当ホームページに鶴崎地区の歴史年表として鶴崎地区各自治会の歴史年表を合算させたものをアップしています。👉鶴崎歴史年表
しかし、すべてを網羅しようとしたため、各校区の代表的な年表となり、詳細なものが抜けているような気がしていました。また川添校区のみの年表を作成したところ好評だったとこともあり、各校区別歴史年表を遂次作成してみることにしてみました。

尚、参考文献は「鶴崎地方歴史年表」,「高田村志」その他郷土史を参考
・ふるさと松岡・三佐の歴史年表・残しておきたい明治のはなし・ふるさと川添の歴史誌等です。

今回おもに参考にした「鶴崎地方歴史年表」は、郷土史家・安部光五郎先生が編纂されたものです。安部先生は川添小学校や明治小学校の先生、高田小学校の校長先生として長年にわたり地域の教育と文化振興に尽力されてきました。また、地元である鶴崎地区を深く愛し、鶴崎地区の歴史と民俗の発展に計り知れない貢献を果たされました。安部先生の足跡を振り返り、深い感謝と敬意を込めて、ここに先生のご経歴を添えたいと思います。

安部光五郎先生のプロフィール(郷土史家)

・明治41年鶴崎に生まれる。
・昭和4年3月 大分師範学校を卒業
・昭和41年まで小中学校教諭及び校長
・昭和42年~昭和45年 鶴崎公民館長
・その後も郷土史家として多くの執筆をされる傍ら「ふるさとの歴史教室」(大分市鶴崎地区文化財研究会)の会長をされる。
 また、長子の安部光太郎氏も高校の教師をされ光五郎氏と同じく歴史教室の会長をされる。

専想寺


別保校区の歴史年表 

別保校区の歴史の背景については「別保歴史教室史談会 会報№」代表 後藤豊喜 平成18年10月号 を参照しました。

鎌倉~明治時代

西暦年号日本の主な出来事事  項
1190建久元年鎌倉幕府創立

1196
建久7年若宮八幡宮(岩船八幡宮)創建。祭神、大鷦尊(オオササギノミコト) 大友家初代、 大友能直が鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の分霊を勧請して横尾岩船に本社を創建した。
1285弘安8年豊後国、図田帳を幕府に提出した。 高田荘別保200町歩の内180町歩が京都の城興寺の所領であった。
1387元中4年
嘉慶元年
興聖寺を森村曲手に僧明室が開基。 本尊 阿弥陀如来、 臨済宗妙心寺派、 元和元年、下徳丸字屋敷に移転、文化11年6月12日火災焼失した。
1338延元3年足利幕府創立
1476文明8年僧天然浄祐、 森町字外園通に専想寺を創立、 本尊、阿弥陀如来立像、 真宗本願寺派である。
1506永正3年専想寺の開基天然上人死去65才。
1590天正18年秀吉全国統一
1594文禄3年森村・森町村は公領となり後臼杵領となる。
1810文化7年伊能忠敬鶴崎地方を測量 (2月13日より3日間小雨の中を、 家島 小中島 徳島、 門田、 国宗、迫、鶴村等を実施した)
1811文化8年12月23・24日に臼杵領で百姓一揆が起り森町、横尾、 毛井の庄屋などを破壊したが、その時の森町の庄屋篠田専右衛門宅も破壊された。
1812文化9年皆春天満社創建 祭神菅原道眞
1820文政12年3月10日専想寺の開基天然の墓が猪野天然塚に
建立。
1832天保3年天保大飢饉
1846弘化3年妙心寺の住職になった森町出身の僧虎関死去。
1847弘化4年森町字外園通に金比羅社創建、 祭神金山彦命、文久の洪水で流失。
1851嘉永3年3月専想寺本堂建立、 上棟16世祐慎
1860万延元年皆春中島に石碑のある里正、 後藤九右衛門78才
で死去。
1863文久2年大野川流域の大洪水 (8月)
1867慶応3年徳川幕府大政奉還

明治時代

西暦年号日本の主な出来事事     項
1871明治4年廃藩置県森・森町村は臼杵県、 門田 ・皆春村は延岡県となる。(7月)
11月大分県となる。
1875明治8年県の大小区設定・町村合併により中島村 門田村が皆春村となる。

