<2024-12.12>
県内の刀匠は竹田市荻の興梠(こおろき)宏明(刀匠名:房興)さん、大分市三佐の新名公明(刀匠名:平清明) さんの二人しかいませんが、今回「ふるさと歴史教室」では三佐の新名さんの鍛錬所を訪問しました。豊後刀発祥の地である高田の住民としては参加しないわけにはいきません。興梠さんは昨年(令和5年1月)宇佐県立歴史博物館で開催された「大分の名刀」企画展で講演と説明があり直接話を聞くことができたのですが、三佐の新名さんには高田から近いこともありいつかは鍛錬所に行って話を聞いてみたいと思っていました。 新名さんの鍛錬所は三佐中央公園から100mほど海側に行ったところにあります。今回はそこで実際に作業を見学しました。これまではビデオや写真では見たことがありますが、実際に見るとその迫力に感激します。
なお、今回の参加者は30名近くで、新名さんの作業見学と甲斐さんの豊後刀についての講演の二班に分かれました。今回の鍛錬所訪問は非常に評判がよく終了時には面白く楽しかったといっていました。
参考
※ふるさとの歴史教室
「ふるさとの歴史教室」は、鶴崎公民館で歴史の講話や、県内県外の歴史の地を訪ねるバス旅行、鶴崎地区内の野外研修を行っています。
毎月第二木曜日に鶴崎公民館で10時から開催しています。興味ある方はちょっと覗いてみてはどうでしょうか。
新名公明さん、及び豊後刀についての豆知識
・新名公明 ... 刀匠銘 平 清明(きよあき)
新名さんの刀つくりの始まりは1000本ほどの日本刀をつくった世界的にも有名な福岡県荒尾の松永名刀匠のもとでの師事からです。令和元年に大分市三佐に鍛錬所を構え、100年以上途絶えた 豊後刀の再現に尽力しています。令和5年5月には『新作日本刀 研磨 外装 刀職技術展覧会』で銀賞を受賞しました。この銀賞を含め、三年連続入選しているそうです。新名さんは現在57歳ですが、今先10年、20年と技を磨き、志のある弟子ができれば継承していきたいと考えているそうです。なお、現在は二人のお弟子さんがいるそうです。(志のある方挑戦してみてはどうですか。)私たちが見学している間にもあれこれと私たちに気を使ってくれました。こういう気づかいが刀つくりにも大事なものなのでしょう。
また、大野川の砂鉄を使い、古代から続く「たたら製鉄」という製鉄法で豊後刀を現代に再現しようという「豊後刀再現プロジェクト」にも取り組んでいます。
そして、今年の10月4日(日本刀の日)に「豊後刀再現プロジェクト」、銀賞の受賞報告を兼ね、佐藤大分県知事を表敬訪問をしました。
・[県立歴史博物館パネルより 現在刀 今なぜ日本刀をつくるのか]
平刀匠は、「豊後刀とは何なのか」 -この探求に心血をそそいでいる。 古来、 高田鍛冶は、大分郡高田村(現大分市鶴崎)で多くの作品を作刀した。 平刀匠は、現在の高田地区に刀工をはじめとした鍛冶職人を集めて、往時の職人地区を再現することを目指している。とパネルに書かれていました。・
・豊後刀とは?
高田刀とは鎌倉期から幕末に至るまでの間、高田地区(現大分市鶴崎近辺)で産出された日本刀のことであり、殊に古刀期の室町時代のものを平高田と言い、新刀期以降を藤原高田と一般に言われています。
刀の特徴は反りの中心が茎(なかご)側に寄っていて、反りが大きく細身で優雅な太刀姿です。 鋒(きっさき)が小さく短いという特徴もあります。 いわゆる平安時代以来の典型的な太刀姿で、特に他国の作に比べて古典的です。
新名さんが刀匠名に平清明とつけているのは、平高田の平を取り入れたそうです。
・たたら製鉄とは <ウィキペディアより>
日本おいて古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送り込むのに使われる鞴(ふいご)が「たたら」と呼ばれていたために付けられた名称である。砂鉄や鉄鉱石を粘土製の炉で木炭を用いて比較的低温で還元し、純度の高い鉄を生産できることを特徴とする]。近代の初期まで日本の国内鉄生産のほぼすべてを担った。
[参考] 紀行平のこれまでのアップ記事
紀行平及びそれに関する記事は下記をご覧ください。
👉《歴史散歩第5番》 高田の三哲 紀行平
👉<「高田村志」を読む>第三章 人物「紀新太夫行平」
👉《高田の歴史 紀行平》宇佐市の県立歴史博物館で「大分の名刀」企画展
👉「高田村志」4章の5 鬼の井戸
👉<高田の歴史 ふるさと講座>紀行平 「鬼の井戸伝説」堂園 田中早苗氏 作]
👉高田の刀鍛冶について〈高田 浩己〉 平成19年「ふるさと歴史教室」講演より
第一部 日本刀作り (今回は鍛錬までです)
作業前に
新名さんと甲斐さんの紹介、刀つくりの説明
今日の新名さんの聞きかじりで日本刀作りのほんの一部ですが書いてみようと思います。
1・玉鋼(たまはがね)
