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※これからは極力意訳を少なくし、本文を尊重したものにしたいと思います。文語体では表現できない言葉の味わいが表現できると思います。
 また、全て載せることはないと思う部分もありますが、できる限り歴史資料として残していきたいと思います。

第八章 學校

2・沿革

開校

明治六年八月十五日上徳九中村壽八郎の家塾明倫堂を村にて継承し、同所中村半次郎の屋宅を借り借入れてここに移し、旧塾名に因み明倫學校と命名して開校したのが本村 村立學校の始まりとす。 是より先前年八月に学制の頒布(はんぷ)があり、これに基づき本県ではこの年三月学区を管理する部署を置いて、小学区ごとに一小学の設立をすすめることがあったので、本村においても之にしたがい、ここに村立學校の開設を見るに至りしものとなった。こうして學制の頒布があってから一年、県当局の勧めがあってから僅か半年でその実現を見たのは、ひとえにその年の本村戸長であった得丸貞俊を始め、前明倫堂主中村壽八郎、其の他好學の中村半次郎、中村默二、岡松松五郎諸氏の熱心なる尽力の結果にほかならず。
 

下徳丸移転

※明倫学校⇛明治學校⇛高田小学校

然るに開校後二ケ月にして、不幸にも洪水のため仮校舎が災害を蒙り、従て一時閉校も止むなきに至りしが、再び前記諸士の斡旋によりて、下徳丸村字沖小路平井改四郎宅に移転の運びとなり、翌七年二月上徳丸より此處にうつりて開校したり。
此の頃にありては明倫學校の名称は廃せられて、年号に因み明治學校と称せしが、翌九年十一月二等授業生服部小六当校在勤の任命を受けて着任したる頃には、更に高田小學校と改称されていた。このように校名の変遷するに伴ひて、内容もまた改進するところがあったが、ただ校舎のみは依然として当初のままであった。

校舎新築

沖の小路の借宅に在ること凡そ六年。此の間に於て明治十年八月服部授業生転任し、七級訓導藤澤一二本校在勤となる。同氏は着任以来校舎の不備不便なるに省みて、専らこの改築の事に力を注ぎ、その時の当學区取締たる巡回教師上田佃並に村有志者と相謀るところがありしが、奔走の効があり、遂に明治十二年に入り此の議ようやく熟するに至れり。是において先づ校地として同じく下徳丸字屋敷中村多蔵の所有地六畝歩を四十二円にて買収し、次で三佐村字家島に在りし旧臼杵藩倉庫を購入して、校舎に適する様その設計を改めて建築することなり、同年三月より工事に着手し七月に至りて竣成す。 長さ八間半横四間半瓦葺二階建 玄関付きにして、中に教室四個を有し、その当時にありては、近郷に稀なる校舎として推奨せられたりという。この建設に要せし工費は三百四十五円六十三銭なりしが、この経費は明治六年六月以降毎年文部省より配附ありたる小學補助金の蓄積を以て支辨(しべん 金銭を支払うこと)したり。

現在位置

かくて八月一日落成式を舉行して、沖ノ小路の旧校舎よりここに移転せしが、是れ実に常校が現在の地に位置を占むるに至れる端緒(たんしょ 始まり)なり。然れども遂年(ちくねん 歳を重ねるごとに)教育の普及に伴ふ就學兒童の増加は、明治十六年末において其の数二百五十四名(男百八十八名、女六十四名)に達して、この校舎狭隘(きょうあい 狭いこと)を告ぐるに至りしかば、明治十七年夏に本校舎の東側に長さ三間半横三間の平家一棟を増築せり。これに要したる費用三十五圓五十錢は、時の戸長中村黙二、本校在勤三等訓導村田甚三郎、學務委員小手川莊一、世話掛岡松松五郎諸氏の発起にて成りし寄附金を以て充てたり。

