毎年11月、大南大橋近くの大野川河川敷(戸次川古戦場跡)では「大野川合戦まつり」が開催されています。<今年は11月14日に開催>
このまつりは、戦没者を慰霊するとともに、地域の歴史と伝統を後世に伝えるため毎年秋に行われている伝統的なイベントです。
今回、「大野川合戦まつり」の開催が近いこともあり、「ふるさと歴史教室」事務局長の村上浩明氏の企画による「戸次川の戦いの地巡り」に参加してきました。
11月4日10時に利光公民館に集合し、参加者5名で鶴ヶ城をはじめとする合戦ゆかりの地を巡りました。<※私は午後に予定があったため、鶴ヶ城訪問のみ参加しました>
当日は村上氏に加え、大友氏顕彰会理事長の若杉孝宏氏にもご案内いただき、現地で非常に詳しい解説を聴くことができました。
昨年の「大野川合戦まつり」の様子





👉大野川合戦祭り令和7年度
👉大野川合戦祭り令和5年度
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豊薩戦争の概要
まずは、この戦いの背景となった「豊薩戦争」について、その概略をまとめてみます。
【豊薩戦争(天正14年・1586年)】
九州の覇権をめぐり、九州を二分していた島津氏(薩摩)と大友氏(豊後)が激突した戦争です。 宮崎県の「耳川の戦い」で壊滅的な大敗を喫した大友軍は、豊後国内にまで島津軍の侵攻を許すこととなり、豊臣秀吉に援軍を要請します。
府内近くまで侵攻してきた島津軍は鶴ヶ城を包囲します。鶴ヶ城城主の利光氏や地域住民が立てこもり、懸命に対抗しました。
四国からの長宗我部氏と大友軍の連合軍が応援に駆けつけ戦いましたが結果は惨敗。
その際、戦場のすぐ横にあった鶴ヶ城は最後まで落城しなかったものの、連合軍の惨敗を受けてやむなく降伏することとなります。その後も大友軍は後退を余儀なくされ、本拠地である府内(現在の大分市中心部)も焼き払われ、大友家は滅亡寸前まで追い込まれました。しかし、秀吉率いる20万近くの大軍が九州へ進軍したことで島津軍は降伏し、豊薩戦争は終結を迎えます。
(個人的には、このあたりの攻防が大河ドラマで大きく描かれるのではと期待していたのですが、「秀吉が九州を統一した」の一言であっさり終わってしまい、少しがっかりしたところです…!)
なお、これまで九州北部6カ国(豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後)を支配していた大友氏ですが、この戦い以降、秀吉から豊後一国のみの所領に格下げされ、衰退への道をたどることになります。
以下に、豊薩戦争の流れをまとめたフロー図を掲載します。
詳細に入る前にこれまでの大きな流れを追ってみたいと思います。豊薩戦争の始まりから終結まで
耳川の戦い(天正6年 / 1578年)
薩摩軍と大友軍が日向・高城川原で激突。大友軍は重臣を多数失う壊滅的大敗を喫した。これにより大友氏側の勢力は急速に衰退した。
島津氏の九州勢力拡大 (1579年 - 1585年)
耳川の戦いの勝利後、島津氏は肥後や筑前に進出し、龍造寺氏を倒して九州の大半を支配下に置いた。
参考 龍造寺氏
肥前国(現在の佐賀県・長崎県)を発祥とし、島津氏・大友氏と並び「九州三強」の一角に数えられました。
大友氏豊臣秀吉への助けを要請 (1585年 - 1586年)
大友宗麟は大坂へ上洛し、豊臣秀吉に救援を要請。秀吉は「九州惣無事令(私闘禁止令)」を発令したが、九州統一目前の島津氏はこれを無視して大友の本拠地・豊後へ侵攻を開始した。
島津軍の豊後侵攻(戸次川の戦い) (1586年12月)
