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※鶴瀬、丸亀地区の石垣の追加理由
週間ランキングを見ていると、☞[洪水の歴史と対策 (高田輪中 石垣)]が出ていました。ちょっと見てみると何か違和感を感じ、何だろうと考えてみました。
それは、鶴瀬、丸亀地区が出ていないことです。昭和18年の大洪水で鶴瀬、丸亀地区の写真をよく見かけますが、常行、堂園の方が石垣においては目に留まります。
今回、また写真撮りに行ってみると、他の地区に比べ比較的石垣が低い気もしました。どうしてだろう、と私なりに考えてみました。
ここからは私の私見ですが、前にも書いたのですが☞高田の堤防は昭和30年ごろまでは高田橋から下流はないか、あっても低かったと言われています。下流側の流域面積を広げ、全体で水位を低くしていたのではないでしょうか。
それに対し、上流側はしっかりした堤防で保護され直接の被害は(昭和18年の水害はありましたが)少なかったのではと考えたりもしました。ただ、写真を撮りながら考えただけの戯言です。
鶴崎公民館 完成記念講演より
歴史には正解がありません。そして間違いもありません。
歴史には想像力、イメージ力が必要です。歴史は知識ではなく、考えるプロセスです。
広い世界観を持って歴史を見つめてください。
洪水の歴史と対策 (石垣による対策)
高田輪中
大野川本川と乙津川に囲まれた高田地区は輪中を形成し、洪水の常襲地帯だった。そこで、住民たちは、屋敷を石垣で高くし、家の周囲をクネと呼ばれる防水林で取り囲み、洪水の勢いを弱め、家屋の流失を防いでいた。洪水が去ると、上流から運ばれた肥えた土が積もり、豊かな土壌で農業を営なんだ。このように「高田輪中」は洪水を受け入れ川と共存する文化を創り出していった。