<メモ> 楽しく過ごして脳をいきいきとする方法

薬局に行ったときに、健康についてのアドバイスを書いたパンフレットをもらいました。その中に、脳をいつまでも若々しくするにはと言ったコラムがありました。高齢者に該当する我が身にはなかなか面白かったのでそのその一部を載せたいと思います。なお、項目だけを載せているのでどのようにするかは各自で判断してください。

  1. コミュニケーションをとる。(愉しくおしゃべりをしよう)
  2. 有酸素運動をする。(頭と体の体操をしよう)
  3. 趣味を楽しむ。 (好きなものから挑戦しよう)
  4. 食事に気を付ける。(脳によい食材を積極的に取ろう)

<高田を歩く> 新中島橋関連の仮設工事が行われている。

<2023-09-20>

国宗の新中島橋の予定個所で仮設の工事が行われている。工事看板の内容から市道 (東鶴崎下徳丸線)内に埋設されている工業用水(住友化学へ)の埋設管の移設工事のための迂回用仮設道路工事を行っているようである。
埋設管をどう移設するかは不明。仮設道路が10月末までかかるので移設工事はそれからであろう。

<高田を歩く> ドラックモリ 外構工事が完了し内装、商品搬入に。

<2023-09-19>

春から工事をしていたドラックモリも外構工事(建屋、舗装等)が9月いっぱいで完了し、10月末の開店に向けて動きが活発になっています。

<高田を歩く> 秋分を前に彼岸花を探す

<2023-09-19>

例年では秋分前には彼岸花の花があちらこちらに咲いているが、今年は高田中を探し回って群生していた個所はここだけだった。
<関園 昭和井路沿い 9月19日>

<敬老の日> 高田の100歳以上は6人です。(R5年8月現在)

<2023-09-16>

高田地区の100歳以上の方は6人です。残念なことにすべて女性で男性はいません。
われこそは、と男性の方100歳以上を目指してください。
 ただし、95歳~99歳の予備軍は30名ですが、申し訳ありませんが男性は1名のみです。
男性陣頑張りましょう。
なお、100歳以上を記念して名前の公表を検討しましたが、名前は今回未公表とさせていただきます。

高田地区100歳以上の人数
自治会男性 (人)女性 (人)計 (人)
鶴瀬自治会000
亀甲自治会000
上徳丸自治会0
下徳丸自治会0
南自治会000
常行自治会0
関園自治会0
堂園自治会000

高田の歴史と地理  高田の標高と他地域との比較

<2023-09-14>

高田に人が住み始めたのはいつからなのだろう。高田周辺にも丹生遺跡(EL=80m付近)、横尾遺跡(EL=30m付近)があることから石器時代、縄文時代から人は住んでいたのは間違いない。しかし、そのころは高田は海の底だったのだろう。それを調べているうちに周囲との標高差が気になり、まずは標高を調査してみた。その標高をみると、昔から松岡の成松、毛井から高田にかけて洪水に見舞われてきたことがよくわかる。

高田の民話 「堀切」

(2023-09-13)

以前、高田の民話として数作を当HPにアップしたが、この度ふるさと講座の中で新たに数話の民話を見つけた。
 これらの民話は昔からあったのか、ふるさと講座の関係者が過去の話などから創作された民話なのか不明である。
このような話もある、ということで読んで頂きたい。



昔、天正年間の頃、大友氏が豊後一円を治めて鶴崎城を出城とし、吉岡氏を城主にしていたが、天正十四、五年薩摩の島津軍と戦い、戸次川原の合戦で敗北し、僅かの手勢で鶴崎城に立てこもることになった。そこで島津の大軍を防ぐのに急遽大堀を掘ってその進入路にあたる現在の鶴崎、高田の境に大野川と乙津川をつなぐ堀を完成した。
 十間に及ぶ幅と五間程の深さに水を流し柵を張り、人間業では到底渡って攻め入る事は出来なかった。勝ち戦で勢いづいた島津軍もこの堀切りにはどうしようもなかったが、遂に近郊の農家の牛馬を狩り集め、これに土俵を乗せ夜陰に乗じて、たいまつの火で追い立て追い立て、この堀に追い込んで遂に牛馬の屍を以て埋めて鶴崎城に攻め入ったと言われている。この堀、丁度薬研に似ているところから一名薬研堀とも云われた。島津軍は此のあと寺司川原で散々な目に会って薩摩に逃げ帰ったと伝えられている。
高田の農民達は工事には働かされ、島津軍に牛馬は取られ、苦しい生活であったとか。火の玉が出たとか云われた淋しい堀切の地名も聞かれなくなりました。

