<2026-09-23 秋分の日>

亀甲の水神祭が亀甲公民館横の水神社前で7時30分から執り行われました。

亀甲の神社と言えば、高田若宮八幡社がかってここに鎮座していましたが、洪水で流され南にたどり着いたことから、後に現在の南の地に遷座(移転)したと言われています。
それについて「高田村志」神社の章に書かれています。ちょっと引用してみたいと思います。

「高田村志」神社 <若宮八幡社>

当社は相州(さがみのくに)鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を勧請(かんじょう)せしものにして、建久九年(1198年)国主・大友能直(よしなお)の創建にかかり、当初は大字九亀字亀甲に鎮座せり。建仁元年(1201年)能直始めて社領として八百九十七歩(ぶ)を寄進せしが、後、応永元年(1394年)大友第十一代親世(ちかよ)は広く高田荘全部を以て当社の神領に充てたりという。されば社地、社殿等も規模広大にして、現、同所にて「馬場」と呼ばれる字(あざ)の如きは、当年若宮社の馬場たりしに由来すと伝へらる。然るに大友氏の季世(きせい:末期)、薩軍(さつぐん)当国に乱入するに及び、当社も天正十四年(1586年)其の兵燹(へいせん:戦争の火災)に罹(かか)りて烏有(うゆう:焼滅して無くなること)に帰せしが、幸いに神体及び縁起書並びに宝物の一部は焼失を免(まぬか)れるを得たり。

翌十五年小祠を営みしが固より昔日の観を見るべくもあらず。しかも此の社殿は寛永二年(1625年)九月に至りて大洪水のため流失し、神体亦(また)漂流して大字南字榎ヶ瀬の古木に懸かる。依りて同所に仮社殿を営みて暫(しばら)く奉祀することとなりしが、是れ実に亀甲より南に遷座(せんざ)するに至りし始めなり。

《概略》 
若宮八幡社は1198年、大字九亀字亀甲に大友能直(大友氏の初代当主)により創建されます。
1394年大友第十一代親世(ちかよ)は広く高田荘全部を以て当社の神領に充てます。
(高田の荘とは今の高田地区ではなく、中世から近世にかけて旧鶴崎市に近い広大な地域の荘園です。)
しかし、薩長戦争<戦国時代末期の薩摩と大友の戦いです。この戦いで鶴崎地区の神社仏閣の大半が焼失してしまいました>
そして翌年の1395年の大洪水で神体が流され大字南字榎ヶ瀬の古木に懸かります。そのため、そこに仮社殿を設けましたが、それが南に遷座する元となりました。   


水神社と神楽殿の歴史
今日の水神祭に戻りますが、現在の公民館東側に水神社が鎮座しています。
亀甲地区の長老の話では、かっては現在の公民館の二つ前の公民館までは旧公民館の西側に神楽殿があり、その後ろに水神社があったそうです。しかし、公民館の建て替えによって今の位置に移動したといいます。
また、太平洋戦争ごろは神楽殿で小学校から先生が来てくれ、授業をしたそうです。

令和8年亀甲地区水神祭

7時30分の開始予定ですが、7時には開催準備もほぼ完了しました。
7時過ぎに高田若宮八幡社の神主さんが来られ始まりました。
修祓(お祓い)・祝詞奏上(のりとそうじょう)・玉串奉奠では今日の参加者12名の玉ぐし奉奠がおこなわれ30分ほどで終了しました。

昔から水害に悩まされてきた丸亀地区、水神様に祈る気持ちはまた格別なものがあるのでははないでしょうか。

水神社と準備

水神様は公民の東側に鎮座しています。

公民館と道路の間に鎮座しています
水神社

修祓(お祓い)・祝詞奏上(のりとそうじょう)

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玉串奉奠(たまぐしほうてん)

<写真クリックで拡大>

徳丸自治会長の玉串奉奠に続き、今日の参加者12名が次々に玉串の奉奠を行いました。

<参考>閼伽池・川祭りのカッパ

丸亀地区のカッパ

丸亀の閼伽池の角に[カッパ]という藁でつくったものが飾られています。
これは6月の川祭りのときに立てられたものです。

この川祭りの行事は鶴瀬、堂園自治会でも伝統行事として引き継がれていますが、丸亀地区のカッパは亀甲自治会の一本ではなく、丸亀地区の中村、馬場、高畠、そして上徳丸の4つがここに立てています。
これまで何度も水難にあってきたことが川祭りという行事につながってきたのでしょう。

令和8年のカッパ