ふるさとの歴史教室

「ふるさとの歴史教室」は、鶴崎公民館で歴史の講話や、県内県外の歴史の地を訪ねるバス旅行、鶴崎地区内の野外研修を行っています。
毎月第二木曜日に鶴崎公民館で10時から開催しています。興味ある方はちょっと覗いてみてはどうでしょうか。

<2024-09-12>
9月12日、ふるさとの歴史教室では長野浩典氏の講話がありました。

長野氏といえば「川の中の美しい島・輪中」を書かれた方で、10冊ほどの歴史本を執筆されています。
以前、高田の豊後刀についての講話がありその講話を聞かせていただいたこともあります。
以前高田公民館でも長野氏に講話をしていただいたことがあるそうです。
どうして長野氏は熊本出身なのに高田のことに詳しいのだろうと思っていたのですが、今日の話の中で、長野氏は歴史を専攻する学生時代、毛利弘 氏宅に住まわせていただき、毛利空桑等について勉強されたそうです。
 その後、大分に愛着があったのか、大分東明高校の教諭となり35年間生徒の指導にあたってきました。そして2011年長野氏が顧問していた大分東明高校の郷土史研究部が、研究した歴史テーマ「大分市の高田地区にある輪中集落の歴史」が全国優秀賞を受賞しました。

長野氏が大分東明高校を退職された後に書かれた高田をメインにした「川の中の美しい島・輪中」を下記にアップしてみました。興味がある方は購入されてはどうでしょうか。

講話(空桑・源兵・津留崎有終館)について

今日の講話は長野氏が現在執筆中の「明治の大獄」の中の毛利空桑、源平、有終館について特に切り込んでお話をされました。
 空桑は話をするまでもなく高田の三哲の一人の毛利空桑です。
私塾の知来館(常行に当初の知来館跡があります)や、文武両道を目指し成美館を設立しています。そして熊本から藩兵隊長として「高田(こうだ)源平」がやってくると、協力して兵の洋式訓練を行うための有終館を設置したのです。
その源平ですが、元の名を河上 彦斎(かわかみ げんさい)といい、熊本の人で幕末に尊王攘夷の思想で京や江戸で活動しますが、その時期に開国論者の佐久間象山の暗殺に関わります。後、熊本藩を脱藩し長州藩に行き騎兵隊の中でも活躍します。
しかし、維新後熊本に戻った源平は彼の過激な思想のため熊本藩では疎まれ、当時熊本藩であった鶴崎に追われ(左遷され)ます。そこで出会った毛利空桑とともに有終館を設立します。

なお、源平は河上 彦斎から高田(こうだ)源兵衛 (源平)と名前を変えています。これは佐久間象山を暗殺したことにより暗殺されることを恐れ上の者が名前の変更を進言したようです。
この三つの関係(空桑・源平・有終館)は以上のようにつながっています。
今回、長野氏が話された内容はもっと深く広いのですが、有終館が設立され解体されるまでを中心に書いてみました。

明治の大獄とは

今日の講話は安政の大獄に匹敵する明治時代初期の大獄の話です。長野氏は明治の大獄といっています。

※安政の大獄<ウィキペディアより

安政の大獄は、安政5年から安政6年にかけて(1858年~1859年)江戸幕府が行った弾圧。幕府の大老・井伊直弼や老中・間部詮勝らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を徳川家茂に決定した。安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である。

簡略に言うと大老であった井伊直弼が天皇の許可を得ずに勝手に外国との条約を結んだこと、また徳川家の継承を勝手に決めたことなどの幕府の政策に反対する一橋派や尊皇攘夷派の人々を弾圧した事件です。
「尊王攘夷(そんのうじょうい)派」 天皇を尊び異国を追い払うという思想