・3月13日大小区設定により大分郡は第3大区となり、千歳村皆春村が8小区、 森 森町、     
 小池原、 葛木、 猪野、 横尾村は9小区となる。

・森町小学校 皆春小学校が開校。
1877明治10年西南戦争別保地方にも戦傷者往来。
1878明治11年大小区が廃止郡町村制が施行された 大分郡皆春村、 森町村、 森村となる。
1885明治18年5月16日皆春の眼科医で俳人、 習字の師匠であ
った後藤庵(号馬佛) 102才で死去。
1889明治22年 4月1日町村制公布
大日本帝国憲法発布
森村・ 森町村・ 皆春村が合併して別保村が誕生
した。
1892 明治25年7月13日皆春尋常小学校と森町尋常小学校が統
合して別保尋常小学校
となり現在地に校舎を建
設 。
1893 明治26年10月13~15日大野川水系に大洪水があり流失家屋 鶴崎町50戸・別保村15戸・松岡村12戸・川添村10戸・高田村では溺死者84名流失家屋93戸牛馬の死14頭に及んだ。
1894明治27年日清戦争
1896
明治30年1月10日明治大分水路の工事が始まる。
1900
明治33年5月明治大分水路の工事が完成する。
1903明治36年日露戦争
1908 明治41年小学校令の改正小学校に高等科が併設されるようになり別保常高等小学校が誕生。
1910 明治43年專想寺住職大内祐象81才で死去。 明治22年別保村誕生の際に、 寺の古文書により村名を決定した。

大正時代

西暦年号日本の主な出来事事     項
1914大正3年第一次世界戦争
鶴崎駅開業
3月28日新聞人、 県会議員として活躍した皆春の後藤田鶴雄58才で死去。
1921大正10年10月16日森町の阿部征矢太郎死去。 氏は別保村長、
県会議員として活躍、 別保橋の架橋などに多くの業
績を残し現在別保橋の近くに石碑がある。
1924大正13年皆春神社前に火災が発生、 折からの強風により手押しポンプの時代、 水の不便と共に附近住宅|数戸を焼失しさらに布団綿の火は風にのり 300m離れた中島部落に飛火して、 住宅1棟を全焼した。

昭和時代

西暦年号日本の主な出来事事     項
1927昭和2年2月1日別保小学校に木造2階建 8教室の校舎が新設された。
1937昭和12年日支事変が始まる
1938昭和13年4月1日自治体強化確立のため49年続いた別保村は、 鶴崎町に合併した。
1941昭和16年太平洋戦争12月8日
国民学校令制定
4月1日小学校制度が変更になり、 別保国民学校に改称された。
勤労青年に普通教育、 産業実務、 軍事教育などを行うため、 定時制の中等教育機関の別保青年| 学校が小学校内に設立された。
1943昭和18年9月20日大野川水系の大洪水により近隣の町村と共に、別保地区の住宅の殆どが2m程度の床
上浸水があり屋外一帯は見渡す限り泥海となり、家屋や牛馬、 鶏などの家畜を始め、種々の器具、木材等を浮べて激流となって流れる様は、筆舌に尽くし難い恐ろしい光景であった。
洪水の去ったはみるも無残な状態で、住宅の中は勿論水田、 畑は、砂利、 泥土が堆積して、
農作物の収穫は皆無の状況であった。
この大洪水により最も悲惨なことは他の近郊町村と同様に別保地区でも6人の溺死者があった
ことである。
またこの洪水のため、 大字森の乙津川堤防傍の河川敷内にあった旧制鶴崎中学校 鶴崎高等学
校の前身) の平屋建木造校舎が全部流失した。

