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以前、高田信一氏が亡くなられた時に、高田信一氏を偲んで下記の三部作をアップしましたが、分けて記事にしてほしい、という要望があり、その記事を3回に分けてアップしたいと思います。
なお、今回アップにあたり、誤字の修正、注釈等を増やしてアップしたいと思います。
- 第一回 「大分方言」について -主として高田を中心にー 高田信一
- 第二回 地名の由来とその歴史 高田 高田信一
- 第三回 岡松甕谷 高田信一
なお、当時の追悼記事は下記をクリックしてください。
「岡松甕谷」を語る 高田信一 ふるさとの歴史教室 研究小報より
高田信一氏は歴史教室の研究小報に高田の歴史について多く書かれているが、そのうちの一つに高田の三哲人の一人岡松甕谷先生についても載せられている。高田信一氏の意思が通じたのか、令和元年には岡松甕谷生誕二百年記念特別講話を甕谷の子孫で現法政大学の教授の岡松暁子さんに「岡松甕谷の生涯とその学問」と題して講和をしていただいている。
「岡松甕谷」
*高田では毎年先哲祭を行っているが、神事のあと講話は先哲(紀行平・毛利空桑・岡松甕谷の三人について大体順に行ってきたが、最近岡松甕谷についての講話がない、また研究小報にも取り上げていないようである。それで敢えて本年の研究小報に寄稿しました。 関園 高田信一)
岡松甕谷は高田上徳丸の人で文化三年(1820)正月14日に生まれた。
名は辰、字は君盈(えい)、通称を辰吾といい、のち伊助と改めた。岡松家代六代の代官兼惣庄屋数右衛門(真友)の第二子で、最終の惣庄屋であった俊助の弟である。号の由来は対岸の百堂の地に所有している山の麓に甕谷(かめのだに)という地名から名付けたものであるという。
幼い時から特別すぐれ、六歳で四書の句読を受け、十四歳のとき、次の二編の詩を作った。(省略)
その叔父信甫(数右衛門の弟)、高山彦九郎と旧交あり、常にその逸事を語り聞かせたので、早くから王覇の辯を知った。成長して時習館に入るため熊本に行ったが、藩が許さなかったので憤り帰って、日出の帆足万里に師事した。万里は彼の才を愛し、特別に意を用い、甕谷はまた日夜学業に努めたので、経書の研究、文書に、通達し、同僚に抜きんでた。かって万里の著した「窮理通」「井桜纂聞」等の草稿ができあがったとき、諸門下生に命じて、校訂や、漢訳をさせたが、甕谷の行文は、最も流儀の妙を極め、常に師友の推称するところであったという。
弘化四年(1847年)28歳の夏、万里に従って京師に遊び、同門の友である霊山の宗真哉(士仁)の別荘に留まり、時に儒流(儒家の流派)を訪い、或は山紫水明の間に逍遥して優游自適(ゆうゆうじてき)した。このようにして、12月になり、京都を発して更に江戸に赴き、安井仲平、木下士勤等の諸氏と交わった。
そうしているうち、だんだん医籍に通ずるようになり、蘭方医竹内玄洞に迎えられその家に仮ずまいしたが、翌嘉永元年(1848年)に豫て(かねて)文武の士を愛していた大番頭久貝因幡守に知られて、市谷加賀町にある道場内に住むこととなった。当時甕谷は東坡(とうば)の詩句を取って、その住居を東雪舎と称した。偶々(たまたま)この頃より天下漸く多事ならんとし、日出藩主は、万里を迎え、政務に与(あずか)らせるうち、万里より召還の命が来たので、翌二年四月郷里に帰り、西?(せいえん)に行き群弟子の業を監督し、また児童に句読を授けなどした。
この年、甕谷は時世を感ずる処あり、そぞろに叔父真甫の談を想起し、七月「承久記略」の稿を起こし、数月にして草稿ができた。嘉永五年師万里の没後、始めて熊本の時習館居寮生に補せられたが、時すでに業はほとんど大成していたので、意気自ら教授を圧した。この頃、全国到るところ海防論が盛んで、熊本では幕府により出兵を命じられたことによって上下の騒ぎは一層甚だしくなっていた。そこで甕谷は屡々(しばしば)当事者に上書し、警告を発したが、その議論は他に抜きんでて、尋常書生の企て及ぶところではなかったので、遂に藩の重職沢村西坡の知遇を受けることとなった。そうしたことから、安政元年には経筵侍講(教師の役)に転じ、翌年には唐栄明清歴朝の律令に精通したことによって、更に獄曹椽(刑務所長の役)