 では長野氏が言う「明治の大獄」とはどのようなものだったのでしょうか。
安政の大獄は江戸時代末期の尊王攘夷派による反政府運動に対する弾圧であったのに対し、明治の大獄は明治初期(明治維新は1868年 明治元年)の維新後から4年にかけての尊王攘夷派の反政府運動に対する弾圧です。
これは廃藩置県を完結させ藩の力が弱くなったことにより収縮していきます。
安政の大獄の時代背景はペリー来航による日本国の対外開放をどうするか、徳川幕府をどうするかという大きな問題がありました。
明治の大獄時の時代背景は明治維新後大政奉還がされ新政府が動き始めましたが、まだ新政府には力で治めることができず、日本はまだ藩で動いていました。そして新政府の政策に納得ができない各藩の一部の勢力(尊皇攘夷派)が新政府を転覆しようと活動をおこし政府はそれを弾圧していきます。
 近くでは熊本や長州(山口)等の尊王攘夷派が各藩で行動をおこします。そして各藩での過激な発言や行動により各藩から追われたり自主的に出ていき他の藩に入っていきます。
 そして鶴崎では思想家としての毛利空桑を頼ってくるようになります。空桑が説いた尊皇思想は明治維新にも影響を与え吉田松陰斉藤監物らも塾を訪れ、空桑と意見を交わしたと言われています。維新後も、空桑に意見を求める勤王家や密使が後をたたなかったと言われています。高田(こうだ)源平、中村六蔵、大楽(だいらく)源太郎などです。その代表がこの表題に出ている高田源平です。源平は河上 彦斎(かわかみ げんさい)のことで通称高田(こうだ)源兵衛です。(源平は排外主義の攘夷論者でした。源平は長州に入り騎兵隊に加わり活動をします。源平は開国論者だった佐久間象山を暗殺したことで有名です。(人斬り彦斎 とも言われていました)
 尊王攘夷派であった源平は、幕末当時熊本藩は佐幕派(幕府を補佐する派とし倒幕派の対比語)であったため、熊本藩に倒幕側につくよう説得するため熊本に帰省しますが、脱藩者として投獄され幕末から明治初期(1867年~1868年)は投獄生活をします。
維新後、新政府は開国を進めようとしますが、攘夷論者の源平は疎まれ、明治2年(1869年)熊本藩であった鶴崎に藩兵隊長という形で追われます。鶴崎では毛利空桑とともに「有終館」を設立し、数百の兵士を集めて、兵法と学問を教えますが、源平は藩から突然免職の通知を受け解散します。
これは鶴崎時代に大村益次郎暗殺事件に関与した大楽源太郎を匿(かくま)ったこと、政府の重鎮の暗殺計画に加わったことなどで熊本藩に護送された後、東京に送られ斬首されます。38歳でした。
しかし、源平はそれほど関与はしていなかったのですが、政府の方針に従わない危険な攘夷派として処刑されたのではないかとも言われています。

この事件のように多くの危険だと思われた攘夷論者を次々に逮捕し、またそれを匿ったり、保護した藩もつぶされていきました。これらは廃藩置県を実行していくための手段として利用されたのではないでしょうか。
結局、明治4年に廃藩置県が成立し新政府(中央政府)が一括して日本を治めるようになっていきます。中央主権国家の成立です。あとの歴史を見るとその集大成が西南戦争だったのではないでしょうか。

有終館の設立

先に書いたように毛利空桑は鶴崎お茶屋の中にあった学問をする稽古所にかわり、学問と軍事訓練をする文武館の設立を熊本藩に建議します。そしてその必要を感じていた熊本藩は1861年「成美館」を設立します。そして1867年の王政復興、1868年の戊辰戦争などにより熊本藩は成美館の枠を超えた歩兵銃隊の編成と訓練を進めていきます。その過程で高田手永、関手永、野津原手永から多くの人が入隊し拡大していきます。
そこで小隊を分離し「清寧隊」としました。
 高田手永では大野川河畔に軍事演習をするための清寧場を設けました。
「高田村志」にも清寧場について書かれています。

 👉「高田村志」を読む 第四章 3・清寧場
 👉《「高田村志」を読む》  第三章人物 6・毛利空桑

こうして銃隊の建設が進められていきますがここで新たに軍隊の建設を建議したのが源平です。
高田源平は維新後世の中はある程度平定されてきたけれど、また何がるかわからない。その時に備え軍隊を整備する必要がある。そして京都に距離的に近い鶴崎に設けるのがいいだろう。と。
そして、明治2年1月22日に正式に「鶴崎兵隊引廻」に任命されます。この引廻(ひきまわし)とは軍隊の指揮官をさします。また鶴崎兵隊が後の鶴崎有終館になっていきます。
しかし、高田源平には別の考えがあったようです。新政府に対決するためこの軍隊を利用しよう、また熊本から遠いから自由に使えるだろうと考えました。

