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「高田村志」を意訳するにあたり
「高田村志」は大正九年に書かれた高田の歴史、地理、人物等を記した地誌であり歴史書です。「続高田村志」など高田の歴史についての書籍はこの「高田村志」をもとにしており、「高田村志」は高田の歴史のバイブルです。
この「高田村志」は臼杵市出身の考古学者、久多羅木儀一郎氏(鶴崎地区の多くの歴史書を書かれ郷土史研究に尽力された方です。)、中村壽徳氏、小手川又吉氏(後に公民館長、若葉幼稚園の初代園長、初代高田昭和井路組合長等をされる)の三人で編纂され大正九年6月10日に完成しました。鶴崎地区の小さな村の一つに過ぎなかった高田でこれほどの村志が発刊されたのは県下でも驚くべきものだったのではないでしょうか。
しかし、発刊時には村内に頒布した「高田村志」も 戦争や洪水で高田地区に残るものは数冊とまで言われるようになっていました。
この時、老後の奉仕として復刻を考えられたのが中村文明氏です。高田地区自治委員の協力を得て昭和53年に復刻版が発刊されました。
初版が出て、60年ほどたっていました。
貴重な書籍です。ただ現代の平易な字体ではなく旧字体のため、ちょっと読むのが難しく今まで脇には置きながら実際読むことがありませんでした。
この度、少しでも多くの人が読んでわかるものにしてみようと意訳を試みてみました。高田の歴史の資料としての 道しるべ になればと思っています。
※この文の中に出る写真や注釈はこちらで追加したものです。
高田村志
1・総説
第1章 目次
- 位置、および面積
- 戸口
- 大字
- 地勢
- 気候
- 天産
1・位置及び面積
位置、境域
わが高田村は、大分郡の東北部、大野川本支流の間に介在し、東は乃ち大野川の本流を隔てて、北海部郡川添村に対し、西は乙津川を挟みて、別保村および明治村に隣り、南は松岡村に接し、北は鶴崎街に連なる。
1・高田村は大分郡
廃藩置県後、豊後は大分県になります。その大分県は明治6年の大区小区制 により8大区に分かれ高田はその大区の中の第3区になります。その第3区の郡名が大分郡です。(高田は第3大区(大分郡)第11小区に指定される)。
なお、高田には当初は高田村は存在しません。常行村、関門村、亀甲村等の九か村があり、たとえば大分郡関門村、大分郡亀甲村等と呼ばれていました。その高田の各村も明治8年には6村に合併されます。そして1889年(明治22年)4月1日の市制町村制施行により、高田の6村丸亀村、鶴瀬村、下徳丸村・南村・常行村 関園村が合併し、大分郡高田村になります。これより高田は戦後の1954年(昭和29年)に鶴崎市になるまで大分郡が続きます。
この詳細については当ホームページをご覧ください。 👉 高田はどのように変わったか(大分郡→鶴崎市→大分市)
第1章 目次
東西の幅員、最も広き処にておよそ、13町(1,417m)、南北の延長およそ25町(2,727m)、面積358町7段8畝21歩あり。
< 358町 ≒ 35442001㎡ 7段(たん) ≒6930㎡ 8畝(せ) ≒792㎡ 21歩(ぶ) ≒69㎡ 3,551991㎢>
※これ以降は現在の単位に換算して表記します。
1・長さの換算 一町=六〇間=109m
2・面積の換算表 (換算の仕方で若干変わります)
土地分類
先の面積を分類すると下記のようになります。
畑 | 宅地 | 川敷 | 堤防敷 | 道路敷 | 山林 | 官有林 | 悪水路 | 原野 | 墓地 | 社寺地 | 学校敷地 | 雑地 | 合 計 |
2.608363 | 0.351605 | 0.209385 | 0.1485 | 0.083038 | 0.039062 | 0.036198 | 0.031928 | 0.020668 | 0.017761 | 0.001676 | 0.002584 | 0.001224 | 3551991 |
大分郡 面積の比較
