高田長寿会第三部会では先月に卒寿を迎えた高田浩己先生の誕生日祝いを行いましたが、今月の長寿会定例会議で記念の集合写真を撮影しました。
この卒寿の記念に何かないかと探したところ、30年以上前に「高田ふるさと講座」で、高田の刀鍛冶について寄稿されていました。また鶴崎公民館で行われている「ふるさと歴史教室」で高田の刀鍛冶について講演され、その記録が研究小報 平成19年第25集に掲載されていたので、今回高田先生の承諾をいただき、ここにアップしたいと思います。

高田の刀鍛冶について〈高田 浩己〉 平成19年「ふるさと歴史教室」講演より

I  高田鍛冶の祖 


豊後刀を代表する高田の刀鍛冶の祖紀新太夫行平は鎌倉期の屈指の名匠です。 高田村志には次のように書かれています。 「その作中1振は帝室の御所蔵にかかり、(中略) 明治天皇御遺愛の御物なりと承る。 (中略) その他行平の名作として知られたる者には、閑院宮家伝来の利目丸、赤松氏重代の桶丸、日光東照宮に所蔵さるる者等あり。」

👉「高田村志」紀行平


行平は建久7年大友能直が豊前豊後の守護職として当国へ下向した際つき従ってきたとされ、(建久7年ではなく正治元年の説もある) はじめ国東の千燈というところで刀を打っていました。
現国東市国見の行平幸司氏宅には行平の使っていたとされる鞴(ふいご)がまつられており毎年2月には鞴まつりを行っています。 また、杵築城主松平公が家督を相続された折お国めぐりなるものをされ、駕籠を止めて行平の鞴を見られ敬意を表されたといいます。そのとき松平親良公の御側近く御奉行申し上げこの日お供にも加わり現状を目撃した故前田壮左衛光重の実見談があります。(内容略)

この後行平は豊府に移り暫く住んだあとに我が高田の旧関門村に来たといわれています。 行平の鍛刀の相槌をうちに来た鬼が一夜のうちに掘ったとされる {鬼の井戸} の伝説が残されていますが、残念なことにその井戸は昭和50年代に埋め立てられ姿を消してしまいました。

👉「高田村志」第四章5 鬼の井戸

👉鬼の井戸伝説

行平の伝記中最も光彩のあるものは、 承元2年(1208年)御鳥羽上皇が諸国より刀工の名手を召し、院内において刀を打たせたとき、 行平は24人御番鍛冶の1人に加えられたことで、備前の国長船一派の近房とともに4月の当番を務めたことです。建武 (1334年~1337年)の頃藤原友行という名工がでていわゆる 「高田物」 といわれる刀の基を築き中興の祖、 高田物の祖といわれました。

Ⅱ  高田鍛冶の二派


高田の鍛冶は大きく2つに分けられます。 大友家に仕え活躍した「平高田」 「藤原高田」です。平高田の刀匠は、平長盛をはじめとする名工も多く長盛、春盛、安盛、盛秀、盛鎮、盛家など 「盛」の付く刀工が多い。 一方藤原高田は統行、 貞行、 忠行、正行など「行」の付く刀工が多い。
 平高田は大友家が滅んだ後どうなったかは謎で、その後殆ど平高田としての活動がみられません。 しかし、現存する刀は多く、刀展ですばらしい刀を観賞できることは幸せなことです。

👉県立歴史博物館〈豊後刀展 紀行平・高田鍛冶を主に展示〉

 藤原高田は大友家が滅ぶと熊本藩に仕え、藩の庇護のもと大いに栄えました。 藤原高田も平高田に劣らず名工が多く、 貞行、 統行、行長、忠行、 輝行等々がいます。一般に、慶長以前の刀を古刀、 それ以降の刀を新刀と大きく分けられますが、平高田は殆んどが古刀に属し、 藤原高田は新刀が圧倒的に多いようです。 ちなみに、高田村志に記載されている刀工のうち
古刀の部156人中    平高田 97人、
     藤原高田26人、
         その他7人 不詳 26人

