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<2025-10-19>
[回天]
「天を回(めぐ)らし戦局を逆転させる」という意味で回天と名づけられた。



10月19日、大分県ウォーキング協会の泉都ウォークに参加しました。この泉都ウォークは別府湾ウォーキング協会が主催し別府、日出、杵築方面を主にウォーキングをしています。今回は第223回「糸が浜海岸・回天コース」に参加しました。
泉都ウォークの案内に<回天(かいてん)は、太平洋戦争で大日本帝国海軍が開発した人間魚雷であり、日本軍初の特攻兵器である。
大分県日出町(ひじまち)にある人間魚雷「回天」大神訓練基地近くに建つのが回天神社(住吉神社)。公園内には実物大模型が展示されています。>このキャッチフレーズにひかれてしまいました。県内にいろいろな戦争遺跡がありますが、人間魚雷という言葉に興味がわきました。
雨模様の天気だったためか、40名ほどの参加者でした。主催者もいつもは150名前後の参加者で今日はこれまでにない少ない参加者だったと言われましたが、私としては写真を撮りながら気楽に歩け助かりました。
大神訓練基地・回天については何も知らないため日出町が出しているパンフレットとHPから抜粋していきたいと思います。
[日出町観光情報サイト 👉日出ナビ]
人間魚雷「回天」大神訓練基地跡 <日出ナビから>
人間魚雷「回天」は大東亜戦争(太平洋戦争)末期、日本の敗戦が濃くなる中、海軍によって考案され、昭和19年(1944)に山口県の大津島に最初に回天基地が設けられました。戦局の悪化とともに回天は決戦兵器としての役割が期待され、乗員の確保が急務となります。そのような状況下で、昭和20年(1945)に大神訓練基地が造られ、4月25日に「大神突撃隊」が開隊しました。
大神基地で訓練された搭乗員や整備員は、8月3日に愛媛県西海町に第21突撃隊第11回天隊として配備されますが、出撃することなく8月15日に終戦を迎え解隊しました。
【回天神社と基地遺構群回天慰霊祭】
水雷壕、回天格納庫、実用頭部格納庫の横穴が残る小山には、回天神社があります。この神社は、当初大神突撃隊庁舎内に祀られていましたが、終戦後の昭和21年 (1946)に元隊員の懇願により住吉神社の境内に遷座されました。現在の神殿は平成13年(2001)に新築され、その横に回天の3分の1模型と海中より引き上げられた九三式魚雷後部が展示されています。
回天神社には、全国の「回天」搭乗員や整備員など1073名もの戦没者が祀られており、開隊日の4月25日には毎年慰霊祭が行われています。
平成26年(2014年)には「回天実物大模型」が魚雷調整プール跡のそばに設置されました。
翌年の平成27年(2015)4月には、実物大模型周辺が公園として整備され、「回天大神訓練基地記念公園」が竣工しました。記念公園は、駐車場・公衆トイレ・四阿(あずまや)などを備え、基地跡を見学される方の利便性に寄与しています。
平成28年5月、平和への祈りを込めて「青年像及び母妹像」(町内在住の彫刻家・辻畑隆子氏の作)が記念公園内に建立されました
1・回天大神訓練基地(記念公園)
人間魚雷回天の実物大模型が展示されている記念公園から見てみましょう。
この記念公園は2015年(平成27)整備され、そこには人間魚雷の実物大の模型とともに回天や基地の資料が展示されています。
この展示されている回天には上のハッチから中にも入れたと言っていましたが、現在は入れないようです。
大神回天基地跡記念碑


大神回天基地跡記念公園






回天[回天一型改一]の豆知識
公園にあった日出町発行の「人間魚雷回天大神訓練基地」の配布用パンフレットからポイントを取り出してみました。
ただ、図面は小さくてわかりにくいかもしれません。現地で見てください。実物模型を見るとなお一層感慨深いものがあると思います。


