高田歴史散策マップは元高田校区自治会長 高橋康夫さんが自治会長をされていたときに高田校区七輪のまちづくり協議会により作成されました。それを元に高田校区内には31ポイントの歴史標柱が建てられています。それから20年、HPにアップしてからも5年になりここで再度見直をしてみようと思います。
巷では梅雨も明け、子供たちは夏休みに入りました。この機会に家族で高田の歴史ポイント巡りをしてみるのも良いのではないでしょうか。
高田校区歴史マップ
地区別 歴史マップ
歴史マップ 〈関門自治会・南自治会〉
歴史マップ 〈鶴瀬・丸亀・下徳丸自治会〉
歴史マップ 〈常行・堂園自治会〉
歴史マップと歴史標柱
※歴史散歩31か所について今年度中に更新をしていきたいと思います。(修正や追加したい内容が生じたため)
高田校区歴史標柱・31ポイントの紹介 (見たい歴史案内は下記の表にある👉または写真をクリックしてください。)
№ | 地区 | 標柱名 | 歴史マップの解説文 | 歴史標柱 | 全体写真 |
1 | 下 徳丸 | 👉 奨順社の碑 | 関門出身の小手川善次郎氏は昭和3年(1928)、 地区内に有する広大な宅地、畑地及び高田 銀行株券を高田村に公共施設、 並びに社会 福祉のために寄付しました。 村長岡松準平 はこのことに感激し 「財団法人奨順社」を 設立しました。 この碑は高田公民館敷地内 にあります。 | ||
2 | 南 | 👉 水害水位表示板 | 昭和18年(1943)9月20日の大洪水の水位 を表示しています。 | ||
3 | 〃 | 👉 開田記念碑 | 高田地区は昔から水田は皆無 で農業は専ら畑作物で各種の農 作物を生産していました。 特に牛蒡 は「高田牛蒡」として有名でし た。昭和33年(1958) 昭和井路が 完成して初めて水稲が収穫され ました。 記念碑はこの間の経緯を 詳しく記しています。 | ||
4 | 〃 | 👉 大乗妙典塔 | 刀鍛冶高田正次が行平没後500年に あたる享保11年(1726)に追善供養と して建立したもので「大字妙典ー字 一萬霊塔」と刻まれています。 | ||
5 | 〃 | 👉 紀新太夫行平の墓 👉「高田村志」に見る紀新太夫行平 👉大分の名刀企画展 | 行平(1144~1221)は日本古来刀剣界 屈指の刀匠で、後鳥羽上皇 (1180~ 1198)の後番鍛冶の一人に選ばれ、 また高田鍛冶の祖で豊後刀の基を つくった人でもあります。 | ||
6 | 〃 | 👉 補陀寺 | 慈雲山 補陀寺ふだじ (臨済宗)補陀寺 は天平勝宝7年(755)に天台宗の寺院 として開かれた高田では最も古い寺 です。 応徳元年(1084) 失火によって堂字は 炎上しましたが、国主大友能直が頭 領を寄進し七堂伽藍を建立したとい われています。 天正の兵火以後臨済 宗済宗に改宗し京都妙心寺派に属し て現在に至っています。 | ||
7 | 〃 | 👉 雨水排水ポンプ場 | 雨水排水ポンプ場 平成16年(2004)5月に内水対策とし て排水ポンプが設置されて平成17年 (2005)の台風14号でその効果が実証 され、 今まで苦労していた水門の開 閉の心配がなくなりました。 場所と能力は 関門に設置、 大野川へ毎秒7屯 常園に設置、 乙津川へ毎秒9屯 | ||
8 | 下 徳丸 | 👉 水難横死生徒の碑 | 明治26年(1893)10月14日洪水で横死 した児童八名の追悼のために旧高田 小学校のあった下徳丸字屋敷に建立さ れ、その後学校の移転に付属して現在の 高田小学校の地に移されました。 碑文は毛利莫(さざむ、 毛利空桑の3男) | ||