なおこの未曾有の被害状況は新聞、 ラジオ等に大きく報道され、 大分市を始め近隣町村から、数千人の救援隊が来て復旧作業に当たった。
特に大分市内の中等学校生 (現高校生)の活躍は数十日に亘り目覚ましいものがあった。
救援物資についても関係各機関から応援がありその受取に毎日奔走した。
1945昭和20年第二次世界大戦終了8月15日 終戦
10月10日 乙津川氾濫
1947
昭和22年学制改革4月1日国民学校を小学校に改称。 新学制により市町村立の新制中学校が設置されるようにな
り、別保小学校内に鶴崎町立南中学校が設置された。同時に青年学校が廃止された。
1951昭和26年9月1日別保地区の南中学校と三佐地区にあった北中学校が統合して、 鶴崎町立鶴崎中学校に
名称を改めて皆春の現在地に開校した。
9月29日 別保小学校の南校舎木造2階建6教室が完成した。
1954昭和29年4月1日鶴崎市発足。 鶴崎町 ・明治村・高田村・川添村・松岡村5ヶ町村合併
1955昭和30年鶴崎町合併当時、 小学校の講堂建設の要望高く|別府市の小学校の二階建の古校舎を移転して改築し講堂として使用ていたが、危険度が増してきたので、市に対して講堂の新築を要望し、地域住民一体となって陳情を繰り返し、また労力奉仕の熱意等により7月に木造平屋建の講堂が完成した。
・12月31日の大晦日の夜半、 小学校前の山村産業の木工所より出火した火災は、 アパート 
 を含む4棟15世帯を焼失した大火であった。
 元日を目前に控えた大火の救済措置のため、正月元日の日に別保小学校の教室で臨時市議 
 会が開催された。
・中島橋の架替え工事が完成。 延長203m幅員 3.6m木橋、 下部鉄筋コンクリート
1957昭和32年10月別保橋の改修工事完成。 延長203m幅員 3.9
木橋、下部鉄筋コンクリート。
1958昭和33年第9回全国植樹祭
大分県開催
4月7日天皇皇后両陛下ご来県。
鶴崎市內視察。
1963昭和38年新大分市誕生3月10日大分市鶴崎市 大分町 大南町 大在村 坂市町の6市町村が合併して新大分市発足した。 人口 216,130人面積 347㎢
1964昭和39年東京オリンピック7月14日別保小学校のプール完成 25m 6コース。
低学年用の小プールもある。 工事費約200万円
1965昭和40年4月2日倉光酒造の火災発生、 住宅、工場を焼失。

5月30日岩船八幡宮と森の天満社を現在地に合祀して若宮八幡宮となる。 工事費約400万円
1966昭和41年5月31日森町に別保郵便局の新局舎完成。 木造平屋建 72.2㎡工事費約400万円。
局長 阿部正弘氏
1968昭和43年3月19日別保小学校の新校舎竣工落成式。 鉄筋
コンクリート2階建 8教室
工事費約2,500万円。
1969昭和44年毎年5月13日~15日江戸時代から盛大に開催されていた門田の市が、近年全く寂れたため幕を閉じた。
1970昭和45年6月10日中島橋 (国宗皆春間) の架橋竣工。
1971昭和46年別保橋の改良工事完成。
延長203m 幅員13.5m 鉄筋コンクリート造。
1974昭和47年東西公共排水路工事の実施を校区自治会長名で市議会に請願採択された。
1975昭和50年2月19日県下に誇る名利專想寺の由緒ある本堂が原因不明の火災により焼失した。 建築後125年を経過した建坪 300坪余で現在の本堂より一回り大きく壮大な伽藍であった。
2時間余に亘り火勢は激しく、 消防活動も思うにまかせず夜空を焦がす様は、 この世のものと思えない程のものであった。
翌日、 寺総代、 校区自治会役員による合同協議会を開催し後片付け作業等について協議した。

10月22、23の両日に亘り別保小学校の開校100周年記念行事が行われた。 記念式典は講堂に設営された式場に、 市長、 教育長、 市議会議長を始め、 かってこの学校に校長として在任した先生、 昨年度完成した運動場拡張に土地提供した地主の方などの来賓者、 そして式典行事執行委員等120名が出席して盛大に行われた。

◎記念事業
1・別保小学校発祥の地記念碑建立
  皆春小学校跡・森町小学校跡
2・校門改修と100 周年記念碑建立
3・国旗掲揚塔建設
4・記念樹木園新設
5. 記念文庫、 教育機器設置
6. 社会体育器具設置 (テント)
7.100年誌発行 (にぐるま)

◎記念行事

1・式典 (講堂)
2・招待少年剣道大会 (校庭)