島津家久らが豊後に進撃。四国勢(長宗我部信親・十河存保ら)を中心に派遣された豊臣先陣軍を戸次川で撃破し、大友の本拠地・府内城を一時落城させた。
豊臣本軍の大挙上陸と終結
秀吉自ら20万の大軍を率いて九州へ上陸。破竹の勢いで南下する豊臣軍に押し込まれ、島津義久は降伏(泰平寺の会見)。豊薩戦争は終結した。
戸次川の戦いと鶴ヶ城
戸次川の戦いと鶴ヶ城の戦いは、非常に深い関わりを持っています。 戸次川の戦いが起こった直接の発端は、島津軍に包囲されていた鶴ヶ城を救援するため、長宗我部氏と大友氏の連合軍が援軍として向かい、激突したことにあります。
👉戸次川合戦と鶴ヶ城
その詳細な流れについてもまとめました。



戸次川の戦いの流れ
島津軍の豊後南下と利光鶴ヶ城包囲 (1586年11月〜12月上旬)
島津家久率いる軍勢が豊後へ侵攻。大野川沿いの府内南の防衛の要衝であった鶴ヶ城を包囲、孤立させた
利光 鶴ヶ城の攻防戦 (1586年12月11日前後)
城主・利光宗魚(利光鑑教)らの率いる城兵約1,000が籠城し島津軍に激しく抵抗するも、宗魚が討ち死に。落城寸前の危機に陥る。宗魚は敵の鉄砲丸に当たって戦死したといわれています。
城主を失ったものの、志賀親度(城代)や宗魚の遺族・城兵らは大友氏や長曾我部氏の到着を信じて城を死守し続けました。
救援軍の着陣と軍議の対立 (1586年12月12日)
豊臣の先陣(四国勢:約6,000)(:長宗我部元親・信親父子、十河存保、仙石秀久)と大友軍(約3,000)が鏡坂(戸次)周辺に到着。川を挟んで竹中方面に陣取る島津軍と対峙する。
渡河攻撃と戸次川の大敗 (1586年12月12日夜〜13日)
救援を急ぐ軍監・仙石秀久の主張により秀吉本隊の到着を待たず渡河攻撃を強行。島津軍の作戦にはまり、長宗我部信親や十河存保らが戦死する大敗を喫した。
鶴ヶ城の開城 (1586年12月13日)
耳川の戦い~豊薩戦争の終了までの日々 を追う
今回の散策では、村上氏が鶴ヶ城合戦の前後の経過を追って詳細に整理された貴重な資料をご用意してくださいました。 村上氏よりブログへの掲載許可をいただきましたので、注釈を入れながらアップしてみたいと思います。
※主な参考資料 大正十五年(1926) 郷土史研究家 佐藤蔵太郎(別名鶴谷外史) 著 「鶴賀城戦史」
月ごと、日ごとを追っていくと、映像を見ているようです。
鶴賀城 (別名利光城)
(豊後国における「古代豪族(大神氏)から鎌倉武士(大友氏・利光氏)への支配権の変遷)
城主<戸次川合戦時の城主>
利光越前守鑑教 あまのり(宗魚) 天正十四年(1586)12月7日死亡(50代後半~60代前半 不明 墓は成大寺(じょうだいじ)にある。
※写真は最後の尉大事にアップしています。
- 歴史
大神惟基(おおがこれもと 豊後大神氏の祖といわれる)の次男の阿南惟季の城だったが、建久七年(1196) 大友能直よしなお<大友初代>が豊後に入国し地元豪族を一掃した後、 大友能直の三男重秀しげひでの三男親家ちかいえが利光姓を名乗り入城。以降、 代々利光氏が城主となる。
※鶴ヶ城の歴代城主と大神氏の関係は、「大神氏(阿南氏)によって創築・利用された初期の城郭が、大友氏の豊後支配に伴い大友庶流の利光氏へと引き継がれていったということでしょうか。
1・合戦の原因となる島津氏の動向
| 元亀元年(1570) | 島津義久が対立していた薩摩の国衆を、 軍事・外交両面を駆使して薩摩を統一。 |
| 元亀三年(1572) 2月26日 | 大隅国の国人、 禰寝重長ねじめしげながが島津氏に降伏。 |