となり、尋(つい)で詮曹(裁判長の役)となり、中小姓班(家臣の役)に列した。
安政三年藩主につき従って江戸に赴き、在府中「覇窓漫興」を著した。翌年四月帰国したが、この頃より天下益々多事であったので、爾来(じらい その後の意味)藩命を帯びて、東往西帰すること殆ど虚歳(なにごともせずむなしくおくる年)なかった。この間にあっても、常に心を西籍にひそめ、文久三年(1863)には、熊本壺井川上に家を求めて、「竹寒沙碧書屋」と名付け、暇あれば入って、読書窮理につとめてやすむことなく、また羽倉簡堂、河田楢興、長戸士謙、関思恭 等の詩儒と厚く交わった。かくて藩に仕えること十有三年、慶応三年48歳の時、成山公子(長岡子)に上書し、病を以て職を辞した。
明治維新後、抜擢されて昌平校教授となり、尋(つい)で大学少博士となった。時に満五十歳。
遠近の志士、甕谷の名を聞いて来たり業を問うもの、加賀大聖寺藩士倉知光謙等三十余人に及んだ。
翌年七月大学少博士を免ぜられ、更に太政官少史(政府の役職)に補せられたが、固辞して就かず、従游の士に謝して、冬東京より高田に帰った。明治四年延岡藩の招に応じ、家を携えおもむいて学業をとりしまり、また課業の余暇、英文の研さんに力を注ぎ、滞在中「窮理改環」一巻「訳文彙」数巻を著訳した。
六年十一月疾を以て辞職し熊本の旧荘に帰臥して、自ら教を開いた。このような生活を二、三年して、たまたま東京の旧友よりしきりに入京を促して止まないので、明治九年二月遂に東上し、紹成書院を創設して教授を始めたところ、書院の名は遠近に振るい(盛んになること)来たり学ぶもの前後数千人に達した。
時の人川田甕江と並称して、東都二甕の名を以てした。
間もなく東京大学文学部教授となり、二十二年東京学士会員に推薦された。この時、七十歳であった。甕谷は晩年蘭学より英学に入り頗(すこぶ)る西籍に意を用いて、前記「窮理改環」「訳文彙」の外、「西客問答」等を著訳したが、傍(かたわ)らまた東西の歴史を大成しようと志し、嘗(かっ)て内大臣三条実美(さんじょうさねとみ)に上書してその儀を建白したが顧みられなかったので、奮然(ふんぜん)自ら稿を起し、「東瀛記事本末」二十巻を著し、漸次西洋各国に及ばんとした。然るに世の風潮一変して、人々の洋風に心酔するようになったので、これにあきたらず爾後また西説を談ぜず、好んで論語を講じて、「紹成講義」の著述がある。
是より漸く世間にそむき、家道また昔日の如くなかったけれど、窮を守りて貧に安んじ自ら居ることを安らかにした。
甕谷はまた叙事文に力を用い、「漢訳常山紀談」十巻の編がある。常に自ら謂(いい)て曰「巧拙はしばらくこれを措(お)き紀実の文に於いては予の如く研鑽せしもの、わが国他にるなし」と。
門人中江篤介(兆民)の、仏学者を以て文に長じたのも、甕谷が此の如き抱負を以て、薫陶下に依るところなしとせぬ。
されば晩年甕谷が肺を患わって病勢漸く加わるや、一日細川十州が来訪して梅花数枝を送られたところ、甕谷は大いに悦び、床上に仰臥(ぎょうが あおむけにねること)したまま、下記一首を吟じた。
詞朋贈我一瓶春。 数朶瓊英映壁新。自咲衰残瀕死曰。得為渓上看梅人。
朶(枝の意味) 瓊(玉のように美しいこと)
時に十州は瀕死の二字は何とか改むべきであるといったが、甕谷は是れ写実なりと答えて改めなかったという。
明治二十八年(1895)二月十八日、七十六歳で築地の仮ずまいに没した。越えて三日、青山墓城に葬り、おくり名は、文靖先生という。
長子参太郎は法学博士。次子匡四郎は工学博士、子爵井上毅の跡を嗣いだ。
-鶴崎町史人物編より-
*原文そのままに書いているため、わかりにくい漢字等にはフリガナや意味を注釈しました。