3・地区対抗少年ソフトボール大会
4・記念バザー
5・3地区対抗野球大会
6・3地区対抗女子バレーボール大会
7・芸能祭
8・うまい物食堂
9・文化祭 図画、 習字、 書道、 焼物、生け花、
  教育資料、 民族資料の展示
10・記念樹即売の市
11・経費約 430万円

・別保校区自治会主催ソフトボール大会。
 昭和46年から団地開発が急激に進み、 新しく家を建て転入人口の増大に伴い新旧ふれあい 
 の場を設けようと 『別保は一つ」 の精神を確立しようとの目的により森大東中学の運動場 
 で開催した。

・7月臨海地区 (鶴崎、 大在、 坂市) の各校区にさきがけて、 法務省主唱に依る、 社会を明  
 るくする運動に協賛し、 第1回別保校区社会を明るくする運動推進大会を開催した。
 出席者 220名 (以降毎年開催)
1980昭和55年○1月3日別保校区社会福祉協議会が森町公民館で各種団体の代表60名が出席して協議の上結成
 した。
○9月別保校区社会福祉協議会主催の第1回老人生きがいゲートボール大会が開催された。
1981 昭和56年民法と家事審判法が
改正施行した
6月12日大字森に所在の大東中学の新校舎が大字横尾 2,660番地に移転新築完成した。
1984
昭和59年総理府に行政管理庁が統合1月12日別保小学校に鉄筋鉄骨建886㎡の体育館と、 2階建を3階建に増築した校舎が完成し
た。これにより普通教室 4、 特別教室 1が増設した。

3月18日別保公民館の竣工落成式が施行された。
来賓企業招待者62名関係者120名が出席して行われた。
1985
昭和60年プロ野球選手会が正式に認定された
初代会長 中畑清
・つくば科学博開催
2月26日市の推定による発表で別保校区の世帯数、人口は下記の表のとおり。

6月10日別保校区交通安全推進協議会が結成された。
地区内における交通事故を絶滅し、 住民の生命の安全と健康を守り、安全で明るい住み良い町づくりを目的とした。
昭和60年別保校区の世帯数、人口
西暦年号日本の出来事事   項
1986昭和61年衛星放送テレビの試験放送実施

老人医療費の自己負担額の引き上げ
別保小学校で第3回毛利空桑旗の争奪鶴崎地区
少年剣道大会が実施さる。 参加選手は小中学生282名であった。

11月22日別保公民館ふるさと祭実行委員会主催により、 第1回ふるさと祭が開催された。
開会式の後、芸能大会、 餅撒き、 子供神楽などの行事の他、 団子汁コーナを始め海産物、野菜果物、花木の展示即売会が行われ、 多数の人が集り盛況であった。
1987昭和62年日米貿易摩擦激化10月別保校区社会福祉協議会主催により第1回ひとり暮し老人の慰問激励会が開催された。 23名の対象者と21名の関係者が出席した。 以後毎年恒例行事となる。

9月27日別保校区自主防災協議会が結成された。
その目的は住民の隣保協同の精神に基ずく自主的な防災活動を行うことにより、 地震その他の災害による被害の防止軽減を図ることにある。
豊後国高田荘40村 (豊後国史巻四 大分郡の中)

     豊後国高田荘40村 (豊後国史巻四 大分郡の中)

・(旧東大分村)  今津留・中津留 花津留牧・萩原
・(旧日岡村)   原 ・高松・ 新貝・ 向原
・(旧桃園村)   山津・本三川 ・今三川・ 乙津・千歳
・(旧三佐村)   三佐・ 海原・ 家島
・(旧明治村)   小池原 ・葛木・ 横尾
・(旧別保村)   門田・中島・ 森・町森
・ (旧高田村)  大鶴・ 亀甲・南・鵜猟川瀬・ 常行・関門・堂園・上徳丸・下徳丸
・ (旧鶴崎町)  国宗 鶴崎寺司 小中島
・ 津留 迫 (旧川添村の一部)志 (旧大在村の一部)