| 元亀三年(1572) 5月4日 | 木崎原の戦 薩隅日肥(さつぐうにっぴ)が接する要衝地の真幸院まさきいん (えびの市周辺) に進攻し 木崎原の戦で約3,000の伊東義祐の軍を島津義弘が約300の兵で 「釣り野伏」 戦法で破る。 ※1・薩隅日肥 (現在の鹿児島県・宮崎県・熊本県当たりの地) 2・釣り野伏 戦国時代の九州の武将・島津氏(島津義弘・島津家久ら)が得意とした、 偽装退却による包囲殲滅戦術です。 |
| 天正二年(1574) | 大隅国の国人伊地知重興 肝付兼亮が正式に降伏し、 薩摩・大隅二国平定。 この頃、 大友義鎮(おおともおししげ 大友宗麟)は九州六ヶ国の守護となる。 |
| 天正四年(1576)8月 | 日向国への侵攻を始め、 伊東氏の西部防衛の要衝の高原城たかはるじょうを水の手を遮断 するなどで陥落させる。 |
| 天正五年(1577) | 高原城の敗北を契機に、 日向国中部の有力国人であった野尻城主の福永丹波守等、 日向国人や伊東家臣の島津氏への内通 (裏切り) が相次ぎ、 伊東義祐 祐兵親子は 孤立無援となる。 (伊東崩れ) |
| 天正五年(1577)12月 | 島津軍の圧迫に耐えかねた伊東義祐は、本拠である都於郡城や居城の佐土原城を 戦わずして放棄。 義祐は150名ほどの手勢を連れ、 米良山中を越え豊後亡命。 大友義鎮に救援を要請する。 (豊後落ち) |
2・耳川の戦
| 天正六年(1578)1月 | 大友義鎮・義統が伊東氏を日向に復帰させようと日向への遠征を決定。 |
| 2月21日 | 伊東家臣団を含む大友軍の先鋒隊が伊東四十八城の一つの日向門川城に入城 |
| 3月18日 | 伊東家臣団を含む大友軍の先鋒隊が伊東四十八城の一つの日向門川城に入城 |
| 義統は宇目の酒利 (佐伯市宇目) などに本陣や露営を置き物資調達にあたる。 | |
| 同じ頃伊東家臣団が伊東四十八城の一つの日向新納石城に入城。 | |
| 4月15日 | 大友軍が叛意した日向国北部領主で松尾城に籠城中の土持親成を攻撃し滅す。 |
| 7月6日 | 北上した島津軍が、 伊東氏が守る新納石城に到着し攻撃するも落城せず。 |
| 7月18日 | 島津軍敗走。 |
| 8月16~19日 | 島津軍が伊東家臣団が守る日向隈城 ・日向上野城を攻撃。 |
| 9月6日 | 大友義鎮が海路から日向入り 延岡の無に布陣。 |
| 9月15日 | 日向隈城 日向上野城が落城。 |
| 10月20日 | 耳川以北に布陣した大友軍が南下し、 日向高城を包囲し攻撃するも落城せず。 |
| 10月24日 | 3万の島津軍が鹿児島を出陣。佐土原城に入城時は日向勢を含めて総勢4万。 |
| 11月9日 | 高城川 (小丸川) を挟んで南側島津軍2万、 北側大友軍4万の間で小競合い。 |
| 11月12日 | 本格的な戦いとなるも、 島津軍の「釣り野伏」 戦法で大友軍大敗。 これを期に、 筑後 筑前 肥後で大友氏から離反する国人が多発。 豊後国内でも大友氏の求心力は低下。 肥前の龍造寺氏が大いに勢力を増大。 島津氏は日向国を掌握し、 次は肥後国に進出。 |
3・島津氏の北上
| 天正七年(1579) 8月 | 島津軍は 1,800 余騎で相良氏の水俣城を攻撃するも落城せず。 |
| 天正九年(1581) | |
| 8月2日 | 織田信長の仲介によって大友氏と島津氏の間で和睦が成立。 |
| 8月18日 | 島津氏が水俣城を落とす。 |
| 天正十二年(1584) | |