奨励品受領

此の年十二月学事奨励品付与例に基き、文部省より左記の通り奨励品の授与を受く。

大分縣大分郡二十二番學區
村立高田小學校

三等奨励品目錄之通り付興候事
明治十七年十二月十五日   文部省

物理機器     壱個
庶物標本     壱個
地学用具     壱個
本朝通鑑     壱部

按(あん)ずるに學事奨励品付輿例により、本県下五百六十四の小學校(外に分校六十七校あり) 中の付輿を受けしは、當年六月に於て初めて十一校あり。次で今回本校と同時に授典を受けしもの他に三校ありて、通算するも僅に十五校に過ぎず。以て本校が輝下に於て屈指の小學校たりしを見るべきなり。

高田尋常小学校

※高田小学校⇛高田尋常小学校
※明治26年の大水害  水難横死生徒之碑の建立

明治二十年四月一日改正小學校令の実施に従い、当校は高田尋常小學校と改称することなる。時の在勤訓道は前記村田甚三郎にして、現時なお使用している号報鐘も亦此の年の新鑄にかゝるなり。次で訓導佐藤圓平本校在勤の時代、二十一年度に於ては當校卒業生の爲めに温習科を設置し、二十二年度には女子の爲めに裁縫科を加設せり。 二十三年七月鶴崎高等小學校訓導有田兼人本校訓導に 任せられて来り、二十五年十二月再度の改正小學校命の実施によりて、本校訓導兼
校長に任せらる、 是に於て本校はじめて校長の職あり。翌二十六年十月十四日に於ける当地方未曾有の大洪水に際しては、浸水本校舎の階上一尺に及び、設備の図書、器械器具、諸表簿等悉く流失するの不幸に遭遇せり。いま、校内東隅に建てる水難横死生徒之碑は、実に当年の大洪水を記念せるものなり。

阿部校長

※寄付金でオルガンの購入・ 2500円の寄付金で校舎増改築を行う。

明治三十一年四月、北海部郡佐志生尋常小學校訓導阿部順雄、本校訓導兼校長として着任し、翌三十二年村長中村四郎と共に、村有志八十六名に寄附を仰ぎて風琴(ふうきん オルガン)一臺(台)を購入す、現在使用しているものが即ち之なり。三十三年九月始めて補習科を設置すると同時に、前年より企図(きと 計画)中に属する校舎改築問題も、此の頃に至りて畫策(画策)成り、寄附金の募集に着手せり。かくて凡そ二千五百圓の醵金(きょきん 何かをなすために金を出し合うこと)を見るに至りしかば、翌三十四年三月敷地を七百二十坪に拡張して改築の工を起し、工事中興聖寺を借りて借校舎として旧校舎を解体し、その跡に長さ十四間半橫三間牛の二階建六教室を有する一棟を新築したり。起工後百四十日を要して七月竣成し、同月三十一日縣知事大久保利武郡長、挾間重亞、郡視學指原時次郎、其の他新聞記者、部内各町村長並に學校長等多數臨場の下に、盛大なる落成式を行せり。是れ今の東校舎にして、之が工事に関しては村長中村四郎の盡力(じんりょく)じつに至大なるものがありき。翌年十月本縣より左記の通り表彰せらる。

賞金受領

大分縣大分郡高田尋常小學校
賞金受領
教育資金使用規則第八條ニ依リ金五拾圓賞典ス
明治三十五年十月廿四日
大分縣


本文面により常時の教育資金使用規則(明治三十三年五月二十九日大分縣令第二十號) 第八條を参照するに、本校は成績優等なる町村立小學校として表彰された
るを知るなり。蓋し(けだし 思うに)前年に於ける校舎の改築に力ありしが如し。而して本村に基本金は此の受賞金を基金として、學校基本金の蓄積を企て、翌三十六年度より毎年村経常費中より 拾五圓宛(ずつ)を支出編入することとし、爾来(じらい それ以来)今日に至るまで継続蓄積中であるが、現在に於ては其の額壹千五百七拾八圓九拾参銭貳厘に及べり。此の年五月校地東側の石垣十數間を新に築造し、十月十三日には本校創立満三十年記念を舉行せり。