高田村の面積を大分郡の全面積270km2に比べると約その76分の1に当たり、大分郡内27カ町村中第23位を占める。
2・戸口 (ここう 戸数と人口)
現住人口(対象5年末)
大正5年末調査による高田村現住人口は、男1,282人、女1,258人、合計2,540人ありて、これを同年末の大分郡の総人口100,132人に比べれば約その39分の1に当たり、郡内における順位は面積と同じく第23位である。今大正元年以降の毎年松現在人口表を掲げて、近年における本村人口の趨勢を知るのに便利なものとなる。
大正5年間の表は省くが、「続高田村志」を昭和の高度成長期から現在までの推移を表にしてみる。
高田地区の戸数の変動
鶴 瀬 | 亀 甲 | 上徳丸 | 下徳丸 | 南 | 常 行 | 関 門 | 堂 園 | 計 | |
文化10年(1813年) | 54 | 87 | 50 | 70 | 50 | 140 | 103 | 29 | 583 |
昭和37年 | 23 | 58 | 29 | 63 | 29 | 121 | 67 | 121 | 411 |
昭和45年 | 23 | 69 | 31. | 94 | 43 | 133 | 119 | 133 | 555 |
昭和55年 | 30 | 80 | 34 | 164 | 45 | 235 | 234 | 235 | 976 |
平成 2年 | 28 | 88 | 31 | 167 | 49 | 360 | 355 | 360 | 1354 |
平成12年 | 27 | 96 | 35 | 226 | 74 | 391 | 503 | 391 | 2026 |
平成22年 | 38 | 115 | 40 | 289 | 80 | 828 | 620 | 828 | 2450 |
令和元年 | 33 | 142 | 40 | 323 | 96 | 1011 | 620 | 690 | 2820 |
令和5年 | 39 | 138 | 40 | 334 | 106 | 1120 | 699 | 623 | 2999 |
高田地区の人口の変動
鶴 瀬 | 亀 甲 | 上徳丸 | 下徳丸 | 南 | 常 行 | 関 門 | 堂 園 | 計 | |
文化10年(1813年) | 260 | 462 | 200 | 300 | 240 | 660 | 449 | 130 | 2701 |
昭和45年 | 125 | 359 | 146. | 391 | 170 | 605 | 499 | 173 | 2468 |
昭和55年 | 103 | 377 | 146 | 629 | 172 | 881 | 880 | 584 | 3772 |
平成 2年 | 91 | 372 | 124 | 593 | 182 | 1283 | 1234 | 866 | 4745 |
平成12年 | 87 | 345 | 119 | 672 | 206 | 2175 | 1520 | 1142 | 6266 |
平成22年 | 83 | 327 | 112 | 721 | 175 | 2254 | 1658 | 1167 | 6497 |
令和元年 | 72 | 304 | 104 | 742 | 216 | 2381 | 1657 | 1101 | 6577 |
令和5年 | 78 | 286 | 96 | 745 | 224 | 2483 | 1608 | 1114 | 6633 |
この表からみられることは、江戸時代の文化10年から昭和45年までの160年間、高田がベッドタウン化されるまで戸数、人口の変動はあまりなかったようである。
(高田村)出入人口
次に大正5年末現在の出奇留人奇留数を下記に示す。
※出奇留とは
旧制で、九〇日以上、本籍地以外の一定の場所に住所、または居所をもつこと。昭和二七年(一九五二)に廃止された寄留法にもとづくもので、現在では住民登録制度になった。 (日本国語辞典より)
出奇留数
男 | 女 | 計 | |
大分郡内他町村にいる者 | 32 | 30 | 62 |
大分郡内他都市にいる者 | 95 | 84 | 179 |