| 3月24日 | 島津氏は、 台頭してきた龍造寺氏と島原の沖田畷で戦う。 島津氏が 「釣り野伏」 戦法で破り龍造寺隆信は戦死。 これにより、 肥後 筑後 肥前で島津氏に下る国人が多発。 |
| 天正十三年(1585) | |
| 10月13日 | 豊臣秀吉が 『惣無事令』 を出し、 大友と島津の和睦を求めた。 |
| 10月15日 | 島津義久が筑前 豊後へ進出することを決定し、 各地で調略を始める。 |
| 天正十四年(1586) | |
4月5日 | 大友義鎮が大坂城で豊臣秀吉に謁見、 教授を求める。 |
| 7月14日 | 4万の島津軍は763人で守る高橋紹運の岩屋城を包囲攻撃。 |
| 7月27日 | 岩屋城は陥落し高橋紹運は壮烈に戦死。 |
| 8月6日 | 2000人で籠城していた宝満城が降伏 開城し立花統増は島津軍に捕えられる。 |
| 8月24日 | 3000人で籠城していた立花山城の立花宗茂が島津軍に城の開城を申出る。 しかしこれは宗茂の時間かせぎの計略。 秀吉配下の毛利軍の先遣隊が小倉城まで来ていることを知った島津軍は 止むを得ず撤退。 以後戦略を豊後攻略に切り替える。 |
4・島津氏の豊後侵攻
| 天正十四年(1586) | |
| 10月2日 | 60,000 の軍勢が鹿児島を出発。 島津義久は本営を日向の縣 (現在の延岡市) に置き、 肥後側から島津義弘軍 25,000、 日向側から島津家久軍 20,000 が梓峠を越えて豊後へ攻め入る。 |
| 10月20日 | 島津家久が三重町の松尾山に城を築き、 佐伯の栂牟礼城、 臼杵の丹生島城等 の攻略の拠点とする。 |
| 10月21日 | 島津義弘軍が竹田の高城を落とす。 |
| 10月24日 | 島津義弘が大友氏を裏切った入田義実に迎えられ津賀牟礼城に入城し、 岡城 等の攻略の拠点とする。 |
| 11月3日 | 島津家久軍の土持・新名らの2,800 の軍が佐伯栂牟礼城を攻めるも落城せず。 翌日諦めて引き上げる。 |
| 11月5日 | 島津家久軍の野村・ 白濱らの 2,000の軍が臼杵丹生島城をめるも落城せず。 3日間の攻防後諦めて引き上げる。 |
| 12月24日 | 山野城 (朽網城) を攻めていた島津義弘軍が城主朽網氏と和睦。 義弘が入城。 |
| 天正十五年(1587) | |
| 1月26日 | 島津義弘が野上城を陥落させて入城。 |
| 3月12日 | 島津義弘は島津家久と入れ替りに府内に入る。 家久は大野郡松尾城へ戻る。 |
5・鶴ヶ城攻防戦

| 天正十四年(1586) | |
| 10月下旬 | 10月下旬 島津家久が鶴賀城に降伏を勧める使者を送る。 鶴賀城は家臣700 と領内の老人や婦女子を加えた3,000 とともに籠城中。 利光宗魚が不在のため、 鶴賀城は一旦降伏を受け入れる。 |
| 11月11日 | 島津家久軍が大野郡寒田村細口を出て吉野川に丸太の橋を架けて渡り、 大分郡 影ノ木まで進軍。 この頃利光宗魚が豊前より帰城し、 鶴賀城勢は一転反撃に出る。 |
| 11月14日 | 念仏坂の戦 |
| 11月15日 | 島津家久軍が梨尾山を占拠。 以降鶴賀城の南側で戦闘が続く。 この頃柴田紹安が二重スパイを疑われ天面山城に監禁される。 |
| 11月16日 | 金井迫の戦 (鶴賀城と梨尾山の間) |
| 11月25日 | 島津家久が松尾山を出陣 |
| 11月29日 | 天面山城の島津兵 100余が影ノ木の島津兵に合流しようとするも古屋右馬之丞 の計略で全員誅殺される。 |
| 12月5日 | 島津家久が梨尾山に着陣。 |
| 12月6日 | 島津家久軍が鶴賀城総攻撃をするもなかなか落城せず。 |