教育勅語 謄本下付

※下付(かふ)  役所から人民にさげわたすこと


明治三十七年十月二十九日教育に關する勅語謄本の配付を受けしかば、十一月三日 明治天皇の天長節に於て、其の奉讀(読)式を行びたり。次で三十八年
三月二十九日重ねて本縣より左記の如き表彰を受く。

     賞状

大分縣大分郡高田尋常小學校
明治三十六年度學齡兒童就學及出席步合佳良二付運動用具壹組ヲ賞與ス
明治三十八年三月二十九日

    大分縣

岡本校長

明治三十八年十月多年本校の爲めに盡瘁(じんすい 力を尽くし、倒れるほどに苦労すること。)し、其の功績亦すばらしかった阿部校長は北海部郡大在校に転任し、十二月本郡挾間高等小學校訓導岡本喜市本校訓導兼校長に任せられて着任す。明治四十一年十月三十日訓示に依り始めて教育勅語下賜(かし)記念式を行ひ、十一月十日戊申詔書(ぼしんしょうしょ 明治天皇の詔書の通称)謄本の下付を受く。而して本年度より義務教育年限六年に延長されたる結果、學級数の増加を見るに至りしと共に、村教育の趨勢(すうせい)に察して、近く高等小學校を併置することにきまったので、岡本校長は中村村長と協力して、校舎の増築に関し盡力するところあり。

校舎増築

かくて翌四十二年度の初頭より、増築工事に着手するの運びとなり、 校地を西方隣接地に拡張して、四月一日地築を行ひ、八月に至りて竣工す。是れ今日の西校舎にして、長さ十一間半横五間の二階建にて、工費二千九百九拾参圓(円)を要したり。九月九日増築落成式を舉行し、郡長代理宇都宮郡視學を始め、大津大分新聞社長、前田豊州新報主筆、有田郡書記、小松鶴崎警察分署長、組合内町村長小學校長等の参列ありて頗(すこぶ)る盛りあがった。

高等小学校併設

四十三年四月予定の如く高等小學校を併置して、校名を高田尋常高等小學校と改称し、ついで物理器械を購入し鉄棒を建設する等設備漸(ようや)く整ひ、本校の面目大いに改新す。
 翌四十四年三月本校高等科第一回卒業式をおえて、岡本校長は本郡賀来校長に転任せり。同校長の在職中には、上記の外毎年或は兒童成績品展覧會を開催し、或は修學旅行を行ひ、又遠く栃木茨城地方に出張して学事を視察し、以て本村教育の向上發達に努めたる功績はすばらしいものであった。

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高田校長

明治四十四年四月隣村松岡校長高田善雄本校訓導校長に任せらる。同氏は着任以来内容方面の充実を期して、教授訓練の改善、器械標本の整備等、専ら兒童
の教養に重きを置きたり。従ってその施設経営皆この主義より出で、着任の年より毎年十月運動会を開催し、大正元年度よりは旧正月を期して部落学芸会挙を恒例とし、又大正四年十月には当地方各學校に率先して校歌を制定し、 其の他築山を築き、花園を設け、卒業生記念樹を植うる等、何れも同校長の創設にかゝるものなり。

両陛下御影を奉戴


こうして大正四年十月廿七日 天皇陛下の御影を奉戴し、翌年同月同日皇后陛下の御影を奉戴せしは、本校いや本村人士の永く銘記すべきこととなったとする。

卒業児童数

卒業兒童顧みれば本村村立學校の開設以来四十三年、その間校名の改まること五回、改称毎に本村の教育、発達して、尋常小學校となりて以来今日に至るまでその卒業生一千三百二十五名に及び、又本校高等科の卒業生は百八十八名に達せり。

職員在勤一覧

これに関しては省略します。

「高田村志」を読むは第8章學校 で一時休止したいと思います。高田小学校150周年が終了後からまた始めたいと思います。

👉第8章 學校 2・学校の沿革