熊本から藩兵隊長として来た源平は鶴崎に有終館を設置しようとします。これはかって源平が長州にいて騎兵隊に参加しますが、その時の騎兵隊に倣って作成したとおもわれます。
この有終館設立には毛利空桑もかかわり、有終館という名前は毛利空桑がつけています。位置づけは熊本藩の常備軍です。明治2年2月に正式に有終館ができます。
しかし、学問や武芸の鍛錬は知覧館や成美館で行われ、有終館はほぼ軍隊としての訓練だったのではないでしょうか。
 高田源平の考えは熊本藩にはわからないよう政府転覆の際に利用しようと考えていました。鶴崎の練兵場を観光場という名にしたのもカムフラージュだったのかもしれません。
高田源平は熊本藩の軍隊ではなく、長州藩の騎兵隊に似せた軍隊を作ろうとしていたのではないでしょうか。

熊本藩 有終館跡

有終館の解体

有終館が設立したのが明治2年2月、そして解体したのが明治3年7月わずか1年半の出来事です。
では、その間どのようなことがあったのでしょうか。
有終館には様々な藩から人が毛利空桑の元を訪れていました。各藩からの脱藩者、尊王攘夷派の藩士など。しかし、毛利空桑の訪問者は有終館ができる前でも吉田松陰・大楽源太郎などの尊王攘夷派が訪れています。
設立半年後の9月には「鶴崎有終館の軍令」が発令されています。その内容については省略しますが、軍隊そのものの内容です。有終館は軍平を司令官とする軍隊組織になっていたのです。
また、兵営は鶴崎一か所だけでは不便なため、佐賀関・大在・近在(高田)・奥在(竹中周辺)・野津原の5か所に分営ていたのです。
 そして次第に政府だけではなく熊本藩も有終館に不信を抱き始めます。そのことを知った有終館側は密偵が入ることを恐れ厳重な対策を取ります。この密偵に関する事件は多くありますが、これに関しては「明治の大獄」をご覧ください。
 明治三年に長州萩藩の奇兵隊などの脱隊騒動があり、2、3日で鎮圧されるのですが、逃げた多くの者たちが協力を求め鶴崎の毛利空桑の元にやってきます。そして保護を求めた中に首謀者の大楽源太郎がおり源平と空桑は大楽を匿います。長州藩は引き渡すように有終館、熊本藩に訴えるのですが、のらりくらり逃げていました。しかし、最後に源平は大楽源太郎を久留米藩経由で逃がすのですが、源平は大楽 源太郎をかくまったことで熊本に召喚され、明治4年12月東京にて処刑されます。享年38歳です。(40歳とかの説もあります)

ここに有終館は1年半で終わりを告げます。
 なお、空桑も親子共々投獄され一年後には釈放されますが家禄も士族の位も剥奪されます。
しかし、その後も空桑は活動し、晩年には従六位をもらっています。
晩年に一部を「高田村志」には下記のように書かれています。
「病いの中、枕元の菊の花を食べたが、医師が毒があるを伝える。空桑は怒って「拙者晩年にぼけて毒を食べたとあっては面目ない。菊の花に毒があることを証明しろ」と怒ったことがあった。空桑の気性がよく出ているといえる。 十二月病気の状態が変わったので、朝廷が勤王の功績を賞し、特旨を以て(天皇の思し召しがあって)従六位に叙せられる。此の時空桑は病にもかかわらず身を清め礼服を着て、 東に向かって稽首再拝(けいしゅさいはい 神仏や貴人に対して何度も深く礼をして敬う心を表わすこと。)、謹んで之を受け、そうして家人に言う。「私は國家にわずかな功績もない、それなのにこのようなありがたいものを受ける、これは大いに恥じるところである。 お前たちは奉公盡忠(忠義をつくして国に奉公し)、私の仕事を継いでほしい。」と。この月十二月二十二日享年八十九歳で亡くなる。(叙位後10日であった。)越えて二十五日、常行字板屋先塋(墓の意)の次に葬る。」


「明治の大獄」にはまだまだ多くのことが書かれているのですが、毛利空桑、源平、有終館のつながりのみを書いてみました。
後は、下記に示す「明治の大獄」が9月の末に本屋で販売されるそうです。興味のある方はその本をご覧ください。

「明治の大獄」 書籍説明