| 12月7日 | 利光宗魚が、引き上げる薩摩軍の流れ弾 (流れ矢?) に当たり戦死。 鶴賀城はその後も島津軍との戦いを続けた。 |
6・豊臣方の援軍と戸次川合戦へ
| 天正十四年(1586) | |
| 9月18日 | 豊臣方の島津征討の先遣隊として仙石と十河の讃岐勢3千、 長宗我部の土佐勢 3千の計6千の四国勢が豊後府内に着陣。 |
| 10月上旬 | 大友義統と豊臣方の先遣隊は府内から豊前宇佐へ出陣し10日程で平定。 (この間に島津が豊後入国をしていることから、これは島津の誘導作戦?) |
| 11月13日 | 秀吉が府内の四国勢に 「自分が行くまで待機しろ」との旨の令状を出す。 |
| 12月8日 | 一旦府内に戻っていた大友義統と四国連合軍が鶴賀城救援のため府内を出陣。 |
| 12月11日 | 鶴賀城対岸の鏡城に着陣。 |
| 12月12日 | 夕方戸次川 (大野川) の戦が始まる。 島津家久は城の囲みを解き、 川辺に小勢を展開させる。 島津勢が少ないと見た仙石は戸次川 (大野川) を渡河しての攻撃を命じる。 長宗我部元親は島津の策であると見抜き渡河に反対。 十河そごうも反対。 仙石独断で渡河を始める。 やむを得ず長宗我部勢は右翼、 十河 仙石は左翼となって、 2手から渡河。 すると川辺の島津の小勢は逃げ始めたので、 長宗我部も十河もこれを追う。 突如、 先遣隊の両脇から潜んでいた島津の精鋭が襲い掛かる。 さらに逃げると見せかけていた部隊も、 反転して攻撃に加わる。 「釣り野伏」 そしてあろうことか、 渡河攻撃を命じた仙石が真っ先に逃走。 そのために先遣隊は壊乱状態となる。 長宗我部軍の3千の兵が孤立し、 島津方の新納大膳亮の5千の兵と戦闘。 元親と信親親子は乱戦の中で離ればなれになる。 信親は中津留川原にて戦うが、 嶺で鈴木大膳に討たれる。 享年22。 信親に従っていた 700 人は討死。 十河も戦死。 鶴賀城も落城。 元親は戦場を離脱することに成功し、 そのまま伊予国の日振島まで逃走。 信親を始め、 戦死者の碑が戸次川を見下ろす嶺にある。 |
| 12月13日 | 戸次川での大勝の勢いに乗った島津軍が府内へと進撃。 戸次川合戦で後方 (鏡城?) にいた大友義統は、一旦逃げ帰った府内を棄て 豊前国の龍王城へと敗走。 府内は戦うことなく島津家久軍に制圧される。 鶴崎城攻防戦 |



7・鶴崎城攻防戦
| 天正十四年(1586) | |
| 12月13日 | 島津家久は伊集院美作守久宣、 野村備中守文網、 白浜周防守重政に兵3,000 を付け鶴崎城の攻撃に向わせるも、 国宗の琵琶の首で待ち受けた吉岡妙林尼 が指揮する高田の徳丸一党と地元の百姓の部隊に撃退され、 一旦大野川の 対岸にある川添の迫の白嵩社に陣を退く。 吉岡妙林尼は、その後16回に及ぶ島津軍の攻撃に耐え抜く。 |
| 天正十五年(1587) | |
| 2月 | 兵糧 弾薬が尽きたため、 城兵全員の命の保証を条件に吉岡妙林尼が鶴崎城を. 開城。 以後幾度か島津軍を酒宴でもてなす。 |
| 3月7日 | 島津軍妙林尼が島津軍との別れとして最後の酒宴を開く。 (鶴崎の島津軍は府内の島津軍と合流しようとした?) |
| 3月8日 | 酔いが残る島津軍が鶴崎を出て、 乙津川の寺司浜に差し掛かったときに、前夜 から隠れていた150の兵が島津軍に突如襲いかかる。 伊集院美作守、 白浜周防守を含む300以上の島津兵が戦死。 残る野村備中守はかろうじて逃れたが、 胸に弓矢を受けた傷がもとで日向の 高城に着いた後に死亡。 |


