※この記事は2年ほど前に始めていたものですが一時中断していました。しかしこの9月を機会に再度編集をしてみました。
9月1日は防災の日です。また、高田校区では毎年この防災の日に水難者慰霊祭を開催しています。
👉令和5年度水難者慰霊祭
9月20日の鶴崎地区大水害が近づき、当時の様子はどのようだったのかが気になり、県立図書館に行き当時の新聞記事を探してみました。
9月20日から1ヵ月間の記事を探してみました。当時の朝刊は2面~4面そして夕刊も2面で構成されていました。
ただ、当時は太平洋戦争が始まり2年、戦争の真っ最中だったため大半が戦争に関する記事でした。(水害後も戦争記事が主体であったことには変わりはなかったようです)
21日ごろまでの記事では状況がまだ把握されていなかったためか少なかったものの、23日ごろから現状が伝えられ大きく扱われるようになってきます。
洪水後3日間の新聞
<新聞記事は大分県立図書館 郷土情報室資料(大分合同新聞)を参照しています>
※戦争中で物資不足だったのか、インクがかすれ気味だったため、不明文字や不明個所では推測で書いているところもあります。
不明な文字は●で表しています。
昭和18年9月21日 水害2日目<翌日> 災害翌日の記事は
暴風雨 県下を襲う
19日から20日にかけての風水害は7月下旬のそれにも増して激しく全県的の土砂崩壊、家屋・橋梁の流失、浸水、道路、堤防の決壊が多いが分けても国東方面、大野川流域、南北海部郡の被害は甚大であり、<一部わからず省略>
20日午後3時までに県警防課に報告のあった県下の被害を総合すると左記のとおりである。
(県下全体の数字のため省略)
各地の被害状況 (鶴崎地区を除く)
大分郡高田村丸亀の堤防決壊のため、鶴崎町、三佐村、桃園村字乙津一帯14,000戸?浸水。
特例暴風警報
大分測候所では20日次のごとく発表した。
▶特例暴風警報(20日午前3時半発表)
風水害による風害も水害も共に大きい見込み。最も強い風の方向は北東ないし、南東
▶特例暴風警報追報(20日午前9時発表)
暴風は約半日続く見込み。海岸には津浪か高潮がある。最も風の強い方向は北ないし西。
▶警報解除(大分測候所20日午後3時発表)
特例暴風警報を解除す。
昭和18年9月22日 水害3日目
思ひのほか少ない ほっと一息のけんか農作物の被害 農業の被害は
暴風雨で受けた県下農作地の部分的な流失崩壊等の被害程度は詳細調査後でなければ判明しないが一般農作況に及ぼした影響については水稲が完全に受精が終わり、未だに収穫に至らぬとはいえ間一髪の時期であったためいわゆる白穂ともならず、また穂首が軽いために倒伏や籾落ちも少なく風雨勢いが極めて苛烈であったにもかかわらずさいわいこれによる被害は思いのほか少ない模様である。もしもこの嵐が10日ばかりも前に襲ったならばおそらく県下の水稲は想像以上の被害を被っていたに違いないのであるが「まずは時期がよかった」と農家では何れもホッと一息。平年作確保の意気をみせて●後の管理に努力している。秋まき野菜は幼芽は豪雨に叩きのめされて駄目になったものもあるが、これはまだ直しをしても間に合うし、果樹は梨、葡萄等はすでに大部分収穫を終わっており、わずかに柿が少し被害を受けた程度。
代用食料として重要視されている甘藷は〇〇嫌いで、〇〇性の作物だけに雨浸しは苦手だが、風害にはビクともしない、大抵、排水可良な砂土ないし、砂質〇土に栽培されているし、雨も量は多かったが時間が短かったので、かえって<?適量な水分>を得たという程度のものが多かったようである。
作物に対する今後の管理について大分県農事試験場からの注意を聞く。<これについては省略>
※戦時下だったため、農業や工業の被害を少なく報道しているような気がします。しかし、実情がわかってきてからは良く報道されていると思います。
昭和18年9月23日 水害4日目(その1)
少なかった記事も日を追うごとに増えています。実情が見えてきたのかもしれません。
鶴崎町付近の災害地を視る 鶴崎地区水害被災地の様子
鶴崎町を中心とした高田、桃園、別保地方の水害は大野川改修工事完成に安心しきった地方民の隙もあって、水●は相当深く幅が広い。二十二日午前十一時までに鶴崎署に集まった調査によると同署管内、一町七ケ村で死者行方不明四十八名、そして流失しそして跡形もなくなった家屋百九十二戸で全壊または半壊家屋は千五百六十戸、浸水家屋は三佐村の五百戸の未浸水家屋を除き管内すべて浸水、しかも浸水家屋は壁は濁流で押し流され、隣村や付近の部落の流失家屋が屋根を下にして玄関先にひっくり返っていたり、庭先に根こそぎになった大きい松の木や桑の木が塵屑か何かの様にゴミあくた浮遊物と一緒にひっかかっていたりしている。
