👉<高田の歴史を語る>鶴瀬の川崎庸夫さん(93歳)、昭和18年大水害を語る。
先にアップした児玉泰三さんの家から帰る途中、畑仕事をされていた川崎庸夫さんに会いました。1年半ほど前にいろいろと昭和18年の水害の話をお聞きした人ですが、当時93歳だったので今では94、95歳になられたのではないでしょうか。
ちょっと訪ねたいところもあり、ためらいながらも仕事中なのを無理をいってお聞きすることにしました。しかし、話し出すと90代とは思えない話方で、知らなければ80代前半の人と変わらず、遠慮することもなく普段通りに話をしてしまいました。
話の中で新たに知ったこと、私の勘違いだったことも判明しました。順不同で対話を書いてみたいと思います。
1・昭和18年の水害
鶴瀬地区の堤防は今より2m前後低く、大分県浄水場あたりも堤防があり、大野川の方の堤防とつながっていました。大津留側は堤防はなかったと思います。洪水の時は現在と同じように大津留の越流提がある場所から大野川の増水分が乙津川の方に流れ込んでいました。昭和30年ごろからの越流提と乙津川の工事で堤防も高くなり、乙津川も広くなりました。
👉大津留分流提(溢流堤)
普段は水はほとんど流れておらず草木で覆われていました。
水がないということで環境問題が発生し、船本から大野川の水を乙津川の方に引くために、大野川乙津川分派を作成しました。その結果、乙津川も現在のように常時水が流れるようになりました。
👉船本の渡し・大野川乙津川分派
昭和18年の水害では数人の死亡者が出ましたが、鶴瀬の大鶴地区にあった堤防が松岡の堤防決壊の洪水が一気にきたことで崩壊し、流されたり、崩土に埋まったりしたことが原因だと思います。
水位は以前話したように、我が家の石垣の上ぐらいまで上がりましたが、昔は台風の度にそれに近い水位は上がっていたような気がします。
[私の感想: 高田の家は高い石垣の上に建てられていましたが、長い経験でその石垣の高さがあれば大丈夫という計算があったのではないでしょうか。私の体験でも台風や大雨で石垣以上に上がったことはなかったと思います。 また、かっては乙津川は高田橋から鶴崎までの下流、大野川は関門と堂園の境ぐらいから鶴崎までの下流には堤防はなかったと言います。そして洪水時は堂園、常行あたりからの逆流が鶴瀬地区方面を襲ったと言います。川の増水のたびに逆流水が地域に入ってくることを〈尻込み〉といっていたそうです。 このことで納得したのは水害が起きそうな丸亀、鶴瀬地区よりも常行、堂園地区の方が私の感想として石垣は立派で高いような気がします。]
2・高田と川添をつなぐ渡し
川崎さんとの対話の中で渡しの話もしてみました。
《岩舟の渡し》
私<川崎さん>の記憶では別保と高田を結んだ岩舟の渡しの記憶はありません。
[感想:江戸時代まであった渡しも、水位が少なくなっていた乙津川は早いうちから簡易な木橋がかかっており、渡しが廃止になったのは早いのかもしれない。 推測ですが。]
《金谷の渡し・新旧百堂の渡し》
以前にも渡しについて書いたのですが、川添橋を挟んで近くに三本の渡しが運営されていました。
渡しの印象としては川添橋ができるまで残っていたのは金谷の渡しで、それ以外は旧百堂の渡し、新百堂の渡しの順番で廃止されていったものと思っていました。
しかし、川崎さんの話では川添橋ができる少し前まで、それぞれの渡しがあったと言い、利用もしたことがあると言っています。金谷の渡しと旧百堂の渡しが近くに並行してあったことは納得できないのですが。そして少し下流にも新百堂の渡しがあったともいいます。
この件については川添地区の詳しい方にも聞いたのですが、なかなか渡しを覚えている方は見当たらずまだ不明のままです。



