
今年の高田校区水難者慰霊祭が9月1日に一乗寺で執り行われましたが、その時に鶴瀬犠牲者代表の一人として出席されていた児玉泰三さんを訪問し水害に関するお話をお聴きしました。
水難者慰霊碑
児玉さんは昭和18年の水害では身内に犠牲者はいませんでしたが、明治26年の水害で親族を無くしたそうです。聞くところによると、水難者慰霊碑の後ろに何基かの墓が建てられていましたが、そのうちの一つが児玉さんの親族の墓だそうです。
児玉さんは、水害のあった昭和18年生まれで水害のことは覚えていないのは当然ですが、その後に家族や地区の人たちに水害当時の話を聞いていたそうです。


越流提・乙津川
水害時は、水位は下記の写真の位置まで上がったそうです。児玉さんの子供の頃は鶴瀬の乙津川側には堤防があり、よく乙津川に遊びに行ったそうです。ただ、乙津川は今のようには広くはなく竹や茅で覆われており、川に並べられていた数個の石の上を歩いて渡り、明治の横尾の方へ行き来していたそうです。以前60代ぐらい(昭和30年ごろの生まれと考えられる)の大津留の人に聞いた時には大津留には今のような乙津川はなかったとも言っていましたが、児玉さんの話では大津留の方から乙津川は間違いなく流れていたと言っています(但し、今のようには広くなかったそうです)。大津留溢流堤、乙津川の整備工事が始まったのは昭和30年前後でその後、乙津川は広くなり、河川敷・堤防も整備されていきます。
ただ、私の前からの疑問として、岡藩(竹田)が参勤交代時に犬飼から三佐間を舟を利用したとなっているのですが、あの頃、乙津川を利用できる広さと深さがあったかが疑問として残ります。
👉大津留分流提
一乗寺裏の決壊
平成18年の水害で一乗寺裏の堤防が決壊したのですが、その時に一乗寺の釣り鐘が流され行方不明になっていました。そして児玉さんが鶴瀬地区の自治会長を平成12年から13年にかけてされていた時に、その釣り鐘が発見されました。しかし所属が不明だったため、自治会長だった児玉さんが鶴瀬公民館前に火の見櫓(ひのみやぐら)の半鐘(はんしょう)として設置しました。



令和7年水難者慰霊祭
令和7年水難者慰霊祭が9月1日に一乗寺で10時から行われました。鶴瀬からは水難者遺族として児玉さんと阿部さんが参加されていました。