8・秀吉の九州征討
| 天正十五年(1587) | |
| 1月1日 | 秀吉が大坂城で九州侵攻の部隊編成を発表。 全軍を2つに分け、 秀長を日向方面軍 15万の総大将に任命。 自身は肥後方面軍10万とした。 |
| 2月10日 | 秀長軍が大和国郡山城を出陣。 この頃佐伯惟定が島津側の土持親信から朝日嶽城を奪還。 |
| 3月1日 | 秀長軍の先鋒 (黒田官兵衛ら) 1万5千が小倉に到着。 島津側に講和・撤退を勧告を始める。 同日秀吉が10万の本軍を率いて大坂城を出発。 |
| 3月6日 | 秀長軍本隊が小倉 (現在の福岡県北九州市) に到着。 |
| 3月15日 | 総大将の島津義久が豊後からの撤退を決断。 島津義弘 家久の軍が一斉に撤退を開始。 同時に、 野上城の新納忠元や白仁城の島津歳久ら、 豊後各地に分散配置され ていた島津諸将も同時に退却を始める。 (おそらく軍の人数と進行状況の情報から撤退を決めたのであろう) |
| 3月20日 | 総大将の島津義久と、退却してきた義弘 家久等が日向都於郡城で軍議。 |
| 3月28日 | 秀吉軍本隊が小倉に到着。 |
| 4月17日 | 秀長軍と島津家久軍が日向高城から南方 1km ほどにある 「根白坂の戦い」で 豊臣秀長率いる軍勢に大敗。 家久は佐土原城に退却。 その後秀長軍に城を包囲された家久は、上方での領地割譲などを条件に 島津4兄弟のなかで最も早く秀長に降伏。 単独での和睦に応じる。 |
| 5月3日 | 秀吉が薩摩川内に到着し、 鹿児島まで50km の泰平寺を本営とする。 |
| 5月8日 | 総大将の島津義久は降伏を決意し、 剃髪して秀吉に謁見。 秀吉は義久の臣従を条件に薩摩 大隅等の領有を認める。 |
| 5月25日 | 島津家久の所領の内の大隅等が島津義弘に与えられ、 義弘が秀吉の直臣となる。 |
| 6月5日 | 島津家久が佐土原城で急逝する。 (病死) |
鶴ヶ城

この山ろくに末院六ヶ寺を持つ成大寺があった。今は廃寺になっているが、境内に城将の霊を祭った次の基碑がある。
長空院殿前越州刺史水運宗魚大居士
天象天正拾四年丙戌歳拾弐月七日
平成十九年三月吉日
大分市地域まちづくり活性化事業
協力 鶴賀城保存会
写真は下記の成大寺にアップ
鶴賀城の由来
鶴賀城は別名「利光城」とも言われ、険しい連山の頂に築かれた山城である。以前は、豊後の豪族、緒方一族が治めていた。
建久七年(一一九六) 大友初代、能直公が豊前・豊後の守護職として府内に入り、地元の旧族を一掃した。能直の孫大友親家に「利光」と名のらせ、以来三百九十年間代々府内南の要衝として治めた。
天正十四年(一五八六) 大友、島津の確執はやがて「豊薩の陣」へと進んだ。 十一月には家久率いる薩摩軍二万の精鋭が伊集院美作を先陣に、二陣、三陣と攻め寄せた。援軍の大友、四国連合軍は、「戸次川の合戦」で大敗を喫する。
斜陽の大友家に節義を貫く城将、利光越前守宗魚の率いる三千余の豊後勢は、善戦数十日におよぶが、軍勢の差は大きく、水・食料を断たれ、矢彈つきはて、非運な最期を遂げる。
翌十五年、豊臣秀吉軍が九州平定に出陣し、薩将島津家久を収め、豊薩の天王山ともいわれる鶴賀城攻防戦は終わった。



成大寺
この山ろくに末院六ヶ寺を持つ成大寺があった。今は廃寺になっているが、境内に城将の霊を祭った次の基碑がある。
長空院殿前越州刺史水運宗魚大居士
天象天正拾四年丙戌歳拾弐月七日
平成十九年三月吉日
大分市地域まちづくり活性化事業
協力 鶴賀城保存会

鶴ヶ城からかっての古戦場を望む

今日の参加者です