別保歴史教室史談会 (会報№1)代表 後藤豊喜 

若宮八幡宮
若宮八幡宮
皆春天満宮

       目  次

(1) 別保の成り立ち (古代縄文弥生~現在までの大要)
(2) 森村、 森町村の条里制
(3) 若宮八幡宮
(4) 専想寺
(5) 薩軍豊後へ侵攻 (社寺、 仏閣の焼失)
(6) 巡見使来る
(7) 江戸時代末期の別保の藩政
(8) 別保村名と別保村の誕生
(9) 別保村教育の改革
(10) 明治水路開通
(11) 別保村の商工業の盛衰
(12) 別保地区は洪水との戦い

(1) 別保の成り立ち (古代縄文弥生現在までの大要)

別保より南方約1km位の所に 「横尾遺跡」 があります。 明治時代 (1869~1915)に調査をして全国的に有名になりました。

「横尾貝塚遺跡」(通称貝塚天神とも) は、 続いて昭和40年と昭和55、56年にかけて詳細な調査をした時にその後平成になり詳細を再調査した)、 発掘した出土品の中に 「ハマグリ、サザエ、 カキ」 などの海に生息する貝殻が大量に出土しました。このことは縄文時代のある時期にはこの付近に海があった証拠です。

「豊後町史」 に大要が記入されている。 これによると 「想うに太古に於いては、今日の鶴崎以北は勿論のこと高田、 松岡及び戸次の平坦部地方まで水が深く湾入していたであろうことは叙上の地形並びに地史学上から考察して、 容易に推測し得られるところである。」

又、地名上よりみると松岡の村名を初めとして松岡の 「菰田」 高田下徳の「菰原」 及び明治、 別保村にある 「浪(なみ)上り」 などの地名のごとき 「浪上りは葛木の台地の登り口一帯の地名に浪上り」 があり、 以前の字名(あざな)表には浪上りとありましたが、 現行の字名表では北原に含まれたので浪上りの名が消えています。」 は何れも入海時代におけるそれこそ文字通りの名残と見るべきで、 高田地方で井戸掘り中に時々蛸ツボ或いは網のエラらしき物が出土したりします。 鶴崎平野の成り立ちの地理、歴史的研究に太古この地方が浅海性の入海で上りの地点に海水の浪 (波)があがっていたことが立証されます。 時代は経て大野川がもたらす上流からの土、砂、石、流の堆積により陸地が自然と出現して来たと思われます。

「高田風土記」によりますと、「天正以前 (1588)の大野川は横尾村の北岩船の辺りより流れ下りて、 森村、 森町村を経て延岡領門田村と中島村の間を通り、公領、 乙津村の南側を通って延岡領千歳山の下を流れて公領 端高松(はなたかまつ)より海に入る。ここにては千歳川という。」 とあります。 これによりますと、 今の原川は天正時代の大野川の本流でありました。 その後は川は次第に東へと移り進み乙津川が出来、そして今の大野川へと移行してゆきました。

話は余談になりますが 「明治8年発刊の日本地誌要略巻五」 によると (原文のまま)

 稲葉川は九重山の淡水を集めて北より来たり、 岡の城市をめぐりて相合う、岡は竹とも云いて都会の地たり。 川の流れは東流して沈堕滝の下流を併せて其の勢(いきおい)頗(すこぶ)る大なり。 岩戸川は源を祖母山に発して傾山より来る。 犬飼川と呼べり。然れども此の川の名は「本、支流殆んど定称なし」 その流れは全長三十四里、 舟運は七里半下
り流れて両派に分かれども (現松岡毛井あたり、 大野川は東、 乙津川は北方に) 共に鶴崎村に注ぎ、 川口は小中島、 家島などと相並びたり」 と。
又この川の名を高田、川添、鶴崎地方の人々は通称して白嵩(しらたか)川、 本川と呼び、 乙津川をウラ川、 支流とも
呼びました。
白川の名称は川添地区のウラ山に白嵩神社があるのでその白嵩から川の呼び名としたのでしょう。 では大野川と云う川名はいつ、 どのようにして付いたのでしょうか。 ご存知の方は、お知らせ下さい。

(2) 森村、 森町村の条里制


「大分市史」 (上) に 「別保地区の条里制地割り」 大野川左岸、 森村、 森町村にそれぞれ東西に二町、南北に約六町の一町方格の地割りがみられます。 この一帯の沖積低地の広がりと比較して格地割りの占める範囲が狭く、 中世以降に地割りが実施された可能性がないわけではない。 ただこの地割の南西部に地名として「九ノ坪」 があるのが 「注目される」 とあり、 別保地区に条里制、 地割り分布図が記載されています。 一千三百数十年後の今日まで消えることなく使用されて来たことを思うと感慨無量なるものがあります。
※詳しくは会報で報告します。