- 全長 14.75m
- 直径 1.0m
- 全重量 8.300㎏
- 速力 30ノット(航続距離23㎞)
時速約56㎞ - 10ノット(航続距離78㎞)
- 頭部炸薬 1.550㎏
- 燃料 純酸素 白灯油
- 搭乗員 1名
〇船体構造
・船体は93式魚雷三型の改良型を特殊艇に改良
・鉄板の薄い回転の安全潜水震度は80m
〇頭部
東部には1550㎏の炸薬が詰められいかなる艦船も撃沈できるといわれていた。
突入の際に搭乗員がスイッチを握り、命中時に自然に前方に体が傾くとスィッチが入るようになっていた。
〇操縦
回天の操縦は基本的には自動操舵であった。ジャイロコンパスを内蔵した電動縦舵機により制御され、搭乗 員が設定すれば電動でにより所定針路に航行できた。
〇機関
推進機関は九三式魚雷三型を使用していた。この魚雷は純酸素と白灯油を燃料とし、燃焼室に噴射、点火し海水を霧状に噴射することにより高圧高温蒸気を発生した。この蒸気により二気筒のピストンを作動させ、550 馬力の出力が得られた。推進力となった蒸気は海中に排出され気泡が発生しない。二重反転プロペラのため、
回天の航路が出ず、敵に発見されなかった。
〇訓練
大神訓練基地では別府湾で訓練が行われ、1回の訓練では1時間前後を要したといわれる。 訓練には通常もう1人同乗させ、 2人1組で猛訓練に励んだ。 基地では2日に1回使用できるよう、 夜を徹して30時間もの整備が行われた。 訓練用の回天は16基程度あった。 1日の訓練では5~6基程度が使用された。 上部は白ペンキ塗り。 特攻の「震「洋」 10隻を追従艇にし、 震洋隊員が運転した。
回天の搭乗員(の選定方法)
訓練基地は、山口県中部瀬戸内海の大津島、光、 平生、本土決戦の大神基地が配置され、搭乗員が募集されました。ある航空隊での募集方法は紙片が渡され、希望する者は、どちらでも良い者は○、その他については無印で、5分以内に提出せよ、というものでした。他人と相談することは禁じられ、大半の者が◎を書き、「これに乗って祖国を救うしかない」と固く信していたのです。
回天関係の戦死者
戦果は省略
この回天作戦で、回天搭乗員106名・回天整備員35名・潜水艦8隻の乗組員812名・白龍隊120名、合計1073
名が没しました。戦死した回天搭乗員の平均年齢は、28歳で、多くの若い命を失いました。
(これは大神基地ではなくすべての回天関係者です)
大神基地の構築
昭和16年から計画が上がったり中止になったりしていました。(そのあたりは省略します)
昭和20年(1945)4月25日に突撃隊司令、山田盛重大佐以下兵員2,000名の構成による大神回天基地隊が開設され、基地内施設として、舎屋51棟、魚雷調整場プール、すべり、変電所、各種地下壕、浄水場、練兵場、桟橋等が整備されました。
大神突撃隊とは
昭和20年(1945) 3月1日、「第二特攻戦隊」が発足し、大津島分遣隊・光突撃隊・平生突撃隊・大神突撃隊が出来ました。 大神突撃隊は4月25日に開隊しました。5月23日より回天搭乗員285名が別府湾内で、空襲をぬって、訓練を始めました。
同年8月3日、大神訓練基地から唯一の出撃があり、8名の隊員及び整備員が、回天8基とともに、第8攻戦隊第21突撃隊として、愛媛県宿毛湾「麦ヶ浦」へ進出しました。
8月12日、出撃待機命令を受けましたが、8月15日、出撃しないまま終戦を迎えました。
8月25日、大神突撃隊が解隊され、8月31日付けをもつて基地は、米軍に引き渡され、その後、残された回天2基は海洋投棄されました。
大神訓練基地での犠牲者は、終戦後基地内で自決した松尾秀輔少尉と機銃で数名の方が亡くなりました。
2・回天神社
記念公園から100mほど離れた丘の上に回天神社があります。もとは住吉神社だったようですが、大神基地内にあった回天神社を戦後に住吉神社の横に遷座されました。
神社では全国の「回天」の搭乗員や整備員などの戦没者が祀られ隊日である4月25日を例祭の日として、毎年慰霊祭が行われています。
<前に書いた人間魚雷「回天」大神訓練基地跡 <日出ナビから>の回天神社の分を抜粋>
水雷壕、回天格納庫、実用頭部格納庫の横穴が残る小山には、回天神社があります。この神社は、当初大神突撃隊庁舎内に祀られていましたが、終戦後の昭和21年 (1946)に元隊員の懇願により住吉神社の境内に遷座されました。現在の神殿は平成13年(2001)に新築され、その横に回天の3分の1模型と海中より引き上げられた九三式魚雷後部が展示されています。
回天神社には、全国の「回天」搭乗員や整備員など1073名もの戦没者が祀られており、開隊日の4月25日には毎年慰霊祭が行われています。
回天神社


終戦に伴い神体を奉納していた回天神社は山田司令の依頼により住吉神社境内に遷座し、 地区民がお祭りするようになった。
慰霊祭は3年に一度、関係者が全国より集まって行われ、 その他の2年間は地区氏子の手で慰霊されている。


酸素圧縮ポンプ室
回天神社への登り口に横穴が掘られています。


この境内から20歳前後の若者たちは何を考えていたのだろう。
深江 大神漁港・別府湾を望む<回天神社境内より>

その他資料
大神訓練基地

大神訓練基地記念公園の位置図

第223回泉都ウォーク<糸が浜海岸・回天コース>案内