新刀の部 91人中
平高田 2人
藤原高田78人
不詳 11 人

以上の通りです。

Ⅲ  高田鍛冶の扶持

熊本藩細川家に仕えた藤原高田は藩から扶持(ふち)を受け幕末まで栄えました。(以下新刀藤原高田について述べます。)
 扶持米は行平直系といわれている忠行家が10人扶持、 そのほかは4人扶持または3人扶持でした。1人扶持とは、1人1日米5合として365日分を拝領するものをいい、お金に換算し年3回(春夏冬)に分けて支給されていました。 分けて支給されていたので、これを 「切米」 と呼んでいました。 換算はそのときの蔵米の値段を持って決められていました。(資料1参照 省略)
 扶持の審議は選挙方と呼ばれる役職によって行われ 「細工の優劣によって詮議におよび仰せ付け筋之有候条~」とあり、減額されることもありました。
 刀鍛冶は鍛冶の修行もよくしています。 たとえば、 藍沢嘉次郎直国は27歳の時熊本に赴き、 沼田直宗の門に入り、 文政9年から12年までの4年間と天保元年の都合5年間備前流の鍛錬を学んでいます。 そして「焼刃土附備考」 の秘伝1巻を直宗から伝授されています。

Ⅳ 刀鍛冶の生計(収入)


1・ 扶持拝領
2・ 藩からの命により鍛刀
熊本城天守閣の御備え刀を命を受けて打ち、 献上し白銀(銀を九cmほどの楕円形に伸ばしたものを紙に包んだ贈答用のもの)を拝領しました。また、鶴崎御茶屋の備刀も献上しています。そのほか、 細川家に祝いごと (例えば藩主が家督を相続したとき、若君の誕生、結婚など) があったとき刀や槍などをお祝いとして献上し白銀を賜わりました。
3 ・注文打ちその他
武士から注文を受けて刀を打ったり、時には神社・仏閣からも注文を受け奉納することもあった。 また、注文打ちではないが、参勤交代などで高田を通過する折、藩士が高
田物を買い求めることも多かったといわれています。
4 ・農具製作
刀だけでなく農具も製作しており、 これは随分家計を支えていたようです。 近在は勿論、遠く熊本や延岡までも売りにいっていたと伝えられています。 高田手永惣庄屋から同
手永奥在八ヶ村へ、 農具を仕込にいくのでよろしくと各庄屋にお願いしている文書があります。
(資料2 参照 省略 )
5・出職
高田正次(藤原高田は藍沢姓が多いが、 藩より高田の姓を拝領して鍛冶職としては高田を名乗っていました。 もっとも、刀の銘には藤原、 高田、 藍沢の何れかを切っていた。) が甥徳次郎の戸次門前村 (もんぜむら) への入職について郡代に願い出た文書があります。 高田鍛冶筆頭の高田勝衡が高田鍛冶を代表して添え書きをしています。(資料3参照 省略)
この外にも高田正寿が、 「同職者が5人もおり刀の注文もなく農鍛冶も多いため農具を作っても仕事にならないので大変難渋している。 熊本城近在に出職させてほしい」と願い出た文書もありますが、 実現しなかったようです。
6 他藩が召抱え
刀鍛冶が家督を継ぐ前に他藩に召し抱えられる例はよくありました。佐伯の毛利、玖珠の久留島、 杵築の松平など扶持を与えて召抱えています。 大抵は高田に帰って家督をついでいますが、 中には高田正行(喜平治) のように松平氏の御用鍛冶として生涯を終わった人もいます。

V  士族としての刀鍛冶


1 ・郡代直触
高田風土記の関門の項に 「~地侍壱人 郡代直触の刀鍛冶六人本村に雑居す。」 とあり、士族としての身分であったことが分かります。 郡代直触 (じきぶれ) とは、 郡代から直接触れを受ける身分をいいます。
2・破牢詮議
武士として、 牢破りした品吉なる男を詮議のため府内より横灘 (現別府)まで差し遣わされた。 品吉は大変強力のもので、( 資料4 参照 省略 )
3度も牢破りしたらしい。
そのほか、牢番を仰せつかったことも記録にあります。
3・ 京都
藍沢軍平は幕末騒乱の時期に京都詰 (御所警備か?) を命ぜられています。 このほかに、「若殿様御下国之節御用仰せ付けられ御茶屋御番所相勤め申し候」(高田直国)などの文言が散
見されます。
4 ・武術修練
・毛利空桑門人名簿に刀鍛冶の名前が散見されます。
・高田直国が郡代あての経歴報告のなかに、「三破神伝流渡辺源之允門人罷成 稽古仕候処、 文政13年12月 出精仕候に付、小筒口決之巻相伝仕候」とあり、また 「天保4年12月右砲術心懸能出精いたし、8歩以上中りに付賞せられ、鳥目5百文拝領なされ候」 と記されており、かなりの腕前だったらしい。
・以上のほかに新陰流の巻物等もありますが、 誰が受けたものかはっきりしません。