日本刀を作るための材料で、砂鉄を日本独自の「たたら製鉄」という方法でつくられた鉄です。外国でつくられる鉄は鉄鉱石から作られるためいろんな不純物が含まれていますが、たたら製鉄で作られる玉鋼は砂鉄からつくるため不純物のほとんどない純度の高い鋼がとれ、高品質の日本刀を作るのに欠かせない材料です。
上記の施工手順の写真の左端にある溶岩のようなものが玉鋼です。
この玉鋼は刀つくりの材料として多くは島根から取り寄せているそうですが、平さんは「豊後刀再現プロジェクト」として大野川上流で採れる砂鉄を利用して豊後刀をつくるという計画を持っているそうです。
また、一振り(1キログラム)の刀を作るためには普通10㎏程の玉鋼が必要だそうです。
2・炭・ふいご
その玉鋼を鍛えるために1400℃の炭の中に入れます。
この炭は松を材料にしています。聞けば松炭は軽く火の回りが早いからだそうです。元の炭は大きいため、使用できるようにするために小さくこわりする(炭切り)作業ですが、120㎏ほどの炭を炭切りするのには師匠でも一日かかるそうです。この炭を均等に小わりする作業も弟子の大事な修行の一つで刀の出来映えに影響するそうです。弟子の修行として炭切り三年というそうです。
また、炭は「ふいご」から風を送り、火の温度を調節します。火床の温度は1400℃だそうです。
3・鍛錬までの沸かし
先の玉鋼をつぶし長い鉄の棒(てこ棒)の先端に複数枚の玉鋼片を鍛接し炭の中で加熱し一体化します。
下記の写真のてこ棒1~2本目です。トレイに入っているのが玉鋼片です。
一体化した玉鋼を中まで熱を通すことを沸かすといいますが、高温の中で鉄が燃えてしまわないよう藁灰にまぶします。これは灰の中のガラス成分に近いものが玉鋼を保護するからだそうです。また、泥汁をかけるのは均等に玉鋼に熱が伝わるようにするためだそうです。
この玉鋼を一体化していくため、大槌でたたいていきますが、この作業で不純物を取り除いていったり鉄の状況を把握していきます。今日使っていた大槌の重さは7㎏あるそうです。この大槌を打つお弟子さん、口には出しませんが体力のいる大変な作業です。
また、この沸かしの作業はふいごで風を送りながら火の強さや温度を調整しますがこれは長年の勘と経験が必要で新名さんの腕の見せ所です。
4・ 鍛錬 (伸ばす➔折り返す➔くっつける)
鍛錬は鋼の不純物を取り除き、鋼の炭素を均質化していくために、前の沸かしでできたてこ棒の先の一塊になった玉鋼を伸ばし、半おりしながら鍛える工程です。
この作業を15回ほど繰り返すそうです。
この作業によって鋼の不純物が取り除かれ、均質な材料になります。また折り返し鍛錬を繰り返すことで刃の強度と弾性が向上するそうです。
この作業ではどこをのように大槌で打つかを支持する新名さんの指示が重要です。
新名さんが言うには私の作業中は寡黙です。刀つくりに集中ができないからです。師と弟子の間は「あ、うんの呼吸」だそうです。
鍛造機機による鍛錬
現在では鍛錬は人に代わり機械で行っています。7㎏の大槌を振り下ろすのは若い弟子さんでも大変でしょう。これを15回繰り返すためには機械を使うのもやむ負えないでしょう。
5・ その後の作業について
今回は鍛錬までの見学でした。この後の作業はまた機会があればと思っています。
付録 体験学習
鉄棒を使っての鍛冶屋体験を新名さんが準備してくれていました。
ふるさと歴史教室の会員二人が実践に挑みました。写真の方はなかなか筋がよく新見さんから弟子になってはどうですか、と言われていました。
休憩
鍛錬の見学と刀講座の間に休憩がありました。お弟子さんや奥さんがお茶を出してくださり刀談話でにぎわいました。
第二部 刀講座 鶴崎(大野川下流)から見た大分県の鉄文化
講師 甲斐敬一氏
甲斐氏の講話はこれまでとは違った視点から構成されており話に引き込まれていきました。これまで高田では紀行平のみがクローズアップされ、その他の刀匠や高田刀については触れられずに来ていました。今日は紀行平以外の刀匠、高田刀の良い点と欠点についても詳しく話されていました。いつか機会があれば発祥の地高田で高田刀について講演を開催していただきたいと強く感じました。
大野川の鉄文化
今年竹田市で弥生後期の製鉄遺跡が見つかりましたが、これについて甲斐氏は下流高田工群、大野川に沿う鍛治文化の根拠となるのではと話されています。
このことは大昔から大野川上流で製鉄がなされていたことの証ではないでしょうか。
紀新太夫行平(平安末期から鎌倉初期)
行平は高田鍛冶の元祖とされており(行平が高田に来る前から高田には鍛治集団があったと思われます)、紀行平の作品は国の重要文化財に指定されたりして広く名前が知られています。そのためか行平の作品は室町時代から多くの贋作が出回っていました。本物は国宝になったり由緒ある家や博物館などに保存されたりしていますが、その刀剣の鑑定は非常に困難です。なでなら多くの豊後刀は装飾品というよりは実用品として優れていたこと、また京都から見れば西の端の田舎の刀と思われ、実力以下に評価されていました。そのため刀の銘が消され、有名ブランドに書き換えられたりしていたようです。
