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高田風土記は細川藩が江戸時代の末期に肥後藩領だった高田手永(旧鶴崎市に近い領土)について詳細に調査した報告書です。
その中で高田地区に関係するところを抜粋してみました。
なお、当時高田荘といわれたところは、高田 をはじめ、鶴崎、三佐、桃園、別保、明治、日岡、東大分、大在字志村、川添字迫、鶴村の 1町9ケ 村に亘る地域でした。
高田風土記ついては下記を読んでください。
南村
鶴崎御茶屋から南の方角で、堂園村・常行村を通って二十四
五丁程である。
○東から南に回っては下徳丸と境になる。 西隣は、鵜猟河瀬
村と境になる。それより西川(乙津川)を超すと、臼杵領横尾村
と境になる。
北はすべて常行村と境である。凡そ東西六丁半ほどの地である。
田畑賦税(この項原文のまま)
畑十七丁一反七畝余、高百五十三石一斗余、物成七十七石四
斗余、免は五ツ余、この分は本方にして、この外新地分高三
石九斗余、畑畝数は新地・諸開畝物等にて一丁四反二畝あり
て、上納米三石余・運上銀十匁余なり、御年貢は銀納にて堂
園村等に同じ。
物成とは 田畑からの収穫。近世の農民の負担した年々の
租税のひとつ。本年貢をさす
免とは その年の年貢・課役を免除または減免すること
土地糞壌
畑地は多く村の三方面にあって、多くは耕作に適する土地
であるが耕すには苦労する。村の西に当たる鶴崎からの街
道の両側は作物栽培には向かない。しかし西側の土手側の
下は新開地もあって、小砂混りで柔らかい土地ではあるが、
土性は浅い。
○肥料はすべて堂園村等に同じである。【肥料はもっぱら油
粕を使う。時には小雑魚・鯛などを求め、また鶴崎から水糞
を求めて使うこともある。三里ほど離れた臼杵領まで出か
けて、秣を刈り、馬に踏ませて肥やしにすることもある。】
戸口牛馬
村の竈(かまど)は五十軒余、男女二百四十人余、馬七疋いる。
○村の中には瓦葺き蔵が一軒ある。
○持ち高五石から三石までの百姓は五軒、 二石から一石ま
で十五軒、一石から無高まで三十一軒ある。
○高・畝を人口で割ると、一人につき高六斗余・畝数は七畝
余にあたる。
課役
この村には助水夫一人いて、年々御参勤の時に出勤する。其
の外堂園村 等に同じ。【または不時の御用の時、出勤する。
其の外、堤防の普請や、宿駅の勤めや山林竹木の伐り出し等
に努める。 また鶴崎の近郊に火事があったときは、駆け付
ける任務がある。】
神祠寺院
若宮社の一ヶ所がある。 祭祀は相模の国(神奈川県の大部
分) 鶴岡八幡宮で、建久七年丙辰(一一九六)に大友初代能
直侯が勧請した。最初は徳丸地区にあったが、天正中豊薩の
乱の兵火に懸りました。寛永六年(一六二九) 加藤忠広公が
今の所に鎮座地として造営したと云われています。 [委しく
は社記にある。] 神社地は九畝余の地である。須ヶ在・近在
十五ヶ村の産土神であり、奥在九ヶ村まで含んだ総鎮守で
ある。
産土神うぶすながみ とは
産土神は、神道において、その者が生まれた土地の守護神を指す。
その者を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされており、
他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられている。
もとは氏神とは異なる地縁の神であるが,近世は混同されている。
山林原野
西川の近くの土手に御藪が一町三反九畝余あり、其のほか
に村の中の人家の間に御藪が二反六畝余ある。西川筋に少
しばかりの河原があるだけで、薪・秣のことは 堂園村に
同じである。
川池水利
村の西を西川が流れて、村内に水吐き水道二ヶ所ある。
○村の中には井戸が二十余〔深さは水際まで二間から二間
半まで〕あり、水の勢いは強い。
街道
鶴崎御茶屋から南にあたり、関門を通って三十丁程隔たっ
ている。
この村から臼杵領横尾の岩船と云うところに、舟渡がある。
それを「榎ヶ瀬」の渡しと云う(川幅は凡そ、三十間程ある。)
馬船は一艘あって、船守三人で往来の人や馬を渡している。
船は村でお金を出し合って作っています。村の西側畑の中
を通る、鶴崎から犬飼への街道が通っている。また榎ヶ瀬か
ら百堂の渡し場へ通る街道が通っている。 〔この街道は府内
から臼杵への街道でもあります。]
産物
堂園村の内容と同じである。
餘産
この村も鍛冶屋を仕事とする人は数人います。多くは鎌を作
る仕事です。造った鎌を農閑期などに、近くの田舎や他領
まで行商し、捌く者も多くいます。女は縁り布を織り、男は
日雇・他所稼ぎなど、 其の外に大工・桶屋・屋根葺きを生業
とする者、又酒屋など商いをする者もいる。
風俗
この村には富裕な家はない。他は堂園村と同じである。