Ⅵ  原材料の調達


刀製作に必要な材料の主たるものは砂鉄と炭で、砂鉄はこれを溶かして原材料となる玉鋼(たまはがね)をつくります。 炭は、 松炭を使うそうです。残念なことに、これらをどこからどのように調達したのかについての記録はほとんどなく、諸条件を勘案して想像するしかないのが実情です。ただ、市郎右衛門 (藍沢正寿か?) が関手永神崎のみなと川鉄砂を発見し、ためし吹き (試しにタタラで精錬) したところ、4百目ほどの小玉ができたので、次右衛門殿 (役人 ?庄屋?)にお見せして、鶴崎お役所へ報告した。 お役に立つことを日夜願っている。 (資料略) という記録があり、 小さな神崎の川の砂鉄に目をつけたくらいだから、 大河大野川からは取り尽くすほどの砂鉄を取っていたものと推測されます。
 炭については、農具販売等でたびたび行き来のある同じ高田手永の奥在の村々 (資料3  省略) から調達したのではないかと思われますが、 あくまでも私の想像です。 刀を一本作るのに普通炭を凡そ10俵ほど使ったそうです。

Ⅶ  刀の製作にかかる費用


鶴崎町史によると嘉永6年に高田五郎藤原清信が鶴崎法心寺の清正廟へ刀を奉納しています。 「36 日潔斎して之を鍛う」 とあります。長さ3尺4寸6分、 厚さ4分、 掛目5百30目ですからかなりの大刀です。清信はこの太刀の刀身を除くすべて) のみで5百 5拾3匁を仁兵衛という人に支払っています。 当時1匁が約4000円とすると、 2,212,000円になります。 奉納刀ですからかなり立派なものにちがいありませんが、 以上のほかに刀を打つための原材料(玉鋼や炭その他) を加えるとかなりの額にのぼると思われます。

Ⅷ 刀鍛冶としての連携


藩より天守方御番刀鍛方を仰せつけられた際、 刀製作に当たってどのように作るかを細部にわたって話し合い取り決めをしています。 たとえ高田古伝をもって打ち立てること、見かけより堅固を第一に。 長さ、 反りはこれくらい。 銘はどのように切る等々細かく取り決めていますが、 特に注目に値するのは、 鍛え方出来焼刃 (最後の焼入れ) する以前に勝衡 (高田鍛冶長老)に見せ指図を受けることになっている点で、 高田鍛冶が一つになってよい刀を献上しようとする心意気が感じられて興味深い。
この取り決めは書状として郡代に差し出しています。(資料5 省略)

この外にもいくつかの例がありますが割愛します。

Ⅸ 刀の試し切り


熊本城内で高田鍛冶6人 (藤原勝衡 ・ 久行 ・ 忠光則平行秀・直国)の刀の試し切りをしておりそのときの切れ味を御具足支配役の成松長兵衛という人がこと細かに書き送ってきています。 資料6はその一部分です。 豊後刀は、 折れず、 曲がらず、よく切れるを特長としていますが、 まさにその面目躍如たるものがあります。(資料6 略)
 他に一通、左平太という人が毛利空桑あてに送ってきた手紙もあります。 どの刀もたいへんよい切れ味であったと誉めています。

X  行平の追善供養と大乗妙典塔



藍沢正次 (高田市郎右衛門) は高田鍛冶の元祖紀新太夫行平の追善供養を行おうと思いたち、 宝暦10年(1760年)3月16日、鶴崎東厳寺において大施餓鬼会を執行しています。 また、 それより 34年前(行平没後500年) に行平追善のためと思いたち法華経一部書き調えて永志庵の地に自然石で大乗妙典一字一石塔を建立しています。 現在もこの塔は関門に残っています。

※高田はキリシタンが非常に多く、 刀鍛冶も例外でなくある時期まではほとんどキリシタンだったようです。 そのため、 キリシタンに関する調書を毎年郡代あてに提出しています。 また、疑われて死体改めを執行された人もいます。 (資料7・8)

以上高田の刀鍛冶について特にテーマも設けずあれこれ申しましたが、要は高田の刀鍛冶について大まかなイメージをもっていただくことができればよいと考えました。 なお不勉強な点が多々ありますので、お気づきの点があればご指摘の上ご指導いただければ幸いです。