宮河内城跡からの現代の展望。今でも鶴﨑地区が一望できる。

河添の郷土史家の村上浩明氏((ふるさとの歴史教室(鶴崎地区文化財研究会)(川添 宮河内))から「宮河内に山城の遺跡跡が発見できたので一緒に見に行きませんか」と誘いの電話が春にあり、行く約束をしたのですがこの時期はヘビが出ると聞き、急きょ延期をしていました。そして、冬になりヘビが出なくなったということで再度誘いの連絡がありました。
12月24日クリスマスの日、宮河内の歴史教室のもう一人と合流し三人で曇り空の中を宮河内城のあった山に登りました。
この宮河内城について大分市歴史資料館の職員と一緒に調査したりと長い間研究していた村上さんに、このHPに宮河内城について何か寄稿できないかと依頼すると快く引き受けていただきました。
宮河内城跡の位置や状況の写真を見ていただいた後に、村上氏の寄稿を味わってください。
では、宮河内城はどこにあったのでしょうか。
宮河内城の位置は?
宮河内ハイランドの西側にあり、別府湾から戸次までが一望できる位置にあります。戦国時代には守りや、見張りにはうってつけの位置だといえます。



大野川より宮河内城跡を望む
左が鶴崎方面、右が戸次方面。後ろには宮河内ハイランドひかえています。後ろ側は九六位山など山がありますが、前面は大分市内が一望できそうな位置です。城をたてる絶好な位置だといえます。


宮河内城跡へ向かう。
県道38号線横の旧道から民家の横を通り登っていきます。


静岡県の高根城(砦)によく似た景観
村上氏によると、宮河内城への登り口と高根城への登り口の景観がよく似ていると指摘しています。

宮河内城跡山頂へ



石垣の跡らしきものが見えます。


向かった山頂には祠(阿蘇入神社:金毘羅社)がありました。



祈念して山頂から降りることにします。この尾根は宮河内ハイランド方面につながっています。


宮河内の城(砦)跡について 村上 浩明
宮河内の城(砦)跡について
村上 浩明
宮河内の阿蘇入集落に、現在でも”ジョウ”と呼ばれている山があり、太閤検地帳にも”城の下”の地名が書かれています。
山の所有者の家系図には”宮川内城”の記載もあります。
この山が果たして城であったか、いつ造られたかは明確にはわかりませんが、人工的に加工されていることは間違いありません。
加工の跡としては、人が登れないように山の斜面を切削して断崖を造っていたり、建物を建てられるように削平して平坦にしていたり、あたかも城の切岸や曲輪を造ったように見受けられます。
この山が本当に城(砦)であったか、考察していきます。

大野川は1370年頃まで丹生台地の裾野に沿って流れ、その川岸に
道があったと推定され、本曲輪の場所に砦を築けば川や道の通行
を監視することができます。

ある方の家系図には、図-1にある阿蘇社(元宮)をこの地に建てた時、この地は”見附”と呼ばれていたことが書かれています。
東京にある”赤坂見附”が有名ですが、見附とは、見張りの番兵がいる軍事施設のことです。
何もなければ”見附”とは書かれていないはずなので、私は、ここに砦があったと考えています。
その理由の一つとして、隣の”浄土寺”集落にあった寺院が挙げられます。

