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「ふるさとの歴史教室」は、鶴崎公民館での歴史の講話や県内、県外の歴史の地を訪ねるバス旅行、鶴崎地区内の野外研修を行っています。
そして今回は野外研修として九六位山の円通寺を訪ねました。
(※「ふるさとの歴史教室」に参加するには条件は何もありません。毎月第二木曜日に鶴崎公民館で10時からやっています。席は十分あいています。参加させてくださいと声をかけてください。そして気に入ったら会員になってください。)
1400年の銀杏(いちょう)
駐車場からお寺に上る参道横に樹齢1400年の銀杏がその歴史を感じさせる姿でそびえています。木の幹からぶら下がっているものが乳根といわれ全国的にも珍しいそうです。
このいちょうは聖徳太子の時代の591年にこの寺を開いた日羅上人の手によって植えられたと言われています。
ちなみに高田の最古のお寺の補陀寺が755年です。歴史に出てくる大化の改新が645年、平城京の遷都があったのが710年、奈良の大仏ができたのが752年、その頃の時代です。
大分市指定銘木
圓通寺のイチョウは大分市指定銘木第1号に選定されています。見るだけの価値のある銘木だと思います。
新緑の圓通寺境内
緒方住職に圓通寺の歴史を聞く。
私の50年前の疑問にも答えてもらう。
圓通寺の住職緒方さんが圓通寺の歴史を説明してくださいました。
百済の日羅(にちら)上人が日本に招かれ(聖徳太子が師事したとも言われています)、古国府の岩屋寺(現在の円寿寺)を開くときに東方の峰(朝日が昇る九六位山の方向)に毎朝慶雲がかかりその下には聖地ありと登り始めましたが、容易に登れず難儀していたときに九匹の鹿猪が現れ道を案内してくれたことから九鹿猪(くろくい)山と名付けられたそうです。
日羅上人は千手観音(せんじゅかんのん)を刻んでこの地に安置し、堂を建立して九鹿猪山円通寺と名づけました。圓通寺は霊山の霊山寺、神角寺山の神角寺とともに豊後の三大寺院と呼ばれています。
大友能直(よしなお)公(大友氏初代)、大友五代貞親(さだちか)公時代には百人を超える僧侶が住み、国家の瑞慶を祈りましたが大友義統公(1586年)の時代に薩摩軍の乱入により兵火にかかり悉く焼失し荒野となりました。(豊後と薩摩の戦い 豊薩戦争 高田でも多くの古くからあった寺院やお寺(若宮八幡社、常行天満宮、上徳丸天満宮、補陀寺、興聖寺)が焼滅しました。)そして 日羅上人の植えた大銀杏の木だけが残ったのです。すべてが消失してしまったのですが1632年、霊夢により大イチョウの祠(ほこら)に隠されていた千手観音を見つけ出した緒方量海法印により草堂を建てて祀り、寺院を再興しました。
詳しいことは圓通寺の略記が下記の写真に、また圓通寺の縁起の口語訳(「ふるさとの歴史教室 研究小報 第一集」)が最後に記載しています。
👉#《参考資料》圓通寺の縁起
50年前の知りたかったことが解決
私が中学生の時から知りたかったことがここの住職にありました。
中学は大東中学でしたが、数人の友達が広内から通学していました。あの頃は身近に舗装をしている道はなく、良くて砂利道で埃が舞い雨の日には車から水たまりの水をかけられていました。その広内の友人に「大変だね」と声をかけると、「いや、ちょっと前までは九六位山の頂上から通学していた人がいたよ。」と言われました。高田からの通学にもぶつぶつ言っていたのに、九六位山の上から通学と知り、びっくりしました。そしてその人にいつかあってその様子を聞きたいな、と思っていました。そしてその機会が今日与えられたのです。
緒方住職の話によると、小学校の低学年の時は広内にある分校に通っていました。その頃の道は九六位山から分校まで今のような立派な道ではなく山道で、特に寺から九六位山峠分岐点までは人が歩ける程度の道だったそうです。その山道を毎日歩いて通学していたそうです。その後、高学年になり川添小学校に通学するようになりましたが歩いての通学でした。
中学になり、大東中学までは広内に自転車を置き広内から自転車中学だったそうです。
