9月1日に恒例の水難者慰霊祭があるので、その前に水難者慰霊碑について再考してみようと考え古い資料を見ていると、平成15年の「高田公民館だより」に得丸嘉平さんが「水難塔について」を載せていたので、それを参考に水難者慰霊碑を再度更新してみたいと思います。
追記※水難者慰霊碑はいつも花で飾られ、清掃されているなと思っていたのですが、これは鶴瀬の得丸みどりさんさんが常時されていたそうです。校区住民として感謝します。
「水難塔について」 鶴瀬 得丸 嘉平 <平成15年7月 公民館だよりから>
※第五代自治部会長 昭和

この度校区自治会、及び校区社協が、水難塔修復整備に取り組んで下さいました。 加えて筒井元生さんの御厚意により、 今までとは見違えるほど、 綺麗に整備されました。 水難塔がどこにあるのか、 又どういういわれのあるものか、ご存知ない方も多いと思います。
場所は亀の井自動車学校の前から鶴鶴に入ると 一番先に目につく所です。
高田は岐阜県の木曽三川と並ぶ、日本2大輪中と言われています。 高田天災記録によると慶長6年より36回、明治になってから今日まで20回と、度重なる水害の被害に遭っています。 特に明治26年10月14日の未曾有の大洪水では、家屋流失 93戸、溺死者 84名、 耕地の荒廃 219 町歩に達し、当時の村民の復興に対する苦労は、並大抵ではなかったでしょう。
又、 昭和18年9月17、18日の大水害の際は、鶴瀬の堤防が決壊、 高田全村が浸水しました。 溺死者18名、 この中には小学生4名の幼い命も含まれていました。 流失家屋32戸、家畜流失24頭、耕地の荒廃100町歩という被害状況でした。
このように水難に遭われた方々を慰霊するために、明治の水難塔は堤防の上に建てられていましたが、昭和18年の水害で、流失していたのです。
昭和18年の水難塔は、昭和30年現在地に、当時の村長他有志の方々により建立されました。昭和52年に、鶴崎自動車学校の御厚意により、流失していた明治26年の水難塔も隣に再建されました。又この度、この様に立派に整備して頂いて大変有難く思います。
災難は忘れた頃にやって来るといわれます。 これを機会に、 今一度、地域民の皆さんも、防災意識を高め、日頃の備えを見直してみては如何でしょうか。
機会があったら、 是非この水難塔(慰霊碑) にお参り下さい。
※得丸嘉平氏 (当HP 「高田の歴代校区自治会長」より)

水難者慰霊の塔 〈鶴瀬〉

明治26年の水難者慰霊碑
明治26年10月14日大水害 ➔ 堤防上に慰霊碑の設置 ➔ 昭和18年の大水害で流失 ➔ 自動車学校工事中に発見される
→昭和52年、現在の地に昭和18年の慰霊碑と並んで建てられる。

水難者慰霊の碑

贈 鶴崎自動車学校
校長 佐藤豊
昭和52年12月22日の除幕式の様子
昭和52年(1977) 12月22日 水難者慰霊碑の除幕式と供養が関係者50人が集まって行われました。この慰霊碑は明治26年の大水害で堤防が決壊し亡くなった鶴瀬地区の78人を慰霊するものです。もともとは大野川の堤防上にあったものですが、昭和18年の大水害で堤防の決壊と共に慰霊碑も流され行方が分からなくなっていました。しかし、昭和52年9月に鶴崎自動車学校(現亀の井自動車学校)の校舎を建設中の工事現場で慰霊碑の一部が発見されたため、自動車学校は自治会や水害の遺族とともに慰霊碑の再建を進め、慰霊碑の再建費用30万円は自動車学校が負担して再建されました。
その碑には、「明治26年 水難者慰霊の碑」と刻まれています。なお、この慰霊碑とともに、昭和18年の水害で亡くなられた方の慰霊碑も並べて建てられています。
大分合同新聞より部分抜粋
(合同新聞から抜粋)
<二十二日、この遺族や関係遺族五十人が集まって供養を行った。供養に招かれた六人や参列した地元の人たちは、 「こんなありがたいことはありません。 本当に感謝でいっぱい」と、この碑を再建した自動学校の関係者に深々と頭を下げていた。
慰霊碑は鶴瀬の市道沿いに再建された。供養には遺族の得丸軍喜さん、徳丸久隆さん、得丸ツヤ子、小玉泰三さん、 川崎康夫さん(以上鶴瀬)、宇〇久吉さん(下徳丸)をはじめ、佐藤市長、地区の 人、高田地区の八自治会長、鶴崎自動車学校関係者の関係者ら約五十人が出席。
遺族の代表の得丸軍喜さん(83)が碑の除幕をしたあと、読経、焼香、佐藤豊鶴崎自動車学校主のあいさつ、来賓の佐藤市長、岡松高田校区 自治部会長らのあいさつ、得丸軍喜さんの謝辞などがあった。
遺族の得丸軍喜さんは、これでみんなの霊もうかばれることでしょう。 こんなうれしいことはありませんと目をうるませていた。いろとりどりのキクの花が飾られ、 線香の煙のたなびく中で参列者は静かに合掌し、いまは昔となった八十四年前の洪水を思い浮かべながら、七十八人の霊を慰めていた。
昭和18年の水難者慰霊塔
昭和18年9月20日大水害 ➔昭和30年2月慰霊塔を設置 ➔昭和52年12月22日 発見された明治26年の慰霊碑が隣に設置
↧
老朽化した慰霊碑の設置場所の整備がされる。➔現在につながる。
整備工事の経緯
昭和30年に建立されていましたが、22年も立ち老朽化したためその対応に困っていましたが、地元や遺族だけではその維持管理は難しく、社会福祉協議会に相談すると、この話が高田自治部会に伝わり、鶴瀬地区だけの問題ではなく高田校区の問題として取り上げられ、平成14年6月16日に第1回会合が開かれ、その後も何度かの会合が開かれ、年内の着工となりました。
翌年、15年3月に竣工して、7月20日に高田校区として水難者慰霊祭が執り行われました。

高田水難者慰霊の塔

昭和18年水難者の塔は、昭和30年当時の村長、並びに融資の方によって建立された。
※昭和29年3月から高田村が鶴崎市になる。

(正面)


(右)


(左)

今に続く水難者慰霊祭
平成15年7月20日に始まった高田校区水難者慰霊祭はあれから続いています。
今年の水難者慰霊祭は9月1日10時から一乗寺にて高田校区自治会、遺族出席のもと行われています。
明治26年の水害から130年22か月、昭和18年の水害から81年11か月になります。しかし、最近では堤防、護岸整備、ポンプ場と水害対策があれこれ施され、長い間大きな水害は発生していません。しかし、[天災は忘れた頃にやって来る。]といいます。最近では100年に一度の降水量など想像のできない自然現象が発生しています。特に高田は過去の経験を忘れずに、水害対策の準備を怠りなくやっていくことが必要であると思われます。
令和6年度水難者慰霊祭