注1) 豊薩戦争
     豊札戦争は、天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけて行われた豊後国の大友氏島津氏とのあいだ
     の戦争である。
注2) 薬研掘り 
     の形状の一つで、薬研のごとく断面がV字形になっているもの。


👉鶴崎と高田の境界

 江戸時代の高田の道路 

ふるさと講座の資料に江戸時代末期の道路の位置図がありました。
現在とは違って、大野川、乙津川寄りの上下に別れています。それぞれが「渡し」につながっていることと関係があるかもしれません。
現在でもその道路は残っています。ただし、関門から堂園にかけての一部は堤防拡幅工事に伴いその下に埋まってしまったようです。
 この地図を見ながら現在のどこを通っているのか想像してください。

これを機に高田の道路の歴史をたどってみたいと思います。

 校区自治会公民館の落成は?  

投稿日 2,023‐08‐07 

  • 鶴瀬公民館       昭和59年(1984年)  鶴瀬公民館ができる

  • 亀甲公民館      昭和44年(1969年)  亀甲公民館ができる

  • 上徳丸公民館      昭和42年4月(1967年) 上徳丸公民館ができる 
       〃        平成5年(1993年)   新上徳丸公民館ができる  

  • 下徳丸公民館      平成7年(1995年)   下徳丸公民館新設
  • 南公民館        昭和51年(1976年)  南公民館ができる。

  • 常行公民館       昭和31年(1956年)旧常行公民館落成式
                平成31年(2019年)  新常行公民館竣工
  • 関門公民館       昭和36年(1961年) 関門公民館落成

  • 堂園公民館       昭和51年(1976年) 堂園公民館ができる
                 平成21年(1979年) 新堂園公民館竣工


          

高田公民館  平成10年  平成10年(1,998年) 高田公民館大字南に新築移転

 9月1日は防災の日 その2  

<2023-08-31>
あす、9月1日は防災の日です。高田校区自治会では一乗寺で水難者慰霊祭が行われます。かってアップした《豆知識》防災の日 を再度アップしたいと思います。

《豆知識》防災の日 
 どうして9月1日が防災の日に制定されたのでしょうか。それにはいくつかの理由があるそうです。

  • 1923年(大正12年)9月1日(土)に発生した関東大震災にちなんだもので、関東大震災の教訓を忘れないように制定した。
  • 防災の日は昭和35年(1960年)に制定されましたが、前年の昭和34年9月26日に明治以降最大の被害が出た伊勢湾台風があり、このことが不十分であった防災対策を見直すきっかけとなり、次の年に防災の日の制定につながったと考えられます。
  • 古くから伝わっている台風被害の多い時期の『二百十日』は立春から数えて210日目にあたり、9月1日前後になります。

9月1日を含む1週間は「防災週間」になりますが、高田地区も高田校区自治会が中心になり、平成15年から高田で発生した洪水で亡くなった被災者の慰霊とこれからこのような被害にあわないよう水難慰霊祭を行っています。

なお、今年は昭和18年9月20日の高田水害から80年になります。

 9月1日は防災の日 

<2023-08-28>

「防災の日は、広く国民が台風、高潮、津波、地震等の災害についての認識を深め、これに対処する心構えを準備する」ために制定された防災啓発デー。日付は9月1日 と定められています。
高田校区でも、毎年、鶴瀬の一乗寺で水難者慰霊祭が開催されています。

9月1日は 防災の日 <1927年(99年前)の9月1日に関東大震災が発生しました>
8月30日から9月5日 までの期間は防災週間です
9月は防災月間    災害の多い月のため

👉昭和18年9月20日高田水害
👉昭和18年鶴瀬堤防決壊時の写真

昭和18年9月20日 高田水害時
現在 令和5年8月22日撮影
水難者慰霊祭 令和4年9月1日

 ドラッグストアモリ関園店

👉ドラッグストアモリ地元説明会

関園にできているドラッグストアモリ関園店が10月下旬の開店に合わせ一気に姿を現してきました。散歩しながらも気になっていました。

2023年8月16日撮影

2023年5月15日 整地完了

 昭和18年水害 水難者慰霊碑の碑文 昭和30年建立

9月1日は防災の日になります。高田自治会ではその日は一乗寺で水難者慰霊祭が行われます。
今回は、その昭和18年の慰霊碑の碑文をアップしてみたいと思います。

18年慰霊碑正面

昭和18年慰霊碑(右)