他府県にいる者 | 126 | 110 | 236 |
軍隊にいる者 | 19 | 19 | |
朝鮮にいる者 | 8 | 5 | 13 |
台湾にいる者 | 4 | 4 | 8 |
外国にいる者 | 3 | 3 | |
合 計 | 287 | 233 | 520 |
※入奇留数は少数のため省略します。
年齢別人口
更に最近調査(大正2年末)にかかる、高田村人口男女年齢別数を次に書き記します。
5歳以下 | 10歳以下 | 15歳以下 | 20歳以下 | 30歳以下 | 40歳以下 | 50歳以下 | 60歳以下 | 70歳以下 | 80歳以下 | 80歳以上 | 合計 | |
男 | 184 | 187 | 151 | 160 | 259 | 189 | 158 | 130 | 116 | 49 | 13 | 1596 |
女 | 183 | 157 | 160 | 150 | 214 | 184 | 167 | 124 | 108 | 45 | 20 | 1512 |
計 | 367 | 344 | 311 | 310 | 473 | 373 | 325 | 254 | 224 | 94 | 33 | 3108 |
本籍の戸数は大正5年末現在によれば415戸ありて、このうち士族は9戸にして、その他は平民なり。今村内の人口をこの戸数に配当すれば、平均1戸当たり現在人口6.12人となり、郡の1戸平均5.99よりもやや上位にある。
高田地区の令和5年の人口構成を当ホームページ「大分市高田を知る」より抜粋しました。
内容の比較については今回スルーさせていただきます。
3・大字(おおあざ)
この項に関しては当ホームページ 「高田大字、小字の変遷」と並行して読まれるとわかりやすいと思います。
なお、時代によって若干の地名、区分が変わっているようです。当時大正5年時に作成された区分を見てみたいと思います。
1・字名および地名
本村は現今、鶴瀬、丸亀、下徳丸、南、常行、関園の6大字に別れています。下記に各大字の下に属する、小字名、地名を表記します。
高田地区 大字名・小字名(その1)
大字名 | 小字名 | 地 名 | カタカナ | 現地名 |
鶴瀬 | 大鶴・鵜猟ガ瀬 | 曽根 | ソネ | |
塘附 | トモツキ | |||
切畑 | キリハタ | |||
松の木 | マツノキ | |||
田代 | タシロ | |||
丸亀 | 亀甲・馬場・上徳丸・高畑 | 木ノ前 | キノマエ | |
立小路・大久保小路・ヤウタ小路 | 中鶴 | ナカヅル | ||
中村小路・五反小路・中小路 | 宮の前 | ミヤノマエ | ||
新田 | シンデン | |||
久田 | クタ | |||
塘外 | トモソト | |||
下徳丸 | 鍛冶屋小路・沖ノ小路・門前小路 | 西上鶴 | ニシアゲヅル | |
立小路・中園小路・成仏・西小路 | 東上鶴 | ヒガシアゲヅル | ||
辻 | 沖ノ下 | オキノシタ | ||
塘外 | トモソト | |||
菰原 | コモワラ | |||
屋敷 | ヤシキ | |||
橋ノ本 | ハシノモト | |||
竹ノ下 | タケノシタ | |||
大畑 | オオハタ | |||
猪ノ畑 | イノバタケ | |||
曽根 | ソネ | |||
成仏 | ナリボトケ | |||
南 | 板屋・船戸・鵜鶴・榎ケ瀬 | 東鶴 | ヒガシツル | |
南屋敷 | ミナミヤシキ | |||
成仏 | ナリボトケ | |||
橋ノ本 | ハシノモト | |||
出口 | デグチ | |||
岸ノ上 | キシノウエ | |||
水落 | ミズオチ | |||
鵜ノ鶴 | ウノツル | |||
石原 | イシワラ | |||
塘外 | トモソト | |||
塘平 | トモヒラ |
高田地区 大字名・小字名(その2)
大字名 | 小字名 | 地名 | カタカナ | 現地名 |
関園 | 表小路・矢熊・仲間 | 一本木 | イッポンギ | |
下小路・堂園 | 中ノ島 | ナカノシマ | ||
