)。
明治4年大分県に所属。 同8年3月亀甲村と合併して大分郡丸亀村とな
る。 現在の大分市大字丸亀のうち。

下 徳 丸 

下徳丸公民館
水難横死生徒の碑

下徳丸村 しもとくまるむら  👉高田風土記「下徳丸村」  

  大野川と支流乙津川に囲まれる輪中地区に位置する。 徳丸氏の本貫地。
[近世] 下徳丸村 江戸期~明治22年の村名。 大分郡 高田荘のうち。慶長6年肥後熊本藩加藤清正領、寛永 9年から同細川領。 高田手永洲ケ在8か村に属し、 高田会所支配をうける。 高田手永惣庄屋ははじめ藍沢 氏、寛文享保年間は筒井氏、享保~宝暦年間は高田 氏、宝暦7年からは岡松氏と歴代当村出身である。 村 高は 「正保郷帳」 346石余、うち田8石余畑338石余 でともに水損所。 「寛文郷帳」 「見稲簿」も同高。「天 保鄉帳」 347 石余、「旧高旧領」 391 石余。 農間期には 婦女は織物, 男子は日雇他所稼のほか、桶屋 屋根葺 を業とする者、 造酒・揚酒の商札をもって渡世する者 もいた。 課役は助水夫3人・堤防普請・ 山林竹木伐持 出・宿駅役など、文化10年当時の家数70余・瓦葺藏 5、人数300余、馬 13. 牛2 (高田風土記)。
高札場が ある。 鎮守はなく、 寺は臨済宗京妙心寺末興聖寺。
明 治4年大分県に所属。 同12年の戸数 74・ 人口362、 馬 11、 物産は大麦・小麦・大豆・栗 (共武政表)。
同17 年8月30日、 町村役場所轄区域の制定により、 下徳丸 村・丸亀村・ 関園村・ 鶴瀬村・ 南村・ 常行村を管轄す る町村役所が設置された。 同22年大分郡高田村の大字 となる。
[近代] 下徳丸 明治22年~現在の大字名。 はじめ高 田村、 昭和29年鶴崎市、同38年から大分市の現行大 字。

南 

南公民館
高田若宮八幡社

南村 みなみむら  👉高田風土記「南村」

大野川と支流乙津川に囲まれた輪中地域の中心部に位置する。 中世は高田荘に属す。
〔近世〕南村  江戸期~明治22年の村名。 豊後国大分郡高田荘のうち  慶長6年肥後熊本藩加藤清正領、寛永9年から同細川領。 高田手永洲ケ在8か村に属し、高田会所支配をうける。 村高は 「正保郷帳」 140
石余、うち田2石余・ 畑137石余、水損がち。 「寛文郷帳」「見稲簿」も同高、「天保郷帳」 142万余、 「旧高旧領」 157石余。 農間期には女による織物、日雇他所稼・大工・ 桶屋・ 屋根葺のほか、 鎌鍛冶を業とする者もいる。 課役は助水夫1人・堤防普請・ 山林竹木伐持出・宿駅役など。 文化10年当時の家数50余、瓦葺蔵1、 人数240余、 馬7 (高田風土記)。 鎮守は建久7年大友能直が鶴岡八幡から勧請したと伝える若宮社。 近在15村の産土神で、 山奥在 9 か村をも含めた総鎮守。
当山派修験の僧明護院が社守りとなっている。 明治 4年大分県に所属。 同12年の戸数51 人口251 (共武政表)。
同22年大分郡高田村の大字となる。
[近代〕 南 明治22年~現在の大字名。 はじめ高田村、
昭和29年鶴崎市, 同38年から大分市の現行大字。