昭和18年慰霊碑(左)

昭和30年2月建立

 水難塔<水難者慰霊碑>   (鶴瀬)得丸嘉平氏投稿記事

2023-08-21

<平成15年7月高田公民館だより>に鶴瀬の得丸嘉平氏が水難塔<水難者慰霊碑>について寄稿されていました。
高田自治会では毎年、9月1日に一乗寺で水難者慰霊祭を行っていますが、今年も来週(9月1日)一乗寺で水難者慰霊祭が開催されます。それに合わせ、得丸嘉平氏の寄稿をアップしたいと思います。平成15年に水難者慰霊碑の修復整備が行われたそのお礼だと思います。

平成15年7月高田公民館だよりの記事から

この度校区自治会、及び校区社協が、 水難塔修復整備に取り組んで下さいました。加えて筒井元生さんの御厚意により、 今までとは見違えるほど、綺麗に整備されました。 水難塔がどこにあるのか、又どういういわれのあるものか、ご存知ない方も多いと思います。
場所は亀の井自動車学校の前から、鶴瀬に入ると、一番先に目に付く所です。高田は岐阜県の木曽三川と並ぶ、日本2大輪中と言われています。 高田天災記録によれば、慶長6年より36回、 明治になってから今日まで20回と、度重なる水害の被害に遭っています。 特に明治26年10月14日の未曾有の大洪水では、家屋流失93戸、溺死者84名、 耕地の荒廃219 町歩に達し、当時の村民の復興に対する苦労は、並大抵ではなかったでしょう。
 又、昭和 18 年 9 月18日の大水害の際は、鶴瀬の堤防が決壊、 高田全村が浸水しました。 溺死者18名、この中には小学生4名の幼い命も含まれていました。 流失家屋32戸、家畜流出 24 頭、 耕地の荒廃100町歩と言う被害状況でした。
 この様に水難に遭われた方を慰霊するために、明治の水難塔は、堤防の上に建てられていましたが、昭和18年の水害で流失していたのです。 昭和18年の水難塔は、昭和30年現在地に、当時の村長他有志の方々により建立されました。 昭和52年に、鶴崎自動車学校の御厚意により、流失していた明治26年の水難塔も、隣に再建されました。 又この度、この様に立派に整備して頂いて、大変有難く思います。
 災難は忘れた頃にやって来るといわれます。 これを機会に、 今一度、地域民の皆さんも、防災意識を高め日頃の備えを見直してみては如何でしょうか。
機会があったら、是非この水難塔 (慰霊碑)にお参り下さい。

水難慰霊碑の配置図

作成中

<今日は何の日>  本場鶴崎踊りが開催されます

8月19日(土)19:00~20:30分  21:00~花火大会(30分ほど)
会場は昨年(鶴崎グラウンド)とかわり、国道197号線(鶴崎駅前~中鶴崎二丁目交差点)
高田校区も本場鶴崎踊り大会に「高田おどり隊」として出場しました。

👉令和5年度 高田おどり隊


<今日は何の日>  4年ぶりの校区合同慰霊祭が開催

今日、8月18日高田校区合同慰霊祭が高田校区公民館で開催されました。
10年ほど前に開催された慰霊祭と今年開催された慰霊祭、写真で見る限りではほとんど変わっていません。
ふと、中国の詩人の詩を思い浮かべます。『年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず

10年ほど前の2012年8月18日に開催された慰霊祭と供養盆踊りです。

「知っていますか。」高田の面積

 <令和5年8月17日(木)>

高田村志に「東西の復員、 最も広き処にて凡13町、 南北の延長凡25町にして、 面積358 町7反8畝21歩 (0.23万里) あり。」 と記されている。



・長さ
   1町  109m強

   東西13町  10 9X13= 1417m
   南北25町   109X25 ⁼2725m


・(広さ・面積)
   1町   0.009917km2

        358町 = 3.550286km2

   1反  0.0009917km 2
   7反⁼0.0 069 419 km 2

   1坪 0.0000033km2
           8畝21歩=261坪 = 0.0008613km2

高田の面積は
         358 町7反8畝21歩=3.5580892km2

         凡3.6平方キロメートル