<2025-10-18>

大分県立歴史博物館内

10月18日(日) 大分県立歴史博物館で開催されている令和7年特別展「豊後国 紀行平」に高田の住民としては見に行かねばとドジャーズの試合中継を断念し70kmの道のりを出かけました。
なお、この試合では大谷は3ホームラン、10Kと大活躍で4勝をしました。私が見ない方が勝てるのかもしれません。

豊後国行平」展で考えたこと 大分県立歴史博物館 平川学芸調査課長

今回の特別展では上記のプログラムのように、3の講演がありましたが、高田の住民としては大分県立歴史博物館学芸調査課長 平川 毅氏の「豊後国行平」展で考えたこと に非常に興味をひかれました。
どうしても高田の地では高田の「紀行平」ですが、それについて高田の人たちが思っている考え方とはちょっと違う話をされていました。ただ、この話をきいて何か紀行平の真実を聞かされているような気もしました。(その場で聞いたことをうすら覚えで書いているので内容が間違っているかもしれません。)
これまでに刷り込まれてきた思い込み、固まった考え方をここで一考する必要があるのかもしれません。

講演内容とは関係はないのですが、「歴史女子」というのか「刀女子」というのか、展示場では7割近くが女性、講演会場でも4割ぐらいが女性でした。


紀行平と言えば優秀な作品を残しながらも他の刀工に比べ謎が多く、その生涯に関する確かな文献等史料も少なく、個人の詳細な情報が後世にのこっておらず、民話、伝承で伝わったものが多いといえます。本当にわからないことの多い刀工といえます。

紀行平の豊後での活動の場はどこであったか。

・国東市国見町
・県豊後高田(たかだ)市
・鶴崎 高田(たかた)
・大分市内(数か所)

国東市国見町 説
これに関して平川氏は国東市国見ではないか、と言う。
その理由として、国見には今でも、「行平」を姓とする子孫の系列の家が現在でも存在している。
そして、国見町野田地区の行平家では行平が使っていたというフイゴを今も守り続けているという。
 また、野田地区には行平の住居や鍛冶場跡ともいわれる場所もある。
それ以外にも、国見町内に鬼籠(きこ)地区がある。この地にある神社の奥には行平の鍛冶場跡があり、その横に行平の妻と娘の墓である五重塔が2基あるという。
この鬼籠地区と野田地区には 紀 の姓が多い。それ以外にも多くの伝説が残っている。

県豊後高田(たかだ)市 説
ここにも紀行平ゆかりの地名や、鍛冶場跡といわれる場所が残っている。

鶴崎 高田 説
大分市鶴崎地区には高田鍛冶として活躍した「平高田」や「藤原高田」の跡が残っている。
高田関門には紀行平の弟子たちが建てたという供養塔があり、紀行平が使ったという鬼の井戸の伝説もある。また下徳丸には「鍛冶屋小路」がある。
高田地区では紀行平が高田鍛冶の祖としているが、これは高名であった紀行平の伝承と高田鍛冶の拠点だったことが重なってつくられたものではないか。

大分市内 説
大分市内の大手町には住居跡や鍛冶場跡といわれる場所もあるが荒れはてている。また市内横尾の二目川に紀行平の供養塔がある。


(平川氏は)この4か所が考えられるが、この4つの中で国見町が最も有力だと考えている。
しかし、行平は各地を転々としていたともいい、どこで何をしていたかはいまだ謎の多い刀工であり、これが正しいということはできない。


高田における紀行平

高田では高田の三哲(紀行平・毛利空桑・岡松甕谷)として毎年11月に三哲祭が行われています。
しかし、紀行平は高田で生まれたわけでもなく、また亡くなったわけでもありません。それでも高田の三哲として崇拝されているのはどういう理由からなのでしょうか。
 紀行平と高田の関係を見てみたいと思います。これはあくまで高田で信じている伝承です。〈紀行平の伝承はいろいろあります。〉
紀行平は1196年(建久7年)豊前・豊後の守護となった大友能直(大友家初代当主)に従って豊後に移住してきており、生まれは1144年であるため、52歳、53歳ごろだとおもわれます。
豊後に来てからは国東の千燈(現国見町)や古国府(大分市内)で刀つくりをしたと言われていますが、最後に高田に大友家より土地をもらい、(それまでも高田では鍛治屋がいた)優秀な弟子を育ててくれた。そしてその技が伝わり、後の「平高田」と「藤原高田」を生む。そしてその弟子たちが江戸時代に関門の地に紀行平の供養塔を建てている。

これらのことが紀行平が後の高田刀工群に大きな影響を与えた ということだと思います。またその技術を伝え、流派の源流となった場所としての高田といえると思います。
なお、建武 (1334年~1337年)の頃藤原友行という名工がでていわゆる 「高田物」 といわれる刀の基を築き中興の祖、 高田物の祖といわれました。
なお藤原友行の系統としては家系図を見ると(藤原高田の藤原家系は8家系ある。平高田の家系は1家系であとは見当たらず)紀行平直系の藤原高田系高田忠行家系に名を連ねている。また、その中に藤原行長がいるが、彼は常行の常仙寺を寄進している。



ただ、高田に住みながら疑問点が生じる。
・豊後に着いた時には50代、その後国東、古国府と転々として、高田に着いた頃には当時では高齢だったのではないか。歴史に残るような名刀を作れる歳ではなかったのではないか。そのため弟子の養成に力を入れていたのではないか。
後鳥羽院御番鍛冶を任されるような者がいつまでも豊後にいたのだろうか。少しでも京に近いところで仕事をしたかったのではないか。謎である。ただ、最後まで高田にいたわけではない。

ただ、高田地区は県内では有名な水害被災地で江戸時代以降だけでも、60回ほどの大水害に遭っている。文献や紀行平の歴史資料になりそうなものがあったとしても全て流出してしまっているだろう。

紀行平の墓(供養塔)
1790年(寛政2年)のちの門弟たちによって建てられた紀行平の供養塔〈高田 関門〉
ここから50mほど離れた場所には紀行平伝説の「鬼の井戸」があった。しかし、造成工事のため埋められてしまった。


 

        紀行平の供養塔〈寛政2年建立〉


高田の刀鍛冶の実生活、歴史を知りたい方は下記をごらんください。

👉高田の刀鍛冶