関 門

関門公民館
高田最古の寺 補陀寺
紀行平の菩提墓

関門村 せきかどむら  👉高田風土記「関門村」

[近世] 江戸期~明治8年の村名。 豊後国大分郡高田荘のうち 大野川とその支流乙津川に囲まれた輪中地帯に位置する。慶長6年肥後熊本藩加藤清正領,寛永9年から同細川領。 高田手永洲ヶ在8 か村に属し、高田会所支配をうける。 枝村に百堂村 ・中ノ瀬村がある。 村高は「正保郷帳」 228石余、うち田33石余・畑194 石余、 水損がち、 「寛文郷帳」 「見稲簿」 も同高、「天保郷帳」 230石余、「旧高旧領」 221石余。 農業のほか鎌鍛冶・紺屋 ・桶屋・ 博労もいた。 紺屋は農間期に近郷の婦女の織った豊後布を染め、上方へ出荷している。 課役は水夫7人 堤防 山林竹木伐持出・宿駅役など。 文化10年当時の戸数は103 ・瓦葺蔵3・ 土藏1、 人数449・地侍1・郡代直触刀鍛冶6人雑居・馬26 (高田風土記)。 鎮守はなく、 寺は禅宗府内万寿寺末補陀寺と、禅宗下徳丸村興聖寺末庵がある。
明治4年大分県に所属。 同12年の「共武政表」によれば戸数106 ・人口518、馬13、 物産として麦・小麦・大豆・栗がある。
同8年3月堂園村と合併して関園村となる。

関園
大野川と支流乙津川に囲まれる輪中地域に位置する。
地名は関門村と堂園村の各1字を採用。
[近代] 関園村  明治8~22年の村名。 関門村、堂園村が合併して成立。
同22年大字大分郡高田村の大字となる。

[近代〕関園  明治22年~現在の大字名。 はじめ高田村、
昭和29年鶴崎市, 同38年から大分市の現行大字。

常 行

常行公民館
常仙寺

常行村 つねゆきむら  👉高田風土記「常行村」

大野川と支流乙津川に囲まれる輪中地域の乙津川寄りに位置する。 中世は高田荘に属す。
〔近世〕常行村 江戸期~明治22年の村名。 豊後国大分郡高田荘のうち。 慶長6年肥後熊本藩加藤清正領。
寛永9年から同細川領。 高田手永洲ケ在 8 か村に属し、高田会所支配をうける。 村高は「正保郷帳」 241石余、すべて水損所畑。 「寛文郷帳」 「見稲簿」も同高。 「天保鄉帳」 241 石余、「旧高旧領」 252石余。 農間期には日雇他所稼・ 大工・ 桶屋を業とする者、 特に鍛冶職が多く、鎌の生産・販売が有名。 高田刀鍛冶の流れを汲んでいる。女は機織。 課役は堤防普請・山林竹木伐持出 ・宿駅役など。 文化10年当時の家数は140余・ 瓦葺藏12・土蔵3・人数660余, 御郡医師並諸役人・一領一疋御郡代直触医師各1、馬47・ 牛2 (高田風土記)。 鎮守は天神社。 寺は法華宗鶴崎法心寺末常仙寺。 万延元年, 鶴崎に熊本藩校の成美館が設立された時、文学・武術教導を命じられた毛利空桑の生誕地(寛政9年誕生)。 空桑は文政7年28歳の時家塾を開いたが、のち鶴崎に移転。 墓は県史跡。 明治4年大分県
に所属。 同12年の戸数138 人口665 (共武政表)。 同22年大分郡高田村の大字となる。
[近代〕 常行 明治22年~現在の大字名。 はじめ高田
村、 昭和29年鶴崎市, 同38年から大分市の現行大字。

堂 園

堂園公民館
地蔵祭り
川祭り
火祭り

堂園村 どうぞのむら   👉高田風土記「堂園村」
[近世] 江戸期~明治8年の村名。 豊後国大分郡高田荘のうち大野川とその支流乙津川に囲まれた輪中地域に位置する。慶長6年肥後熊本藩加藤清正領。 寛永9年から同細川領。 高田手永洲ケ在8か村に属し、高田手永会所支配をうける。 村高は 「正保郷帳」 129石余、すべて水損所畠方。「寛文郷帳」「見稲簿」「天保郷帳」も同高。 「旧高旧領」 135石余。 農間期に織る織物は豊後布として知られている。 そのほか日雇他所稼・左官・木挽など職札を持つ者が多い。 課役は水夫2人・助水夫1人・堤防普請・山林竹木伐持出・宿駅役・火事駈付など。 文化10年当時の家数29軒・土蔵1、人数130余、 馬 11 (高田風土記)。 家屋は洪水に対処するため高く積まれた石垣の上に建てられている。
明治4年大分県に所属。 同8年3月関門村と合併し関園村となる。