第三章人物 4・毛利太玄を読む前に

高田の三哲として紀行平、毛利空桑、岡松甕谷の三人が挙げられ、またよく知られている。しかし、大正の初めに書かれた「高田村志」の中に出てくる高田の人物としてその3人以外に3人の名前が挙げられている。その中の一人が毛利空桑の父である毛利太玄である。個人的にはこの毛利太玄が一番面白い人物であると思う。
太玄は常行の板屋で生まれた。しかし、究極の貧乏生活をしており、杵築藩の三浦梅園の元(今の国東の武蔵町)で学んでいたが、草履を買うお金もなかったため、裸足で往来していたこと、また、衣服を包むための風呂敷もなく、隣の家に借りていたことなど、若い時には相当苦労をしていた。しかし、のちに藩や上のものにその実力を認められ、多くの藩や高貴な人に召されていくような名医となる。
 しかし、名医となった以降も治療を受けるものの身分や金の有無に差別をつけることなく平等に接したとのことである。
その様子を「高田村志」人物、毛利太玄から読み取ってほしい。

👉毛利空桑

毛利太玄


毛利太玄は三浦梅園の高足(優れた弟子)にして、あの勤王奇行を以て世の中に知られている毛利空桑の父親なり。

就学

 太玄名は含、字は可貞で太玄は通称なり。宝暦11年(1761年) 常行字板屋に生る。人となり温良恭倹(きょうけん 人に恭しく自分に慎み深い)篤実(とくじつ 情があつく誠実なこと)重厚なり。家は代々医者を仕事としていた。 初め、百堂の一庵主大円なるに就いていたが、 15歳の時熊本に行くようになり、藩医 岡松雲古に医学を学び、かたわら医学校再春館で学ぶ。 安永六年正月、十七歳の時、杵築藩の儒医(儒学者であり医者でもある)三浦安貞(三浦梅園)に従い、漢学及び医術を学ぶ。 19歳の時再び熊本に遊学し、4年後に戻り、翌天明三年三月、再び三浦安貞に就て学ぶ。 刻苦勉励(こっくべんれい 苦労しながら勉学に励むこと)も懈怠(けたい 怠けること)するようなことはかかった。

医家としての声價(せいか 評判) 

天明四年、医師岡松雲古が江戸に赴任したので、不在中をたのまれ熊本に行き、雲古の代診に従事する。これは太玄が二十四歳の時のことである。 雲古は熊本において上下の信用を獲得した名医だったので、門弟も少なくなかったのだが、特に遠い地の太玄に代診を依頼したのは聲價(せいか 評判)を維持するのに足りる人を求めたため、当時、太玄の医学にたいする造詣が浅くないことが窺えたことから、遠い近い関係なく、依頼することとなったのである。三十歳前後にして已に(すでに)家道を再興する。その後、ますますその名医の名が江湖(こうこ 世の中)に宣伝され、治療を求めるものが後を絶たず、一年に2、3千人に上ったこともあったという。杵築候松平織之助、桂華樓主並に其の愛嬢、竹田候中川熊之助、及びその子中川善之助、並に一族中川鶴次、中川司馬、その他日出藩主木下織部正等、貴顯(きけん 身分の高い(その人))のまねきを受け、数日或は数十日滞留して、治療をしたことも少なくない。 太玄がこのように度々他藩の招聘(しょうへい 丁寧に招く)に預かったことからも、そこらにいる医者ではないことが知られ、その信任が深く、その待遇の厚き、その依頼の大なることは別に記録がある。このように良医の評判が世間に高かったので、後に肥後藩からも抜擢されて、外様御中小姓御医師に登用された。
封内(ほうない 領土内)の在医でこれに抜擢されたのは、太玄を合わせてわずかに3名に過ぎないということで、まことに栄誉なことである。しかも病者の為には、身分がいやしいといえども嫌うことなく行って診察し、貧しい者のためには、謝儀を受けず施薬(貧しい人に薬を恵み与えること)したという。恭倹篤実の人でなければできないことである。