何か、宮崎産で育てられた牛が有名ブランドの土地に運ばれそこで有名ブランド肉として売られていることをふと思い浮かべました。
豊後刀(高田刀)
豊後刀の特徴 「折れず、曲がらず、よく切れる」 多くの武将に愛された実践向きの刀であった。
武器である刀剣が長い歴史の中で日本ほど大切に扱われてきた国はない。(信仰、儀礼的用途、鑑賞対象の美術品として)。しかし、先に書いたように残念ながら豊後刀の評価は高いものとは言えない。そのため、多くの豊後刀の評価や研究がなされてきてはいるが、現存している刀の多さで(甲斐氏はその多さは備前、美濃に次ぐという)研究が進むどころかますます謎が増えているという。
ではなぜそれほどの多くの刀がつくられたのか。
その一つは大友宗麟の影響だと思われます。大友宗麟の最盛期には九州の6か国(豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の六カ国)を支配していました。九州では薩摩と二分する大戦国武将だったのです。そのため、多くの武器が必要となり刀の作成を増やしたのではないでしょうか。そしてその時の生産地だった高田に白羽の矢が当たったのでしょう。
また、宗麟は南蛮貿易にも力を入れていました。その当時刀は有力な輸出品であったのではないでしょうか。
しかしその後、大友家の衰退によりバックアップがなくなっていったこと(細川家のバックアップもありましたが)、江戸時代になり戦がなくなったことで刀の需要がなくなり刀は武器としてよりは儀礼用、観賞用として使われるようになっていきます。
そこで、高田鍛冶は一部の者だけが刀を作り、多くは農機具(鍬、鎌等)などを作るようになっていきます。もともと高田物は「折れず、曲がらず、よく切れる」という芸術品というよりは実用的な要素が強かったため九州各地だけではなく遠く関西の方まで広がっていきました。
平高田
高田刀は大きく分けて「平刀」と[藤原刀」に分けられます。
平高田の代表格は「平長盛」です。特に室町末期には九州一のブランドだったといわれ現存する優れた刀も多い。当時の日本一のブランドは「備前長船裕定(おさふねすけさだ)」でした。しかし、このことが悲劇を踏みます。平の銘を消し、備前の銘を刻むようになっていくのです。どんなに良い刀でも九州の田舎の刀よりは都に近いところの刀の方がブランド価値が高かったのでしょう。そして、平高田と備前の刀が似たものになっていきます。そうなればますます判別がつきにくくなっていきます。
かってはそれらを乗り越えて鑑定に努力されていた方々もおられたそうですが、それを受け継ぐ次世代が少なくなってきました。県や市からの協力が欠かせない時期になったのではないでしょうか。
※高田では紀行平が高田の三哲として高田鍛冶の祖として扱われていますが、実の高田の刀鍛冶の祖はこの平長盛(ながもり/おさもり)ではないかともいわれています。紀行平は平安末期から鎌倉初期の人ですが、平長盛は室町中期の人で際立った腕の刀鍛冶だったといわれています。高田の住民としては平長盛ももう少し光の当たる場所に出しても良いような気がします。
藤原高田
藤原高田は慶長期前後(戦国末期から江戸時代初期)にすぐれた作品がみられます。
しかし江戸初期の藤原高田は、忠吉一派、肥前刀に似ていました。そのため、ここでも平高田と同じ悲劇が生じます。肥前刀は江戸時代を通じて一流ブランドで工房であったため、平高田と同じように銘が消され改ざんされていきます。
高田刀逸話
・宮本武蔵は高田刀を評価しており、門人に送った刀は「高田貞行、二尺八寸の刀」であるという。
また、武蔵自身の佐料(さしりょう 脇差 腰に差す小型の刀)の一つが高田刀だったという。
・赤穂浪士の討ち入りで有名な堀部弥兵衛は高田刀を大事にし討ち入りには使わなかったと赤穂浪士の切腹までを綴った「堀内伝右衛門覚書」に書かれているそうです。
最後に
終了後の話の中で川添地区の郷土史家である首藤氏が川添地区のある地区では砂鉄が多く取れる場所があるが、その土地の持ち主は高田の人であるという。もしかして高田鍛冶が玉鋼を作るため、その土地を手に入れ砂鉄を採取していたのではないかという。
面白い話だと思い、ちょっと行ってみたいと思います。
また、後から甲斐さんに聞いた話で、藤原高田と平高田の盛衰についてキリスト教徒としての関わりの話は興味深い内容でした。ただ、これについてはまだ私の中で整理されていません。
<参考資料> 剣銘
甲斐氏の資料に高田刀の剣銘が添付されていたのでアップしておきます。