浄土寺集落に最初に寺院(臨済宗浄土寺)が建立されたのは1300年代中頃であることは判っていますが、私は1352年に8代当主大友氏時の経済的支援によって建立されたと考えています。
現在の浄土寺の地は、氏時の直轄地の一つである丹生荘の玄関口に位置し、もう一つの直轄地の臼杵荘に行くときは、九六位連山を越得なければなりませんので、織田信長にとっての本能寺のように、氏時はこの寺院を休息場や宿泊場とした可能性が考えられます。
そして警備として、特に南から大野川を船で下ってくる怪しい者がいないかを見張るために、寺院建立と同時期に阿蘇入に砦を築いたと考えます。
その後、天正十四年(1586)12月、薩摩軍が戸次川の合戦で大友に勝利し鶴崎に攻め上った時にこの砦で戦いがあったと考えられる形跡があります。戸次川の合戦で薩摩軍が勝利したのが12月12日で、その後薩摩軍は松岡から高田を通り、鶴崎で吉岡妙林尼と戦ったのは翌日の13日と言われています。
しかしながら、この間九六位山円通寺を含めた大野川流域の寺社を悉く焼き払って行ったことが伝わっています。当時九六位山に行くには、杵河内から九六位山に直接行く道が主要道だったようですので、薩摩軍は幾つかの部隊に分かれて進軍したと考えられ、宮河内を通った部隊もあったと考えます。
13日に妙林尼と戦ったのは、最初に着いた部隊だったのでしょう。
前述した、砦がある山の持ち主の過去帳には、天正十四年(1586)12月15日に亡くなっている方がいます。私は、これは偶然ではなく、この砦で戦って戦死されたと考えます。
鶴崎でも薩摩軍に備えたように各地域でも薩摩軍に備えたことでしょう。
宮河内の砦でも防御性の向上をはかり、加工したことが考えられます。
最初に砦が築かれた時はどの程度の規模だったかはわかりませんが、現在の砦跡は、薩摩軍との戦いに備えた加工も含んでいると考えます。 大友氏時以降の阿蘇入集落と浄土寺集落についても記述します。
阿蘇社(元宮)は10代大友親世の時代、現在でも犬飼町の黒松にある阿蘇社から分祀されたようです。
犬飼のある井田郷は延文六年(1361)から当時南朝側であった阿蘇氏の知行地となっていましたが、永和四年(1378)北朝側の今川了俊によって島津伊久に与えられました。
島津氏にとっては阿蘇氏の象徴である阿蘇社が領内にあることが不都合と考えて、親世に他の地に移して欲しいと頼んだのか、親世が永和四年(1378)自領である丹生荘のこの地に分祀したのでしょう。
その後、応永七年(1400)には11代大友親著によって火振阿蘇神社が丹生荘一之宮として建立されます。
火振阿蘇神社の元宮と伝えられている阿蘇入の阿蘇社は、階段を上った少し高いところにあるのはなぜでしょうか。
私は、阿蘇入の阿蘇社が建立される直前に大野川の流路が変わる程の氾濫があったと推測しており、それは永和元年(1375)だったと考えています。
理由を書くと長くなるので省略しますが、氾濫の影響を受けないように、山の中腹にあった古墳を壊して阿蘇社を建立したのだと考えています。 現在阿蘇社にある石棺の石は、壊したときに出てきたものでしょう。
また、火振阿蘇神社の地は、それまで大野川の中だったのが、流路が変わったことによって地表に出てきた場所です。
親著は、水害除けの祈りも込めて火振に建立したと考えます。 そして浄土寺の寺院ですが、私はこの時の氾濫で流失したと推測します。
1352年に建立、1375年に流失とすれば23年間だけの存在となります。 その後浄土寺にあった寺院は、15世紀になって久所に建立される大恵寺に引き継がれます。
また、浄土寺にも明応九年(1500)再び浄土宗浄土寺が建立されますが、1年後には18代大友親治が、現在もある生石の浄土寺に移しました。
移した理由を推察するに、臨済宗浄土寺の寺院は主な建物は流失していましたが、幾つかの建物が残っていたため、満誉上人がこの残った建物を補修しながら堂として使っていたのではないかと思います。
それを見かねた親治は、川の氾濫の影響の少ない、府内に近い生石に建立したのでしょう。
南北朝時代の大友氏は、交通の要衝である宮河内の発展に力を注ごうとしたのですが、大野川の氾濫のため思った程発展しなかったのでしょう。
PDF (村上氏の原稿)
ホームページで作成上、村上氏の原稿と齟齬がでるためPDFで保存しておきます。