夏場はまだよかったかもしれませんが、5時には暗くなる冬場は小学生の時などは本当に怖かったのではないでしょうか。
残念だったのが通学の状況を聞いただけで、その時の住職の気持ちを聞きそびれたのが心残りです。
今度九六位山に登ることがあればまた住職にお会いしそのあたりを聞いてみたいと思います。
圓通寺略記
紅葉に覆われた秋の圓通寺 (2020年11月29日撮影)
4月、5月の新緑に包まれた圓通寺も味わいがありますが、秋の紅葉の時期の人里から離れた静かな圓通寺もまた魅力あるところです。
<写真クリックで拡大>
《参考資料》圓通寺の縁起の口語訳(「ふるさとの歴史教室 研究小報 第一集」)
〜「ふるさとの歴史教室」『研究小報 第一集』より〜
豊後の国、海部郡丹生・臼杵両荘の境にある九鹿猪山は、古老の言い伝えによると、 昔、聖徳太子の御時、百済の国の修行僧日羅上人が来朝、第32代崇峻(すしゅん)天皇の四年(591)、 この国(豊後国)古国府の円寿寺を開き、毎朝太陽を礼拝していた。 この時、めでた い五色の雲が、九鹿猪山の峰にたなびいてゆったりと流れた。 と同時に、音楽も奏で られ、光の輝きが隅々までおよんできた。
日羅上人は、めでたい五色の雲があざやかに浮かんでいる下には、必ず、真実の道を 得ての変化に通ずる不死長生の人が現れる、名勝の地にちがいないと思った。 或る 日、錫 杖(しゃくじょう 遊行僧が携帯する杖)をついて西の坂よりよじ登り、中腹に至って、その山を見ると、大変高くけ わしく、大木が暗くなる程に茂り、切り立った山が重なっていて、たやすく登ることは できない。 どうしたら登ることができるかと思案していると、不思議なことに、九匹 の鹿と猪が多くの鹿と猪をつれて上人の前に来て、礼拝し、峰に向い走り登ったので、 即時に道が出来た。
上人はその趾を踏み、山頂に登って四方を眺めると、多くの山がまわりに連なり、ハ つに分かれた所が蓮の花の形を表わし、さながら観音の出現した霊地に似て、まことに 天然のよいところで、まさに仏の霊地である。上人は非常に喜んで立ちどまっている と、異様な姿をした人が猪に乗ってきた。
「我は、この山の地主である摩利支天(まりしてん)が、姿をかえて現れたものである。この山を 掌る(つかさどる)のは久しい年月になるが、ここは観音の出現する何とも言えない勝地であり、 竜神の守るしあわせな所である。ここより南西の方向にある奥深い谷に滝がある。その 下は深い渕になっている。水面は丸い鏡のようで、広さは直径三尋(ひろ)半(一尋=1.8mで 6.3m)、だが、深さはどれ程あるかわからない。竜王は常にここに住んでおり、非常に おいしい味をもったこの水は、民をうるおし人々の苦しみを助けている。又西北方向の 多くの山の中に、ひときわすぐれた山がある。これこそ、いっさい衆生の願いをかな えるという不思議な珠(如意宝珠)にょいぼうじゅで、はかりがたいしあわせをほどこす、特にすぐれ た神聖な山(九鹿猪山)である。上人よ、この地に円通尊を安置して、多くの人間を迷 いから救うがよい。」と告げると、にわかに姿が見えなくなった。
その時かおりのよい木で、うぐいすがさえずった。 これはめでたい良い材木である と思い伐りとって、高さ二尺五寸(75.8cm)の千手観音の立像を安置して、九鹿猪山円 通寺と号した。 将来のことを考えて銀杏の実を門前に植え、誓願して言った。
「仏の教えが長くつづくならば、この木は益々栄えよ」と。
その後、仏教の教えをうける弟子俊覚法師をこの地に居住させ、法華の妙法を崇拝さ せたが、代々法灯(ほうとう)の絶えることがなかった。
建久年中(1190〜1199)大友能直公(初代)が大分に居住していた時、祈祷料として 寺領を寄附、さらに大友貞親公(5代)の時代(1300ごろ)、八十町四方の土地の税を免除 し、境内八方四方を区切り、殿堂・多宝塔・鐘楼・山門・方丈ほうじょう(住持の居所)・法堂(僧侶が仏教を講義する建物)に至るまで全部を再建した。ほか十二の坊を建て百名 の僧を居住させ、常に仁王大会(にんのうおおえ)を講じて(仁王経を読誦して)国の安全と繁栄を祈ら せた。 又每年正月、五月、九月の各十八日には、説教の席を飾り祭りを行った。 特 に正月十七日は、徹夜で鬼走祭会<おにばしりまつり>(鬼に扮した者が本堂で大松明を振る)をつとめた。