9 | 〃 | 👉 筒井加右衛門の墓 | 筒井加右衛門の墓 ( 河童伝説) 加右衛門は高田代官所の代官兼惣庄屋 で槍の達人でもありました。 大事な茄 子を盗んだ河童を槍で突いたため、 翌 日百堂の渡しを渡ろうとした加右衛門 が多勢の河童に襲われあえなく命をお としたという伝説があります。 | ||
10 | 〃 | 👉 興聖寺 | 鳳林山興聖寺 (臨済宗) 興聖寺は、 妙心寺派に属しています。 嘉慶元年(1387) 別保大字森村曲の手 (現在の金の手)に創建され、領主大友 家より寺領を給わりました。 その後、 たび重なる火事により常行の字権大な ど4回の移転を経て現在地に移りました。 | ||
11 | 上徳丸 | 👉 大野川高田地区河川防災ステーション | 現在上徳丸川添橋横に市の防災対策と して防災センターが設置されていま す。 非常の際のために砂、ブロック、そ の他の品々が常備され、 詰所、 会議室、 各連絡設備、 ヘリーポート等があり、災 害時の活躍が期待されています。 (平成11年 (1999) 3月24日業務開始) | ||
12 | 〃 | 👉 学校発祥の地 | 明治6年(1873)8月15日上徳丸中村寿八郎 の家塾明倫堂を高田村が引き継ぎ同所中 村半次郎の屋宅を借り入れてここに移し 明倫学校と命名して開校しました。これ が高田小学校のはじまりです。 | ||
13 | 〃 | 👉 水害痕跡表示家屋 | 240cmもの高さ! 昭和18年(1943)9月20日の大洪水の水位を 表示しています。 | ||
14 | 〃 | 上徳丸 道標 | 道標 (臼杵街道) 上徳神社前から南に向かうと三叉路に臼杵 方面を示す道標があります。 金谷の渡しに 通じる大事な街道でした。 | ||
15 | 〃 | 👉 上徳丸天満社 | 上徳丸天満社は太宰府天満宮の御分霊を勧 請して祭られました。社殿はもと宮前屋敷 と言う所にありましたが天正の兵火にかか り焼失しました。 安永3年(1775) 金谷渡し 場北方の堤上に社殿を新築しましたが、 明治26年の大洪水で倒壊し、現在地に造営 遷祀されました。 | ||
16 | 〃 | 👉 高田会所跡(岡松甕谷生誕の地) 👉「高田村志」に見る岡松甕谷 👉高田信一氏 岡松甕谷を語る 👉高田会所&惣庄屋 | 熊本藩では「手永」 という行政区画に御代 官兼御惣庄屋を置いて一切の民政をおこな わせていました。 高田手永は高田8ヶ村を含める24ヶ村に及 びました。 高田会所は高田手永における役 所つまり代官所です。 細川家が藩主になっ てこの制度が置かれました。 | ||
17 | 〃 | 👉 能仁寺 | 瑞光山 能仁寺(曹洞宗) 能仁寺は神奈川県鶴見総持寺の末寺に属し ています。 寛文5年(1666) この地における キリシタンに対し改宗を進めるために熊本 より行厳禅師雲歩和尚を派遣しました。 雲歩は熱心に教化につとめキリシタンを 根絶したために、藩主はその功を賞して 新たに堂宇を建立しました。 | ||
18 | 亀甲 | 👉 閼伽池 | 閼伽池 昔若宮八幡社が此の地に鎮座していた頃に、 明護院という修僧が社僧として奉仕し朝夕 (神仏に供える水のこと)をこの池から汲んで 神前に供えていました。このことから閼伽池 と呼ばれるようになりました。 「馬場」とい う字名も若宮八幡の馬場からきたものです。 | ||
19 | 〃 | 👉 サブタ | サブタ は集落中の道路両側の石垣に縦に溝を 切り、板をはめ込み流れて来る水を防ぎました。 | ||
20 | 鶴瀬 | 👉 宝塔様 | 宝塔様 (堰堤碑 ) 堤防の決壊により田畑、家財を流失、又溺死し た人々を思い悲しむ声を聞いた常仙寺住職日宣 は、首藤道英、道猛父子と語らい建立した、 一 字一石の法華塔です。 (石の数は 69,384個) 碑文は毛利空桑74才 (明治3年 1870) に撰したとある。 | ||