堂脇 | ドウノワキ | |||
東川原ノ上 | カワラノウエ | |||
久保 | クボ | |||
瀬ノ口 | セノクチ | |||
田代 | タシロ | |||
引地 | ヒキヂ | |||
寺ノ前 | テラノマエ | |||
寺ノ脇 | テラノワキ | |||
太郎 | タロウ | |||
矢熊 | ヤグマ | |||
仲間 | ナカマ | |||
池ノ上 | イケノウエ | |||
大塔 | オオト | |||
平畑 | ヒラハタ | |||
上須賀 | カミスガ | |||
塘外 | トモソト | |||
常行 | 東小路・初穂田・権代・岩丸小路 | 二本木 | ニホンギ | |
横小路・天神小路・井樋ノ口・板屋 | 後田 | ゴタ | ||
西小路 | 葛木 | カツラギ | ||
東ノ久保 | ヒガシノクボ | |||
権代 | ゴンダイ | |||
仲間ノ久保 | ナカマノクボ | |||
寺ノ脇 | テラノワキ | |||
横小路 | ヨコショウジ | |||
板屋 | イタヤ | |||
福道 | フクミチ | |||
川辺 | カワベ | |||
井樋ノ口 | イヒノクチ | |||
川ノ上 | カワノウエ |
*大分市鶴崎地区文化財研究会が鶴崎支所の厚意により転載したものです。H5年
2・字名の由来
高田村が現在のように6大字となったのは明治8年3月以来のことで、その以前は堂園、常行、関門、南、下徳丸、上徳丸、亀甲、鵜猟ガ瀬、大鶴の9か村に別れていた。
鶴瀬
鶴瀬は大鶴、鵜猟ガ瀬の合併したもので、大鶴は「高田風土記」に見えるように、「須賀在は広く琵琶の胴にして大鶴村というは琵琶の弦という意」より起こりしもので、<※大鶴の鶴が弦(つる)からきている、という意味だろう。>また鵜猟河瀬は鵜猟ガ瀬と書くところを見れば、昔この地方に鵜飼いを業とするものがいたことから出た名ではないか。
これは想像の説だが、古来から鮎は大野川の名産で、鮎と鵜飼いは離れがたき関係があればこの説を強く退けるものでもないようである。
※このあとに、岡松甕谷の漢詩 「大鶴村」が書かれていますが、漢字が難しく理解が難しく時間がかかりそうなので今後にしたいと思います。
丸亀
丸亀は亀甲と上徳丸が合併して起きた名前で亀甲とはその地形の亀の甲型からでており今の高畑付近が甲の中央に当たるという。
上徳丸のことは次節に併記する。
下徳丸
下徳丸は上徳丸とともに元は徳丸と称していたものでその名称は、この地方に徳丸氏が住んでいたため起こったのではないかと言われている。
徳丸氏は源平時代、徳丸藤内左衛門尉なる人がいて当国の豪族 緒方三郎惟義の女を娶ったということから、当時既に相当の豪族であったと知れよう、そうしてその一族が次第に繫栄するにしたがって漸く本家新宅の別が生じたことから、上と下に分けて呼ぶようになり、地名にそれをつけたのではないだろうか。
また、一説によれば、徳丸は菊丸、鷹丸のような人名だったのではないかともいわれている。
南
南はもと常行村の中だったが、以前、ある紛争により分離独立し、その位置の母村より南方に当たることから名づけられたものと思われる。
常行
常行の名は昔この地に常行という刀鍛冶が住んでいたことから起きたという。注1「古今鍛冶銘早見出 」を見ると常行は藤原性で明応年間(1492年から1501年までの期間を指す)の人だという。
注1 「古今鍛冶銘早見出 」とは
関園
関園は関門村と堂園村が合併したもので、関門は[堰せき]門から来ており、また堂園は今同地に小字堂の脇といわれる辺りに、昔道園寺という寺があったと伝えられていることから或いはこの寺の寺名から来ているのではないかと言われている。
関門村が独立村であった時代には対岸の百堂、中ノ瀬(俗に下百堂という)の二村も関門村に属していたが、明治8年の郡区改制により今日のようになった。故に関門村の山の口は百堂村の山の口が兼務していた。
・百堂、中ノ瀬は川添だったが関門村に属したのは、関園から渡し舟が出ており、そのたどり着く先が百堂で渡し舟の管理を関園村がしていたためではないだろうか。