(4) 專想寺 (龍華山專想寺)
天然浄祐の開創である。 天然は嘉吉2年(1442) に誕生した。 (1460年)
長門、 長府功山寺で出家し天然と号した。 (1474年) 高田庄、 森町村に一寺
を創建したのが当寺の起源である。 (1484年) 文明6年、 当寺を根本道場とし
て広く真宗の弘通に努め、 その教化は九州をはじめ周防、 長門、 石見など中国地方
3

(3) 若宮八幡宮

所在地、初めは大分市大字横尾字岩船2689番地にあって岩船八幡宮としていたが、 乙津川の改修工事に伴い昭和40年に大字森102番地の天神社境内に移転
し 森天神社の祭神を合祀した。

由緒、 縁起 :
以前は横尾の岩船に祭ってありましたが、当時は神殿、拝殿、 渡殿、 神楽殿、社務所などがあり立派なお宮でした。 祭神には 「仁徳天皇」 で 「岩船は史書には
若宮とあります。」 岩船とは石棺 (古墳時代の石墓) の発掘された所という意味があります。 明治6年に郷社になりました。
※ 詳しくは会報で報告します。

(4) 専想寺(龍華山專想寺)

天然浄祐(じょうゆう)の開創である。 天然は嘉吉2年(1442) に誕生した。 (1460年)長門、 長府功山寺で出家し天然と号した。 (1474年) 高田庄、 森町村に一寺
を創建したのが当寺の起源である。
(1484年) 文明6年、 当寺を根本道場として広く真宗の弘通に努め、 その教化は九州をはじめ周防、 長門、 石見など中国地方にまで及んだ。
※弘通(ぐつう/ぐずう)とは、仏教の教えをあまねく世間に広め、普及させることを意味する仏教用語です。

この後の記録では末寺その他約400ヶ寺といい伝えられて今日に至る。 天然は1506年 (永正2年) 65歳で没し、 猪野山中に葬られた。 以後、この地を天然嫁と称されている。
※詳しくは会報で報告します。

追録:

天正14年12月12日専想寺第五世唯明は、 戸次川合戦に薩軍と交戦したとある。 (戸次川合戦記によると) 唯明は我が国主 (豊後大友) の一大事と法衣の上
に戦具を身に付け一軍を率いて合戦に参加、 戦運つたなく戦場の露と消えた。 大分市中戸次門前、鶴口の神社の下に市道山側の竹ヤブの中に高さ170cmの立派
なお墓が建っている。正面に 「専想寺第五世唯明の墓」、 左側に 「唯明大僧都法印」 右側に「天正14年12月12日」 と刻まれている。

(5) 薩軍豊後へ侵攻 (社寺、 仏閣の焼失)

天正1415年 (1586~1587) にかけて島津勢が侵攻して、岩船八幡宮、 神宮寺、 森天神、 善福寺など次々に戦火にあい焼失し宝物も悉く焼失した。
八幡宮の由緒書によると、この時、 神社僧がご神体三尊を背負い千歳村に隠したとも伝えられています。

(6) 巡見使来る

池見家古文書 (丹生庄屋) によると延享3年 (1746) 第9代家重が将軍職となり地方巡見使が行われた。 その一行が別保を通り川添、 大在へと巡見したと書か
れていた。(日時不詳)
又、 「第11代徳川家斉が将軍職についた(1786) 後、 地方巡見使が豊後へ来る。 そのあら筋は寛政元年(1787) 豊後路の行程は (大要) 次の通り。
 「九州小倉から始まり、 中津に入り先ず宇佐神宮に詣でた後、国東を通り、杵築、別府を経て、府内に入り幕府代官のある高松代官所へ。次いで狭間から湯布院、玖珠、日田へ巡り竹田へ。直入、佐伯、広内、松岡、明治を経て森町村を通り、乙津、鶴﨑へ。大在に渡りて坂ノ市、佐賀関等を巡見した。」と臼杵古文書に書いてある。