21 | 〃 | 👉 水難慰霊碑 | 明治26年(1893)の大洪水で水死した鶴瀬78人の 供養に再建されました。 元は大野川の堤防上に ありましたが、 昭和18年の台風で流失しました。 ところが建設中の鶴瀬自動車学校の建設現場か ら碑の一部が出土し地元と自動車学校と相談の 上再建されました。 | ||
22 | 〃 | 👉 ―一乗寺 | 開山一乗寺(日蓮宗) 一乗寺は、鶴崎の法心寺末寺です。 寛文2年 (1662) 法心寺三世守玄院日達が本村信徒と相談 して創建しましたが、 その後200年を経、堂宇 が著しく荒廃したので、安政6年(1860) に至り 住職日歓がこれを再建しました。 | ||
23 | 〃 | 鶴瀬道標 | 鶴瀬一乗寺から200mほど下ったところにある 道標は大分や熊本、小倉、 福岡までの距離、 近くでは丸亀村、 明治村までの距離が表示さ れています。 明治の中期に建てられたもののようです。 | ||
24 | 南 | 👉 若宮八幡社 | 当社は建久7年(1196) 国主大友能直が鎌倉鶴ヶ 岡八幡宮の御分霊を勧請して、創建したと伝え られています。 当初は大字丸亀字亀甲に鎮座さ れていましたが、寛永2年の大洪水で流失、現在 の地に遷座されました。 はじめは高田の荘の宗 廟として尊崇されていましたが、次第に範域が 縮小されついには高田村のみの氏神となりまし た。 歴史ある氏神として高田地区の人々の信仰の的、 心のよりどころとなっています。 *高田荘 城興寺の所有する荘園で、 高田・鶴崎 三佐 桃園 ・別保 明治 日岡・東大分及び大在村字志村・ 川添村字迫村・鶴村の1町9か村にわたる地域で これを高田郷とも称していました。 | ||
25 | 〃 | 銀行跡 | 高田村大字南にありました銀行は高田実業銀行と 称し、大正9年(1920)に設立されました。 本店は 首藤宝吉宅に置かれ大分市に支店をもっていまし た。 また、挑園、明治、 松岡にそれぞれ代理店 がありました。 昭和17年(1942)8月大分合同銀行 に吸収合併されました。 | ||
26 | 〃 | 👉 クネ | 各戸毎に榎、 むく等根の強い木を植え大木に育 て洪水の際木に登り難をさけ又綱で物や人牛馬 を繋ぎ流失を防ぎました。 | ||
27 | 常行 | 👉 毛利空桑の墓 👉「高田村志」に見る毛利空桑 | 空桑は寛政9年(1797) 大字常行に生まれました。 脇蘭室、 帆足万里など多くの学者に学び、 また、 いろいろな武芸にも励みほとんどが免許 皆伝のうでまえでした。 家塾知来館で育てた人は1000人を超すといわ れています。 | ||
28 | 〃 | 👉 常行神社 | 常行字井樋ノ口に鎮座する常行神社は、 太宰 府天満宮の御分霊を仲摩五兵衛という人が歓 請したと云われています。 元亀 (1570~1572) のころには字初穂田にあり 広大な社地と3つの僧院を有していましたが、 その後天正の兵火にかかり、万治 (1658~1660) のころ現在地に遷座しました。 | ||
29 | 〃 | 👉 知来館創設の地 (毛利空桑) | 毛利空桑が文政7年(1824)27歳のときに初めて 私塾 「知来館」を建てたところです。 | ||
30 | 〃 | 👉 常仙寺 | 雲鶴山 常仙寺(日蓮宗) 常仙寺は日蓮宗京都本国寺の末寺で、 正保元 年(1643) 高田の刀匠藤原行長の喜捨に基づき 学泉院日泰が建立しました。 当初は白頭山常仙寺といっていましたが、 2世日長のとき鶴崎法心寺3世日達と両寺一 山の契約を結び山号を法心寺と同一の雲 鶴山を称するようになりました。 | ||
31 | 堂園 | 👉 雨水排水ポンプ場 |