・山の口とは 山で草木や木の実をとること また、その任務を負っていた者。
4・地勢
1・地勢概説
地勢
高田村は大野川の三角州に位置し、地形は楕円形をなし、一つの丘陵もなく全くの平坦の地である。周囲は〇〇〇〇〇〇〇(不明)
より、大字南船戸に至るまで北方の一部を除くほかは恰(あたか)も馬蹄形に堤防を囲っている。
大野川
大野川は源を豊後肥後の境に発し、幾多の支流を集め、うねり曲がって流れ二十余里、隣村松岡村大字大津留にて二流に別れ、本流は正北に流れ、高田村大字鶴瀬鎧鐙(あぶみ)が鼻より東方に折れ、さらに転じて大字丸亀、下徳丸、関園の東方を北流し、支流は鶴瀬の西方を過ぎ、大字南船戸に至り、曲折して北東に流れる。こうして両流は、鶴崎町一本木付近にて最も接近し、同町の東西を流れて、ともに別府湾に注ぐ。夏秋の降雨打ち続き、おびただしく増水するときは、濁水流れて、徐々に下流より押しあがるのが常である。
こうして一度氾濫すると堤防を破り、畑を荒らし、家屋人畜を流し、しばしば痛ましい被害にあう。
悪水路(排水路・農業用水路)
悪水路は、鶴瀬四辻より南船戸に至るもの(462間)、字上徳丸中村栄太宅の北側より、字関門補陀寺の川口に至るもの、(791間)字亀甲閼伽池池より、大字常行井樋ノ口に至るもの(816間)、および四村境(よむむらさかい)(南、下徳丸、関園及び常行の四字の境)より字堂園に至るもの(872間)を幹線とし縦横に支線が通っている。
2・本村の異名
本村には、土地の生成上及び地形上より、須賀在、藤島、琵琶洲等の異名がある。いずれも地勢に由来するもので、ここにその説明をしたいと思います。
須賀在
須賀在とは専ら以前の藩時代に用いられていた名称で、当時高田村は堂園、常行、関門、南、下徳丸、上徳丸、亀甲、鵜猟河瀬の八村に別れていたので、俗にこれを須賀在八カ村と呼ばれていました。そのため老人には、今でも因習的にこの名前を唱える者は少なくない。
そうして須賀在とは洲ケ在のというわけで、昔当地方では洲先であったとの伝説に基づくものであろう。と高田風土記に書かれている。
藤島
藤島の名はただ高田だけのものではなく、高田から鶴崎にかけての名称である。
この名の由来するところを尋ねると、大古当地方がまだ海湾だった時代に川の波打ち際近くに非常に大きな樹木があった。大野川より吐き出された土砂が根を大きくし、次第に凝集堆積して一小洲ができあがる。それから年月を重ねるうちにその面積を増大して、ついに今日のような土地を形成したのである。
このように当地方はその初め、藤樹があり生成を見るに至ったことから藤島と称されるようになったという。
このことは一見 無稽(むけいー根拠のないこと)の伝説のように思えるかもしれないが、大古悠々たる歴史で当地方が入江だったことは、これを今日の地質地形を見ても、村内で井戸を掘るにあたって蛸壺、ユラ(魚の種類 調べてみたが種類はわからず)等を発見し、あるいは村内の字名に沖ノ小路、沖の下、菰原(いずれも大字下徳丸にある)等の名があることからも、決して否定できることではない。
また藤島の称も、古くから伝説であることは、鶴崎町龍興寺の山門に懸る古き扁額に「藤渚」と書かれていることからもわかることである。
琵琶洲
琵琶洲の名も藤島と同じく、本村から鶴崎にかけての総称で、その地形の琵琶に似ていることから起こった名称であることは、高田風土記堂園村の章に「百堂山の峰尾より、須賀在、鶴崎の地を臨み見れば琵琶の形に似たり。須賀在は広く琵琶の胴にして、大鶴村というは琵琶の弦の本という意なりという。国宗村の琵琶の首は地狭くなりて、実に琵琶のしほくびの如し。それより鶴崎の地は弦臓の形にして、いつの頃よりにや文字変われり」とあることで明らかである。
頸陽(けいよう)
※頸(旧字体くび 首)
以上のほかに頸陽がある。これは前項で引用した「国宗村の琵琶の首は地狭くなりて、実に琵琶のしほくびの如し。」から来たものでその頸とは琵琶の首をさし、陽とは南方の意味である。すなわち高田村は琵琶の首(今の鶴崎町国宗一本木付近の古称)の南方に位置することから、漢詩人などの好事家が私的に呼んでいた名ではないか。
