👉鶴崎地区通信 (旧鶴崎市・鶴崎地域)

<2026-01-11>

寒気の影響で11日には平地でも3㎝の積雪が予想される中、新春恒例の法心寺 水行会が1月11日(日)、小雪の舞う中で法心寺境内で行われました。
 法心寺檀家総代の植木氏によれば1961年(昭和36年)に交通遺児の供養と交通安全を祈願して始まり、今年で第65回目に当たるそうです。

なお、この法心寺の行事は、もともと交通事故の犠牲者を供養するために始まったそうですが、現在では世界平和・家内安全・交通安全・無病息災の願いを込めて行われているそうです。

法心寺水行会

法心寺山門から

加藤清正公と鶴崎の由来


加藤清正公は慶長6年(1601年) に徳川家康公により、 関が原合戦の手柄による褒美として、 天草の領地を加増してもらったが、鶴崎が瀬戸内海に面した海上交通の要所になるであろうと考え、天草を辞退し、その代替地として鶴崎高田地区他、豊後国内の領地を領有するようになりました。
清正公は大野川や乙津川の治水工事を行い、 堀川 (港)を造って船場としました。そのおかげで瀬戸内海を往来する船の発着でにぎわい、鶴崎の町は海陸交通の重要な所となり、 軍事上からも大事な拠点となりました。
又、政治の中心として熊本藩鶴崎御茶屋 (鶴崎小鶴崎高校一帯)を建て、町割りを行い、法心寺を建立するなど鶴崎発展の為に大きな業績をあげました。

法心寺山門

法心寺の門をくぐると、正面奥で檀家の奥さんたちがぜんざいを参拝者に振舞っていました。もちろん私もいただきましたが、雪の降る寒い中での温かいぜんざいは特に美味しく感じました。

檀家女性陣によるぜんざい

開始前の様子

10時30分ごろになると、檀家(だんか)の女性20人ほどがうちわ太鼓を鳴らして僧侶を待ち受けます。

水行会

お寺の中から白衣を着た県内から参加した7人の僧侶が経を唱えながら出てきます。
そして事前に用意された水を張った樽の前に立ちます。すると僧の後ろにいた女性が僧から白衣を預かり、七人の僧は締め込み姿で樽の前に座り経を唱え続けます。
やがて樽から手おけで水をすくい、勢いよく何度も体に浴びせます。見ている私たちも寒さを忘れ、いつの間にか力が入り今年もいい年でありますようにと自然に祈願しています。
水行がおわると、また白衣を着て寺に戻っていきます。ここで水行会は終了ですが、檀家さんは寺に入り「祈祷会(きとうえ)」<僧侶が、檀家さんのために厄除けや家内安全を祈る式>が一時間ほど行われました。
私のミスで境内の奥に車を停めていたため、車を出せずこの祈祷会が終わるまで待ち続けることになってしまいました。しかし、祈祷会が終了後、駐車をしていた車一台一台に僧侶が安全祈願をしてくれました。災い転じて福となす

水行会は動画でも編集しています。

水行会の動画

水行会の流れ

登場です

終了です。

白衣を着こみ、退場です。

法心寺の歴史

  四十三世住職 佐々木浩文氏の法心寺について

 法心寺は、慶長6年(1601)肥後藩主(熊本県)加藤清正によって建立されました。
 当時、鶴崎は肥後の飛び地になっており、交通の重要なところでした。参勤交代の時など熊本城を出て、阿蘇を越え、鶴崎の港から出港し、瀬戸内海を経て海路、大阪・江戸へ向かったのです。

 清正公は、法華経の熱心な信者でした。自分の寝泊まりする、鶴崎の地に「南無妙法蓮華経」のお題目を唱える道場がなくてはということで京都本圀寺常林院日榮上人を招き、法心寺を建立されたのです。

 法心寺には清正着用のヨロイや遺品の数々が今でも残っています。また、本堂の前には大分市指定の「いちょう」があり、本堂建立の際清正公が持っていた杖を地面に突き差したものが、今の大木となったといわれています。
 清正が慶長16年に病死して以来、追善供養の法要が行われるようになり、今では二十三夜祭(7月23日)といい宗派を超えた鶴崎の夏の風物詩として親しまれています。
 

二十三夜

👉加藤清正と法心寺

加藤清正公が慶長16年(1611)7月23日に病死して以来、命日にちなんだ法要行事「二十三夜祭」が行われ、豆茶供養や千の灯明など、鶴崎地区の夏の風物詩として多くの人でにぎわっています。

令和5年7月23日 二十三夜
豆茶を参拝者に飲ませていただけます

逆さイチョウ

本堂前にある大分市指定名木「逆さイチョウ」は、清正が本堂建立の際に持っていた杖を地面に挿したところ芽吹いたという伝説が残る木です。樹齢は2025年時点で約415年、高さ18m、幹周5.5mです。

春の法心寺(サクラ)
秋の法心寺(イチョウ)
冬の法心寺

法心寺の山門 (金剛大力神)

法心寺の山門には 金剛大力神がありますが、これは南都から佐賀関の早吸日姫神社から法心寺にわたってきました。この仁王像はかの有名な運慶、堪慶といわれ国宝級の作品ですが、数度の修復のため、残念ながら芸術価値はあるのですが、国宝にはなっていません。