この日は近くの人はもとより遠方からもこの会に参加、その数は数万人に及んだと いわれる。 この法会に参加した者は、「無病息災の霊験あらたか(ご利益が著しい)」 というのである。 当時の人々は一番が九鹿猪、二番が霊山、三番が神角で、これを豊 後の三大寺と称し、この九鹿猪を最も崇敬した。 この山には、年数のたった古木が暗 くなるほど茂っているので、黒越山(くろごしゃま・くろごえやま)ともいった。
そして本尊の威光がますます盛んにひろがり、不思議なしるしが多く現れるので、善 男善女が日夜参拝し、身分の高い人も低い人もみんな願望を成就するように祈った。
しかし大友義統公の時代の天正十四年(1586)冬十一月に、薩州の島津義久がこの国 (豊後国)に攻め込み、この山も又陣所となり、戦火でお寺の本堂や塔が全焼、この附 近一帯は荒野となった。 ただ上人が植えた銀杏の大木五、六本残すだけであった。
その後四十七年を経た寛永九年(1632)、私の祖父の量海法師が大野郡野津院藏園村 に居住時、正月十七日の夜、夢の中に赤い衣を着た人相の違う僧が出て来て告げるには、 「これより北方五里(20km)の所に山がある。その大本の洞穴の中に観音さまがまし ます。これはその昔、百済の国の日羅上人が彫刻されたものである。お前はこの地に以 前からの因縁があるので、急いで行って再興するがよい」と。
量海は、多福寺(臼杵市)の雪窓和尚を通じて臼杵城主稲葉一通(かずみち)公の許しを得て、同 年三月十八日、九鹿猪山に登った。 大樹の洞中を見ると、不思議なことに、夢に見た 観音尊像が厳然として存在している。 量海は喜び、うやうやしく礼拝したうえ、やぶ を拓き、さらに 志 をはげまし(奮い立たせ)、信者から寄附を募り、草ぶきの御堂を 建てて観音像を安置した。 側に二院を建て、同十九年(1642)正月二十一日、家族二 十五人をつれてこの地に移住し、仏教を豊後の一隅に輝かすことができた。これによって九鹿猪山は、再び国家を護り、災を払い、福を招くための神聖な場所となった。
その後万治三年(1660)、量海の後継ぎ清雄法師は、江戸で領主稲葉信通(のぶみち)公に観音堂 の改造を願い出て、木材をもらいうけ、四間に四間半(7.3mX8.2m)の御堂をつくり、 かやぶきの屋根を瓦葺きに換えた経堂(きょうどう 寺院で、経典を納めておく建物)が出来上がると、りっぱな眺めとなつた。
寛文二年(1662)の春三月のよき日には上棟式を行い、観音像をここに移し、修行道 場を飾り供養した。 同五年(1665)清雄法師が江戸にいる時、牧野飛守某(なにがし)公が後 継の男子がいないのを悲しみ、清雄に男子出生を祈らせた。 清雄は、江戸から遥か九 鹿猪山の観音像に祈ったのである。奥方は程なく懐妊し、月みちて男子が生まれた。
この男子は後に駿河守某(なにがし)公と称した。 その報酬のため、黄金若干を贈り、かつ寺院 の釣鐘を寄進した。同年十一月鐘ができた。鐘の銘文は多福寺の賢厳禅師がっくっ た。 この時「九鹿猪」の文字を「九六位」と改めたが、語源は鐘の序文によったもの であると。 私は今年六十一歳、九六位山の昔の事を古老に聞いて、これを書き記し永 く後の世に伝えるものである。
この時元禄三年(1690)庚午(かのえうま)春三月鬼宿日(きしゅくにち)(吉日)
九六位山中興二代 量辺 ここに誌す(しるす)
九州西国十番札所
九六位山円通寺ご詠歌
くらいやまのぼるにつけてむらさきの
くものむかえをいっかとぞまつ
最後に。 九六位山賛歌
この九六位山賛歌がキャンプや初日の出の日などに歌われているそうです。
この作詞をしたのが首藤安男さんです。そして今回の研修の現地案内をしていただきました。
(首藤さんは歴史教室に15年以上参加されています)
今日も展望台でこの賛歌を全員で合唱しました。九六位山をよくあらわした素晴らしい歌詞でした。また、初めての私達でもすぐに歌えた良い曲でした。