裏表題 〈ふるさと歴史教室(春の研修の旅) 黒島に渡る〉三浦按針(ウィリアム・アダムス)がたどり着いた島
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鶴崎歴史教室の研修の旅にさんかしました。三浦按針(ウィリアム・アダムス)がたどり着いた島黒島です。
令和7年5月8日、参加者は自家用車・電車・ジャンボタクシーを使ってそれぞれが9時30分までに黒島渡し場に集合しました。
高田からは坂ノ市、臼坂トンネルを経由して25㌔、30分ほどで着きます。
今日のため、臼杵市から3名の職員が案内や説明をしてくれていました。今日の参加者は全員で28名でした。
舟乗り場で簡単な説明の後、14人乗りの渡し舟で二班に分かれ島に渡りました。天気も良く海辺の涼しい風が吹き最高の旅行[いえ、研修]日和でした。



三浦按針(ウィリアム・アダムス) [臼杵市役所の説明文から]
三浦按針ことウイリアム・アダムスは、1564年イギリスのケント州で生まれました。12歳の時、造船所に入り、12年の間、造船と航海術を学び、航海士兼船長の資格を得ました。 その後按針は、オランダ東インド会社の東洋探検艦隊の航海長としてリーフデ号に乗り込み、東洋に向かいます。
途中、幾度となく暴風雨に遭遇して難船しましたが、慶長五年(1600年)4月19日、豊後の国 佐志生の浦(現在の黒島)にようやくたどり着きました。
彼がリーフデ号で到着した時、船内には病人を含めて24名ほどだったと日記に記されています。
この時の臼杵城主であった太田飛騨守一吉は、薬や食料を与え手厚く扱い、大阪城にいた徳川家康に知らせました。
家康は、大阪においてアダムズを引見し、彼の人柄と天文学、航海術、当時の世界情勢などの知識に興味を持ち、好意的態度で接したということです。
そして、彼の帰船を許し、リーフデ号を浦賀(神奈川県横須賀市)に回すことを命じました。
浦賀に着船後、アダムズは家康とたびたび会見し、彼の信任を得て外交顧問として厚遇されました。
そして、日本名「三浦按針」と、相模の三浦郡に領地が与えられました。
その後の按針は、幕府の海外貿易振興のため、大いに力を尽くしました。
特に、日本とイギリス・オランダとの通商貿易、文化の移入など、日本の外交史に輝かしい足跡を残したのです。
さあ、出港です
向かうは黒島


乗 船
船の旅はわずかな時間でも趣が違います。遠くを見つめながら思いにふけってしまいます。





上陸しました
ウィリアム・アダムスは、1598年に5隻の船からなるオランダの探検隊の一員として出航しました。(総勢500名弱)彼の乗っていたリーフデ号が出航した際の乗組員は約110名でしたが、壊血病や嵐、先住民との衝突などにより多くの犠牲者を出し、1600年に日本に漂着した際には、わずか24名となっていました。そのうち、まともに立つことができたのは6名のみで、残りの者は重傷を負っていました。
今日の私たちの人数とほぼ同じです。この写真のようだったのかもしれません。



さあ、島巡り[島の研修]です。
島巡りをする前に臼杵市の古墳群の説明文があったのでアップします。
はっきり言って古墳らしきものが残っているだけなので、雰囲気だけでも味わってください。
黒島古墳 臼杵市役所の説明文
黒島は史跡の島としても知られています。島内南東部の小丘陵には、中世の若林水軍の砦と思われるような石積を施した曲輪状遺構、更にこの遺構内部と北西部の小丘陵には、数基の小円墳があります。古墳は、何れも直径10m前後の円墳で、1mほどの高まりがあります。墳頂部は、後世に削平を受けたため一部埋葬施設が露出し、往時の姿をとどめてはいませんが、露出している箱式石棺や石室等の様相から、この地域で勢力を持っていた古代海人部の族長の墓と考えられます。これら古墳の中には、臼塚、下山両古墳より古い時期に属するものもあり、古墳時代におけるこの地域の先進性がうかがわれます。
1~3号古墳群を目指して
素人目ではこれが古墳跡といわれるまでわかりません。ここにあったのだな、と雰囲気だけでも味わってください。


皆さん、高齢にもかかわらず足腰はしっかりしています。急坂が多いにもかかわらず最後まで歩きとおしました。











この枝の先が横穴式石室です。
古墳巡りをした後、海辺で息抜き
山を歩き、浜辺を歩き、楽しい高齢者遠足でした。


リーフデ号記念公園


















最後にみんなでパチリ
省略


