👉高田会所と惣庄屋(会所と惣庄屋について知りたい方はこちらから)

<2025-01-13>

臼杵藩主が通ったという府内藩(大分)と臼杵藩を結んだ殿様街道<高田風土記ではこの街道を府内ー臼杵本街道と呼ぶ>のルートを探していましたが、当時の百堂の渡しを渡った後の経路がはっきりしませんでした。昔の文献によると川添側に百堂の渡しを渡り終え山側に進み辻山というところで道路が交差する。そこに茶店があり、そこから50mほど離れたところに当時の高田会所惣庄屋、岡松作右衛門が建てた供養塔があるという。
この供養塔が見つかればルートがつながるではないか、と思い供養塔探しを繰り返しましたが、わからずに過ぎてしまいました。
そこで、ふるさとの歴史教室の川添の歴史に詳しい村上浩明氏に協力を仰ぎました。
 そして二人でその交差点辺りまで行き探したのですがなかなか見つけることができず、30分ほどしてあきらめかけた時に草むらの中から発見することができました。これで殿様道路の経路を確定することができました。そのあと、村上氏に旧百堂の渡しの川添側を案内していただきました。

なお、岡松作右衛門の供養塔は高田が一望できる当時では最高の場所に建てたのではないでしょうか。

岡松作右衛門について

下記の惣庄屋を見ると、岡松作右衛門は第7代惣庄屋で、岡松家初代の惣庄屋です。
鶴崎市史人物編によると、1728年17歳で高田手永の小吏となり、勤続27年余り抜擢され1757年高田郷の高田手永惣庄屋になる。1763年関手永の惣庄屋兼代官に転役し、長子岡松数右衛門が高田手永の惣庄屋になる。1784年隠居を請うて許され十時氏称する。寛政元年(1789年)10月3日に没した。78歳。

番 号岡松家 氏     名    期     間


高田(藍澤)市左衛門

寛永十年(1633)~万治元年(1658)


高田(筒井)半右衛門

万治元年(1658) 八月~延宝六年(1678)3月

 ③ 

高田(筒井)半右衛門

延宝六年(1678)3月~元禄11年(1698)2月

筒井半輔(助)
元禄11年(1698)2月 ~享保7年(1722)
 ⑤ 
高田(片山)伝左衛門
享保7年(1722) ~享保12年(1727)
 ⑥ 高田(片山)弥三右衛門
享保12年(1727) ~宝暦7年(1757)
岡松作右衛門(真勝)
宝暦7年(1757) ~宝暦13年(1763)6月
 ⑧ 岡松数右衛門
宝暦13年(1763)6月 ~寛政11年(1799)4月
岡松作右衛門(勝亮)
寛政11年(1799)4月 ~文化3年(1806)3月
岡松貞之允
文化3年(1806)3月 ~文政5年(1822)2月
 ⑪ 岡松角野進
文政5年(1822)2月 ~文政7年(1824)12月
岡松数右衛門(真友)
文政8年(1825)3月~天保7年(1836)3月
岡松宰助
天保7年(1836)3月 ~天保10年(1839)3月
 ⑭ 岡松俊介
天保10年(1839)3月 ~明治3年(1870)1月
野田敬之 允
明治3年(1870)1月 ~ 明治3年(1870)2月
 ⑯ 郡野一兵衛
明治3年(1870 ~ 明治3年7月

石碑を村上氏と探す

<写真撮影 1月13日>

地元の人に尋ねてもわからず、捜し歩いた後偶然に見つけ出しました。この辺りは村上氏によると古墳が出るところだそうです。
古代人もここの景色がよかったので住居を構えたのかもしれません。

小笹を倒して何とか写真撮影完了。 完全に小笹に埋もれていました。

妙経一部石文字之塔  天明元年辛丑8月  岡松作右衛門真勝 と書かれています。
天明元年(1781年)は作右衛門が70歳 関連があるかはわかりませんが古希に当たります。
この三年後に隠居し養子の娘婿慶右衛門が関手永惣庄屋兼代官を引き継いでいます。そしてその5年後亡くなります。

石碑は小笹で覆われています

作右衛門が眺めた景色

岡松作右衛門が建てた供養塔からは高田、川添、鶴﨑地区が一望のパノラマを見ることができる。

殿様道路の分岐点

ここにはお茶屋があり、食堂や宿泊施設もあったとも言われている。豪雨などで渡しが使えない場合ここで休憩をしたのかもしれない。

この交差点が丹生、宮河内、百堂渡しの分岐点
左 殿様道路 百堂の渡しへ  右草むらの中に石碑

川添志村線から供養塔側を望む
県道38号坂ノ市 中戸次線から供養塔側を望む

川添側から高田の渡し場を望む