倹素質朴

太玄の三浦梅園に従学するときは、当時家は極めて貧しく墳籍衣物を包むのに風呂敷もなく、西隣りの渡邊忠五郎方から借りて之を使用し、時としては草鞋(わらじ)を買うのに金もなく、梅園が住んでいた富永村(今の東国東郡西武蔵村)まで、跣足(せんそく はだし)にて往復したこともしばしばあり、そのいかに窮乏であったかを察するに十分だと思われる。されば梅園につかえる日も、常に自炊をしていたが、梅園はその貧窮至骨を憐んで、奉ずる所の管公畔林木の枝葉を採って、薪用にあてることを許したという。こうして高田と富永の間を長い間往来したが、昼飯を食べるために、 店に寄るということもなく日出城南郭外の某神社に立寄り、境内にあった巨大平坦の盤石に腰を下ろして食事をするのを常としていた。後に太玄の医業が盛んにおこなわれようになった時に、木下候の依頼に応じて日出に出かけたことがあった。その時には既に駕籠(かご)で往復する身分となっていたにもかかわらず、墳籍衣物をかついで当街道を往復した昔を忘れず、必ず弁当を携え、特にあの神社境内の巨石で休んで弁当を食べ、書生時代を追懐して今昔の感に入ることを楽しんだという。太玄が身を持することの倹素質朴だったことは、この一事を以て十分で、更にその歳が七十を超えても、これまで厳冬に足袋、座蒲團の類を使用しなかったことは、普通の人では真似のできないことで、実に太玄の一生は勤倹の二字を以て貰けるものということができる。

太玄と梅園


太玄が梅園に師事して富永村にいたある日、隣家に火災が起こったことがある。時に塾生は誰もあわてふためいて、ただ自分の 物だけをもって林の中に逃げたが、ひとり太玄は落ち着いて逃げず。上に上りて消防に努めた。やがて近隣の人々も駆けつけ、一緒に消火にかかったので、梅園の家は幸に類焼を免ることができた。事がおさまった後、梅園は諸生を集め訓誡して曰く、隣家失火で、塾生たるものが自己の物だけをもって去る、その行動はいかにも輕卒で思慮がないことはこの上ない。
このような時にあたって、このようなことでは塾生の条理を失ふものだ。よく配慮し、その行動が良いものになるよう勉めるように。太玄は一にも自分のものかは問わず、直に火に向かって行きこれを防ぐ、火滅すればその害衣物に及ばず、思慮ある行動である。今日から太玄を門弟としてではなく客人として扱うべきだと。それ以後、厚待遇であったが、太玄は謙譲拝辞(けんそんはいじ 謙遜して辞退すること)して之を受けなかったという。しかし、その梅園に重んぜられたことは、塾を去るに当たつて下記の詩を寄せられたことからもわかるだろう。

<漢字は変換せず旧字体のまま表記しました>

滿囊詩興半玄譚
盃酒惜離還暫含
不道梅花消息遠
春風吹夢度江南


その師弟の情が厚かったことは、相別れた後も文書や手紙に、常に音信を絶やさなかったことからもわかるもので、その手紙が多く残っている。特に次に掲ぐる一通は、より一層太玄の優秀であることを証明するものである。


只今家老中根齊と申人の甥にて御座候足下の義被承及何卒官途の志は有之間敷
や拙者へ承合吳候様にとの事にて御座候尤醫家にては無御座候当時困窮被致候
へ共君德に於ては御聞及も可被成候明哲慈惠の君に相違無之行末はたのしく
奉存候もし官の望も御座候はば御取持も可申候此處は先よりも申來らず候へ
共御夫婦にても苦しかるまじく候や其の義不被存候て申來候や又々木付の義承
可申候いづれに相成候とも御返事不被下候ては拙者こまり候に付奉賴候已上


  極月(12月)  二十日         三浦安定(安貞 三浦梅園の字)

  毛利泰元 様

交遊



太玄は交遊はとても広く、ただ梅園だけではなく、日出の帆足萬里ともつきあいがあり、萬里が藩政を改革するときに、借金の周旋(間に入って取り持ちをすること)をしたこともある。又鶴崎の脇蘭室とも、詩酒の交ありお互いに行き来し、蘭室に毛利三子の字説あり。それでも特に親交があったのは、判田村 龍口の後藤成美(名は、字は徳輿)なる人で、梅園の門下であったころから兄弟のように交際し、帰郷の後は詩酒交歓(ししゅこうかん 酒を飲みながら打ち解け合って楽しむこと)に相往来せり(お互いに行き来した)。されば成美が病にかかって危篤に及ぶと、太玄は急遽出発してゆくが、どうにもならず亡くなれば、悲しみを抑えることができず、号泣をしたとのこと。その姿を見るもの感じ入らないものはいなかったという。

病没

天保五年(1834年)正月六日大病にて亡くなる。七十四歳。葬儀の日、遠い、近いを問わず太玄を惜しんで多くのものが訪れた。 会葬者の中に「今日は金を埋めるのジャ」と語った者もいる。思うに、医業が盛んに行はれて謝礼を得ることが多かったが、遂に亡くなり地下に葬られるということをいったものであろう。
法号を温良院泰元慈篤晃禪定門、私謚(いみな)を敬仁先生という。

次回「高田村志」を読む は第3章人物 (毛利空桑)です。

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