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※「渡り拍子とは」神輿の渡御や山車(だし)の進行に合わせて奏する神楽囃子
高田若宮八幡社の春季例大祭の時期になると南では渡り拍子の練習が始まります。そして渡り拍子の長老として練習のアドバイスをしているのが安部吉郎さん(91歳)です。練習では孫に近い子供に手取り太鼓を教えていました。
今回、安部さんに渡り拍子とともに高田の歴史の話を聞きました。1時間ほどで終わるつもりが、意外な面白い話の連続で2時間があっという間に過ぎてしまいました。本当に有意義な時間となりました。長い時間の聞き取り、安部さん本当にありがとうございました。
後輩の指導に当たる安部さんの姿
南渡り拍子
・南渡り拍子
南渡り拍子は主に5つの流れがあります。そしてその5つの調子(楽譜)を残そうと、安部さんは笛と太鼓の調子を言葉にしたものを作成しました。
その5つを練習の教材として使用しています。重要資料として下記に保存します。
・吹き込み 始め
・くずし (序曲) くずし(小太鼓) くずし(笛)
・しん (進行 からきている) しん (小太鼓) しん(笛)
・はね (しん の途中で盛り上げるための調子) はね (小太鼓) はね(笛)
・吹ききり 終わり
小太鼓
笛
・渡り拍子の春季例大祭時の流れ
渡り拍子は吹き込み、くずしから始まり、神社から外の道路に出たところでしんになります。また、御旅所に行くまでに先導役の人が渡り拍子を盛り上げようと思ったところで合図を送りはねを実施します。最後に吹き上げで終わります。
・南渡り拍子の始まり
なぜ、南自治会がするのかを聞きそびれてしまったのですが、神社が南にあることからだと思います。
渡り拍子の始まりは安部さんが若いころに年寄りの方たちが350年ほど前だと言っていたので、今では400年以上前からではないでしょうか。
(単純に計算すると1600年ごろ、関ヶ原の戦いがあったころ、江戸時代の初めにあたります)
・昔と今
渡り拍子の練習には今は十数名の集まりですが、安部さんの若いころには多くのの人が参加していたと言います。「あの頃は子供が6人以上いるのが当たり前であったし、若い人も兵隊に出る以外は多くの者が高田の残っていたので多くの者が参加していたのでしょう。現在のように少子化になり、また就職も県外に出ていけば参加者が少なくなるのもやむを得ないと考えています。」と寂しそうに語っていました。また、「練習は今は公民館で行っていますが、昔は人の家で行っていました。7時から10時ごろまでやり、休憩が入って11時ごろに終わっていました。」私の穿った見方では練習が終わった後に皆で一杯やることも楽しんでいたのではないでしょうか。
練習は現在7日間ですが、昔は10日間行っていたそうです。
春季例大祭(高田の春祭り)
・昔の例大祭(春祭り)
神輿(みこし)
昔の高田の神輿は今よりもずっと大きく、外部は黒く内部が金ぱくだったそうです。今は御旅所まで担ぎますが、当時は地区内の巡回時も担いで回り、時には家によばれ、上がり込み酒や食事をいただいたそうです。神輿も家の中に入っていたそうです(家の人はそれを期待していたそうです)。そしていつからかはわかりませんが、軽トラに載せて地区を巡回するようになったようです。
・ひきやま(山車)
私は山車とは曳山のことと思っていたのですが、山車には曳山と担ぎ山の違いがあるようです。まだ、私の頭の中でも整理がついていないのですが、山車というように、人が担ぐけんか山車のような担ぎ山車にも、人が載って笛や太鼓を奏でる太鼓山車にもどちらにも車がついているので両方とも山車のようです。
ところで、安部さんの話では、高田の今の山車は佐賀関の一尺屋からのものだそうです。(買ったのか、いただいたのかはわかりませんが。)
・担ぎやま(山車)