二階や高地に家財をもって避難した家はいいが高田、別保地方は道具一式洗い流され、身をもって逃れた家族が少なく?濁水が減退した跡にはどの家屋の床上にも三寸ぐらい沈殿した泥土が堆積しその洗い流しに大童である。また各災害地を廻ってみるとどこの家庭も柱時計が十一時前で申し合わせをしたようにストップしている。そしてその付近に泥土の一線がくっきりと付着している。ちょうど柱時計のあたりまで濁水が浸ったわけでこれを超して二階の梁まで水位が上がったところはプカプカ浮いて家が流失した危険線の名残であろう。
二十二日各災害地を視察し慰問してみると、各町村では町村会や緊急常会を開いたが満場一致で復興に邁進、第一線の兵隊さんを想起し、銃後の●●陣営を強化する決意を表明したという。
災害地一帯は大分市を中心に別府市、鶴崎付近町村から出勤した数百名の警防団、壮年団その他の勤労奉仕隊員が鉄道、道路の復興工事に活躍。医師会、婦人会など次々災害地へ向かい、食料配給、災害者収容等に●●進行している。僅かな
昭和18年9月23日 水害4日目(その2) 被害の大きかったわけ
被害の大きかったわけ ※当時の高田の様子が詳しく書かれている
鶴崎地方で水害の最も甚だしかったのは高田村から鶴崎町の別保一帯で650万円を投じた大野川改修工事は明治26年の大洪水の水量を基準に以後50年の水勢を調査して●●堅固に設計し、しかも大洪水時より堤防を4尺も高めに築き、大野川水勢の要になる高田村鶴瀬部落上手の有名な●●時代細川候の築設した堤防付近は一層の堅固さであった。だが今回の水害は●●堤防を潰したので鶴瀬部落の十数戸を一息に押し流し、高田村に激流を●●かし、下流の別保、鶴崎を洗っていったのである。
同村(高田村)の死者18名、流失家屋32戸、全壊6戸、半壊300戸、家畜流失牛24頭、馬4頭、ブタ4頭、また同村の主要生産である野菜畑は中鶴瀬部落付近は3尺ないし5尺の砂利に埋没、半数の約100町歩は3、4寸の泥土で覆われ、●●●●の牛蒡(ゴボウ)はほとんど全滅。大根その他の野菜は埋まってしまったが、村会議員一同は22日<不明>を開き、災害復旧に頑張りぬく決●を行い、一人●●●●る村民はいなかった。
同村を一渡り見ると長さ60mの高田橋は頑丈な鉄筋コンクリートの思い橋体が真ん中からポッキリ折れ、●麗に●から両岸へきちんと●んでいる。また●木(直径1尺7寸)が60m位に道路上に戦車防止の樹木の如く倒され、屋敷の庭や他の中をよほど高く浮いてきたのであろうか、付近を引きずった形跡もなく家や樹木が降ったように横倒しに●げている。
昭和18年9月23日 水害4日目(その3) 災害復旧に奉仕 県下で初の学徒動員令
戸次町、鶴崎町付近を中心とする風水害に対しその復興に協力するため、大分市内専門学校、中等学校に対し初の勤労動員令が下った。その皮切りに大分高商報国隊が23日森隊長による陣頭指揮により鶴崎町に出勤し24日まで復興に聖汗の奉仕をなし、ついで25日大分中学、26日に大分商業が順次に繰り出され、大分師範、大分工業は鉄道復旧工事に協力すべく待機中である。なお、師範女子部第一、第二、岩田高女下令とともに出勤する態勢にあり、22日戸次、鶴崎方面に先遣隊が派遣されるなど動員の準備に万全を期している。
昭和18年9月23日 (水害4日目 その4) 矢野鶴崎町長談
堤防が決壊し避難命令を出したが役場も7尺浸水、町民に18人の死者を出したのは遺憾です。しかし二階が無い家とか低地の家屋は鶴崎神宮と鶴崎クラブへ避難したので幾分被害が少なかったようです。食料分配は●●並びに経済警察から隣保班を通し速急に進行しており、衣類切符は再発行しますが、食料、衣料とも不安は全体ない。町の対策は渡しに一切一任されています。高田別保からの鶴崎町には5、60戸以上も●●や衣服を流失し気の毒な人がおりますから、これに対しても寄付を希望します。町立中学校の建物は倒壊し、または流失したので直ちに復興に着手する。とりあえず専想寺で授業を開始しますが、困っているのは椅子300脚中270脚が流失したので拾った方は届け出てほしくまた備品を約3万円、職員の諸品を全部流したので直ちに取り調べたいが関係方面の応援を希望する。町民は水害になれているが、復興の意気に燃えてをり全町一致再建設に躍進する。
