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この時の被害状況は当時の新聞に次のように記された。
「・・・鶴崎地方で水害の最も甚だしかったのは、高田村から鶴崎町の別保一帯で、六百五十万円を投じた大野川の河川改修工事は、明治二十六年の大洪水の水量を基準に以後五十年の水勢を調査して相当堅固に設計面も大洪水時より堤防を四尺(1m20㎝)も高めに築き、大野川水勢の要になる高田村鶴瀬部落上手の有名な旧幕時代細川侯の築設した堤防の附近は、一層の堅固さであった。だが今回の水害はその細川堤防を潰したので、鶴瀬部落の十数戸を一息に押流し、高田村に濁流うずまかし(本文のまま)下流の別保・鶴崎を洗ったのである。同村の死者十八人、流失家屋三十二戸、全壊六戸、半壊三百戸、家畜流失牛二十四頭、馬四頭、豚四頭、また同村の主要生業である蔬菜畑(野菜畑)は、三、四寸の泥土で、中鶴瀬部落附近は三尺内至五尺の砂利に埋没、半数の約百町歩は三、四寸の泥土でおおわれ、採掘時の牛蒡(ごぼう)は殆んど全滅、大根その他の蔬菜は埋ってしまった。 (昭和十八年九月二十三日付)

この洪水においても鶴瀬の被害はひどかったようである。また、この洪水で高田小の児童四人が命を奪われ、人々の涙をさそった。家が水に浸かってしまったので高い庭木に移るとその木が折れ、また倒れ、我が身は若宮八幡までたどりついてやっと助かったという人もいたそうである。
 また、この大洪水による泥の堆積はひどく、砂出し作業を初めとする災害復旧には、県下で初の学徒動員令が出されたという。
「戸次町・鶴崎町附近を中心とする風水害に対し、その復旧に協力するため大分市内専門学校、中等学校に対し、初の勤労動員令が下った。その皮切りに大分高商報国隊が二十三日に鶴崎町に二十四日まで復旧に聖汗の奉仕をなし、ついで二十五日大分中学、二十六日大分商業 大分師範、大分工業は鉄道復旧工事に協力すべく待機中である。…」(合同新聞)

現校庭にも泥が四五十センチメートルも積もり、奉仕作業で泥をとり除いてくれたという。
 高田の何軒かの家には、今尚十八年大洪水の高水位の跡が残っている家があり、三十年経た今日でもはっきり見ることが出来る。
「災害地をまわってみると、どこの家庭も柱時計が十一時前で申し合わせたようにストップし、その附近に泥土の一線がクッキリと附着している。柱時計のあ
たりまで濁流に浸かったわけであろう。(合同新聞九月二十三日付 水害から30年後?)

現在の平和な高田の昔には、こんな恐ろしい水害との戦いがあったのである。例年の大洪水で被害のひどかった鶴瀬には「高田・水難者慰霊塔」が建てられ、その霊がまつられている。