2・大野川の今昔
高田村の東を流れる大野川、西を流れる乙津川はいうまでもなく東が本流にして、旧藩時代にはこれを本川または白嵩川と称し、西はこの川の支流なれば、裏川または西川と称した。しかし口碑(言い伝え)によれば、今をさかのぼることに284年前、すなわち寛永(1622年~1644年 江戸時代初期)以前においては、この本流支流の関係は今日と全く相違し、東が支流、西が本流だったため、船運の便は、一に西川によって営まれた。尤もこれより50年さかのぼる天正(1573年から1592年)以前においては、その水利は今日とは一層趣を異にしていたと伝えられている。このことは当高田村と関係深いことである。
現時点で西川が本流だった時代の名残りとして伝えられるものが2,3あります。その一つは大字南に貫通する堀にして、この堀は今日では僅(わずか)に排水の用をなすに過ぎないが、その時代では幅員も広く船舫(ふなもやい 船の係留)の出入りもできたのである。
それで本川を上下する河船で本村に寄泊するものはいずれもこの堀を遡行(そこう 流れをさかのぼっていくこと)して、今の首藤寶吉の裏あたりまで入り来てここに茂っていた大榎(この榎は近年まで生存していたが89年前までに切り倒されたという)に纜(ともづな)を係留することを常としていた。
またこのような堀だったので上には橋の架設もあって、人馬の通行の便になっていた。今日この付近を「橋の本」と称するは実にこれに基づくものという。
次は同じくこの南に「舟戸」という所がある。これは昔高田村より明治村岩船を経て、大分方面へ至る往復の渡し場だった地で、船戸は船渡たるより出て、私を業とするもの、多く住んでいたことから起きた名であると。
今一つは大字常行に、俗に「ハヅウダ」と称する小字があった。「ハヅウダ」は初穂田が訛ったもので、初めは常行天神の鎮座があったところだと伝えられている。
當時西川は夏秋の変わり目時期において、氾濫するのが殆んど恒例となり、常行村は常にその被害を免がれることができなかったが、或る年殊に甚しき災害を蒙る(こうむる)ことがあった。よって村民は、何とかしてこの年の水害を免がれんものと、一村協議の末、初穂田の地に鎮座せる天神社を、西川通り字井樋ノ口にうつして、水害除災の鎮守とし、旧地は之を初穂用地として同社に寄進し、以てひたすら神處の加護を祈願する。ところが翌年より水理が一変し、従来常行方面を通っていた西川の流れが、対岸中島方面を流れるようになったという。
以上説くところの諸説は何れも口伝えに過ぎないが、全くこじつけともいえないようだ。即ちこれら橋の本、船戸、初穂田等の、水量多かるべき本川に關係を有する地名が、今日水流満々たる大野川筋に無くて、かえって水涸れの乙津川筋に有ることは、その昔のその時において本流だったことを暗に説明しているとは言えないだろうか。記して後進の学者に供するものである。
5・気候
気候は温和にして、極暑にも華氏九十四五度(摂氏35℃)より上がることなく、極寒に於ても二十三四度(-5℃)を下がることはない。風向は、概して春は南風多く、夏は東風、冬は西風が多い。そうして春季に西北風(アナジ)、秋季に西風(ハマニシ)が吹き来る時は、晴天のしるしだという。四季を通じて、午前九時頃より十時頃の間は、陸風海風が交替する時刻に当たりようやく無風の状態を呈し、夏季にあっては、此の時は甚だ蒸し暑い。
6・天産(天然に産する物)
本村は大野川の沖積地にして、地質最も生産に適している。そのため大豆、ごぼう、大根、里芋等の産出が多く、特に牛蒡(ごぼう)は夙(つと)に豊後國誌中にも、「高田郷堂園村出、大者長四尺許、味最美」 出ているように古來最も著名である。 その他、蚕、牛馬、鶏等も盛に飼養されており、何れも發育良好である。
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第二章 沿革 に続く。
👉第二章 沿革