昭和18年9月24日 (水害5日目) 水禍の試練に頑張る鶴崎地方
鶴崎付近の水禍に対する応急●●措置の参謀本部になっている鶴崎署は甲斐署長が陣頭指揮に当たっているが、古谷警察部長が21日徒歩で急行視察し、22日は部長代理として河野警務課長が同署へ応援出張している。同日は道路が七部通り自動車が通うようになったので、あとは徒歩で連絡。大分市から慰問として高田市長、首藤助役、古本、植木正副市会議長、安藤●●●団長等が出向いた。県商工経済会からも会頭代理として●尾大分支部長、大●理事長等が慰問した。玄関先には大在村から●野村長が村を代表して開けられた見舞いの米麦野菜が山々と積まれ義援金も続々届けられている。同署の災害応急処置と管内被害状況は左の通り。▲死者行方不明 48名
内訳
△鶴崎町 18名
△高田村 18名
△戸次村 11名
△桃園村 1名
△松岡村 1名
▲流失家屋 192戸
内訳
△鶴崎町 40戸
△高田村 32戸
△戸次村 52戸
△桃園村 18戸
△竹中村 29戸
△松岡村 12戸
△川添村 5戸
△日岡村 9戸
▲全壊家屋 6戸(戸次)
▲半壊浸水家屋 全狩んないの85%
▲牛馬の損害並びに鶏
無数水死、流出
▲米麦損害
米麦はほとんど濡れたが各戸で乾燥、鶴崎倉庫の麦2000俵は濁水に丸浸しのため、県保安課より浅野警部出張し警防団を指揮して大分市へ運搬し直ちに 乾燥の予定 計画進行中。
▲食料
管内を二段に分け、半農家並びに飯米を購入する高田地方の如き野菜栽培農家へは濡米を配給し、鶴崎町へは取り合えず3、4日分として一戸当たり米一斗、味噌100匁、梅干し5粒、海苔30枚を21日までに隣保班(現在は自治会の中の各班と同じ、古い人は少し前まで隣保班と言っていた)を経て現品配給
第二回分として前記のほか、醬油、砂糖、木炭、七輪、便箋、封筒、マッチ等を配給すべく目下 県経済保安課並びに食料●●団へ交渉中。
▲医療処置
県衛生課より三浦課長、衛藤技師が関係者多数を同伴して来町。県医師会より高橋会長、小池副会長が所属石20名に看護婦を同伴し22日来町。
水害後に発生する伝染病予防として被害地内の予防注射、井戸消毒、一般診療、負傷者の手当を実施。
▲復興工事労務対策
大工左官の労働賃金が不当に吊り上がったり要求したり金持ちが公定価格以上を出して賃金を乱さぬよう当業者を集めて注意し、建設を円滑ならしめるよう取り締まっている。
昭和18年9月25日 水害6日目 復興の様子は
逞しい復興の息吹 続々繰り込む慰問奉仕隊 知事鶴崎方面へ
水害に敢然起ちあがってから四日罹災地は競って復興の息吹も逞しく作業が行進している。決●の重大な秋、復興は寸刻を争っている。
被災地が不屈の闘志を●らせて、一斉に活動を開始するや時を●さず隣接町村より慰問奉仕隊が繰りだされさらに県食料●団は食料の配給に完璧を期し●かの不安もなく災難地ともおもわれない明朗な復興のかけ声が充ちている。
慰問奉仕隊は日を追っていよいよ増加し全県的に繰り出す●●●●隊員は<この間は不明のため省略します>
県ではその重点を佐伯、戸次、鶴崎、三佐、高田、宇佐、●●の各町村に置き、婦人会が募集した衣類、茶器、履物は●撃的に送り込まれ、少しでも寒い思いや不自由な思いをさせまいとの美しい隣人愛に被災者は感激の涙を浮かべ勇気百倍復興に意気込んでいる。
昭和18年10月1日 水害12日目 矢野鶴崎町長談 今後も奉仕の援助を仰ぐ
屋の鶴崎町長は全町にわたってその後の復興状況の視察を行った30日朝、次のように語った。
おかげで応急的な復興は極めて順調に進んでいる。最初個人的な復旧は本月中に終わりたいと考え大いに町民を激励するとともに一般の勤労奉仕も時節柄に鑑みその程度で辞退する心算であったが、なお各方面から非常に熱烈な御加勢の御申出があるので県当局その他町●●機関とも相談して三日まで勤労奉仕をお願いすることにした。しかし、いつまでも他の力に頼ることはいけないので町民には極力磁力復興を望み、警防団、壮年団他で復興団を組織し全面的に活動させているばかりでなく●三佐の方は被害が割合に少なかったので復興協力団を組織しこれまた全面的に復興に協力してもらっている。工場その他の公共関係ではなお奉仕を要する所があるのでこれには今後も引き続き各方面のご協力を願はねばならぬと思っている。


