👉高田びわのす通信 TOP 👉大分市高田校区自治会 👉大分市高田校区まちづくり協議会 👉高田校区公民館

昨年末、フリーマガジン 「スマイル商店」の取材の方々が、高田地区を広い分野にわたって取材に来られていました。そしてそのマガジンの2月号が今月発刊されました。高田地区の歴史、高田の農業、高田の街.グルメ等大半が高田の記事です。
私もいろいろ高田について調べていましたが、最近ここまで詳しく高田を紹介してくれたものははじめてです。
 なお、ここにアップした記事はフリーマガジン 「スマイル商店」2月号を利用させていただきました。

※フリーマガジン 「スマイル商店」は高田校区公民館の入り口の窓口に多数置いています。
興味ある方は御自由にお持ち帰りください。

高田周辺エリアマップ


 

素通り注意!高田 町グルメ 探検隊がいく

アナタ、ココで、何されてますか? 池永勝巳さん

地元ん史 <高田周辺>

高田の歴史を語る 二人のお話を記事から切り抜いてアップしてみました。

この町を愛する人々が語る <地元の歴史と思い出>

「水辺に文化が育つ」という言葉を聞くように、昔から川のほとりには人が集まり、その後に村や町として発展してきました。
今回訪ねた高田地区も乙津川と大野川に囲まれた洪積台地で、先人達が自然と手を取り合い、強く生きてきた歴史を誇ります。

 高田地区は大野川と乙津川に挟まれた三角州(デルタ地帯にあり、特に大野川は古くからこの地に暮らす人々に多くの恩恵を与えてきました。けれど母なる川は時として恐ろしい災害をもたらし、高田さんの調べでは寛永2年から昭和20年にかけて約600回の洪水に見舞われたと言います。 高田さんが体験した初めての洪水は昭和18年のこと。9月17日頃から雨が降り始め、その雨量の多さから当時は子どもながらに大きな不安を覚えたと話します。翌々日になっても雨は降り止まず、ついに20日には死者数や流失家屋などの被害が記録的なものに。雨が落ち着いた次の日にようやく避難していた蔵の2階から降りると、母屋の様子は数日前とは一変していたと振り返ります。そのため地域には独白の水害対策が昔から施されており、現在も一部のエリアではその名残がはっきりと残っているとか。先人の知恵と工夫が垣間見える風景には、石垣を積むことにより高さを確保した家屋敷が建つ土地、建物や家財道具の流失を防ぐために植えられた大木(くね)などがあるそうです。

 しかし水害は人々の心に傷を刻んだ一方で、多くの農作物の栽培に適した豊かな土壌を形成してきたことも事実。中村さんは「キュウリやトマトをはじめとする夏野菜を中心に、かつては“高田牛蒡〟の名前で数多く生産されていたゴボウも地域の農業を支えていたんですよ」と教えてくれました。
 さらに昔の高田っ子の遊び場はいつも大野川。「水泳に魚釣りなど、子ども達の遊び場といえば川でしたね」(高田)。
 そして昭和33年には、大野川上流から水をひいた「昭和井路」が完成。 日本最大規模の水利事業として昭和17年から工事がスタートした井路の誕生により、これまでは地域の性質上持つことができなかった水田が設けられるなど、少しずつ地域の農業は変遷を遂げていきました。

 さらに高田を語る上で忘れてはならないのが、地域が輩出した偉人の存在。江戸末期から明治初期にかけて活躍した儒学者・毛利空桑(もうりくうそう)、平安から鎌倉時代の名工で後鳥羽上皇の鍛刀の師としても知られ、また幕末まで栄えた高田刀鍛治の祖でもある紀新太夫行平(きのしんだゆうゆきひら)、幕末から明治時代にかけて知られた漢学者・岡松甕谷(おかまつようこく)は、現在まで『高田の三哲」として人々に親しまれています。その3人の功績を称えた「先哲祭」が毎年11月に行われており、令和4年には記念すべき100周年の開催を終えました。
 高田校区公民館を会場とする行事では、他にも地域の歴史を見直すきっかけとなる講演会などが行われ、駐車場には同日開催の「ふるさと祭」による出店やバザーを楽しむ住民の姿が多数。
 高田さんは「地域の歴史に触れることは、その場所に暮らす人々にとって大切なこと。若い人にも高田の歩みを知ってもらい、これから先も語り継いで欲しいですね」と語り、中村さんも穏やかにその言葉に頷きます。
 歴史は決して暗記科目ではなく、現代の生活や自らの人生を見つめ直すための大切な情報。度重なる水害により生まれた独自の景観や、命を守る先人達の知恵、住民同士の絆というバトンがこれからも引き継がれ、高田というまちが更なる歴史を重ねていくことを願います。