(7) 江戸時代末期の別保の藩政

①森村、 森町村  ・・ ・臼杵藩 (稲葉氏五万石)
② 門田村、 中島村・ ・・ 延岡藩 (内藤氏七万石)

廃藩置県により (明治4年7月)
①森村、  森町村 ➔ 臼杵県 ➔ 明治4年11月大分県

② 門田村、中島村 ➔ 延岡県 ➔ 明治4年11月大分県

③ 明治8年・
門田村と中島村が合併して皆春村となる。

明治21年(1888)4月に市制町村制に関する法律が出され、 翌年明治22年(1889) 4月1日より町村制を実施することになりました。
これにより明治22年4月1日森村、 森町村、 皆春村が合併して別保村が成立しました。

新しく別保村の由来に関しては、次のようなことがありました。
村名に関する協議時、 適当な村名がみつからず困っていました。 その時、 専想寺の第17世大内祐象住職が同寺に秘蔵されている古文書の中に、 専想寺の所在地を「別保村」 とあることからこれを村名とするのは如何かとすすめたので、 その通りに決定したと言い伝えられています。
その別保村とある古文書というのは、 永正2年(1505) に大谷本願寺第9代門主実如上人より専想寺の開基天然上人に、 豊後国総道場 (寺) としてご本尊 (方便法身尊像) が下付されたものです。 その裏書には次のように記されています。

        大谷本願寺釈実如花押
        永正二年乙丑四月廿八日
        長正寺門徒豊後国


   方便法身像


        大分郡高田庄別保村
        惣道場物也

(8) 別保村名と別保村誕生

別保という名の元をただせば、 平安時代 (794~1192) から室町時代(1338~1573) にかけて貴族や社寺が多くの土地を私有していました。これを荘園 (庄園) といいます。
この時代には全国の各地で開墾して新しい土地を造成しました。 それらの土地や以前からの土地について、 規定通りの手続きを経て太政官符などの文書で、 貴族や社寺が私有地として認可された土地が荘園ですが、 その中心となる部分を本荘といいます。

本荘は公田、すなわち国の領地である時には荘といわずに郷、 または保といいました。 新郷、 別保、新保などは本郷、 本保に対する別保です。 以上のことから見ると、別保の土地は本荘が公田、すなわち国の領地であったため本保に対する別保でした。 別保という名の元をただせばここにあるわけです。 しかし、 その年月は未詳であるのが残念でなりません。

(9) 別保村教育の沿革

明治8年森町小学校、 皆春小学校創設、 明治20年森町尋常小学校、 皆春尋常小学校となる。
明治25年、 森町尋常小学校、 皆春尋常小学校が合併して別保尋常小学校となり現在地に新築して両校を統合する。
※詳しくは会報で報告します。

(10) 明治水路開通 (明治大分水路、 流水百年)による

明治29年10月施工の認可を得て、 明治30年1月着工、 明治32年4月竣工した。 簡単に説明すると、 総事業費金参拾壱萬余円也。 歳月を閲すること28ヶ月
間余。 本、支線、 総延長20里余の水路が完成した。

[功罪]
(功) 明治水路完成とともに美田化となる。

(罪) 水田化による負担金が過重となり、あわせて繰り返される大野川の洪水による農作物、人畜など膨大な被害で負担金はおろか、その日その日の生活すら重責となり、止むを得ず所有の田、畑すら手離す結果となり、転職をした人もある。

(11) 別保の商工業の盛衰

酒造業を筆頭に醤油、味噌、酢、 種油、 まゆ、 傘作りなど、 製造 製作業を始める。 これは、明治水路に少しばかり関連性があるのではと思われます。 幸いに水を必要とする醸造業には葛木原下にある良質の湧水 (多井) があり、 それが醸造業に役立ったのです。 そこへ通じる道を人呼んで 「酒の道」と云う。
※詳しくは会報で報告します。

(12) 別保地区は洪水との戦いへ

有史以前から別保は毎年の洪水に悩まされ続けて、 先人は洪水とその被害と戦い昭和4年より本格的な洪水対策として河川改修工事が建設省の手で行われ、 この完成により今日の繁栄の町となりました。