担ぎやま(山車)は4分団(1~4分団)それぞれにあり、祭りのときには御旅所で今の神輿よりも鶴崎のけんかやまよりも大きかったそうです。そして戦後数年は御旅所で鶴崎のけんか祭りと同じことを行っていたそうですが、戦争帰りの人が多かったこともあったのか山車どうしの取っ組み合いは激しく重傷者が出たことにより中止になったそうです。
乙津川・堤防
・けんか山車 御旅所
先に書いた担ぎ山車によるけんか山車は御旅所で行われていたのですが、以前の御旅所は今の堤防の川側にあり広い台地になっていたそうです。しかし、昭和30年代初めの大津留溢流堤施工に伴う乙津川河川改修により堤防の線形が変わりました。以前の堤防は河川の線形に沿って曲がっていたのですが、若宮八幡社下流側から常行側ににかけてを真っすぐな堤防としました。その工事により高田橋上流にあった今の堤防より川側にあった南の家が5件ほど立ち退きにあいました。また、お旅所も河川改修に伴い使用ができなくなり(もともと建設省用地内のものを使用していた)、今の御旅所の土地を購入し新たに御旅所としました。その記念として幸所記念碑が昭和36年に建立されました。
・堤防はどのようだったのか
高田橋から下流には堤防があったのか、または低かったのかという疑問が付きまとっていたのだが、安部さんの記憶では、高田橋までは堤防があり、竹藪で覆われていたという。しかし、下流側には堤防はなく河川周りは竹藪ではなくからむしが植えられていた。(からむしは食用にも、また繊維もとれるため戦争中ということで植えられていたのかもしれない) 👉からむし
また潮は高田橋まで下流から上がってきていたという。又、言われるほど川の汚れや濁りはなくきれいだったともいう。
・昔の高田橋
今の高田橋あたりから川に降りていく道があり、川には石橋がかかっており、それを渡り森町の若宮八幡社への道があり、その途中に火葬場があったという。(森町側には堤防はあったそうだ。)また、位置はよく覚えていないが高田若宮八幡社より下流に鶴崎中学があり昭和18年の洪水で流されたという。
また、乙津川にはコンクリートの橋も架かっていたが、昭和18年の洪水で流されたという。そして木の橋がかけられたが昭和30年代に高田橋が正式にかかるまで何度か洪水で流されていた。木の橋だったのは戦争中、戦後間もないころだったため物資がなく木の橋になったと言う。その橋は堤防間の距離が狭かったため橋長はもっと短かったという。
・渡し舟
渡し舟は昔は岩船あたりにあったという話は聞いているが私が覚えている限りではもうなくなっていたと思う。
昭和18年の水害 及び戦時中の記憶
・水害時の記憶
昭和18年の洪水時には一階の天井下(障子の上)あたりまで上がり、家族は藁ぶきの二階に上がっていた。そこは屋根部屋で窓がなく外はどのようになっていたのかはからないが、夕方には水が引いていった。下流には堤防がなかったため河川の水位が下がるとともに同じように引いていったのだろう。
・戦時中の記憶
戦争中の配給の記憶が強く残っている。
高田の配給には魚やクジラ肉、ワインやビール、時にはスルメ、イカ、カズノコまでもあった。これは高田だけの特別枠であったという。理由を聞くと高田は野菜(サツマイモ)の供給地だったため生産を促進するため大事にされたという。
・防空壕
高田などに爆弾を落とすはずはない、と思いながらも空襲があれば防空壕に入っていた。
防空壕は家周りや畑に水路のように掘りその上に竹を通し、むしろを被せ、その上に土をかけてわからないようにして
いた。
また、小学校ではグラウンドの半分を防空壕を掘り、残りの半分には野菜を植えていた。
昔の思い出
小さい時の遊びといえば、パッチンやビーロンをしていた。また、凧揚げをしていたが、今とは違い、高田では凧揚げは盆にあげており、正月には上げていなかった。
高田小学校前には搾乳所があり、高田の牛を飼っているところはそこまで牛を引っぱって行っていたそうだ。あちらこちらに牛の糞が落ちており大変だった。