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高田風土記(訳) 前回のつづき
なお、前回(堂園、常行)の訳はふるさと歴史教室の 故 安部光太郎先生、関門以降は 故 阿部勝弘氏の訳になります。

読む前に

高田風土記は細川藩が江戸時代の末期に肥後藩領だった高田手永(旧鶴崎市に近い領土)について詳細に調査した報告書です。
その中で高田地区に関係するところを抜粋してみました。

 なお、当時高田荘といわれたところは、高田 をはじめ、鶴崎、三佐、桃園、別保、明治、日岡、東大分、大在字志村、川添字迫、鶴村の 1町9ケ 村に亘る地域でした。
高田風土記ついては下記を読んでください。

👉高田風土記を読む前に

※青文字で注釈を入れていきたいと思います。

下徳丸村

南村庄屋と兼勤する。
鶴崎御茶屋から南にあたり、関門村を通って三十丁程隔た
っている。
○東には大川の河辺を境に中ノ瀬村とも境になる。南側は
上徳丸・亀甲村と境になる。西は鵜猟ヶ瀬・南村と境とな
る。北側は関門村と境になる。東西は凡そ、十二丁程で
南北は六丁余の土地である。

丁とは 距離の単位。 一町は六〇間。 すなわち三六〇尺にあたる。
     約109メートル

田畑賦税(この項原文のまま)

畑四十二町三反余、三百七十一石六斗余、物成二百八十四
石四斗余、免は塘内セッ六分余、塘外は五ッ余、御給知分畑
七反四畝余、高十七石九斗余、物成十三石七斗余、免は七ッ
六分余、此分は本方にして、此外新地高石七斗余、畑畝数
は新地・諸開畝物等にて九反一畝余ありて、上納米二石二斗
・運上銀十匁なり、御年貢は銀納にして堂園村等に同じ。

高とは
① 物の数や量の総額をいう。
・農作物、特に田畑の収穫量。また、貢租量や知行の額をいう。

物成とは
土地から産出するもの。 田畑からの収穫。

※運上とは
近代の日本における租税の一種。金銭で納付が行われる場合には
運上金(うんじょうきん)と呼ばれる。物の場合、運上銀

土地糞壤

畑地は多く村の全面にあたり、土手の内は耕作に適する真
土の土地であるが、土性は深く堅く耕すには労する所があ
る。東側の土手内と、西の街道筋側は、ごみ土・小砂まじり
で、土性は柔らかであるが、土地は浅い。土手の外は、小石
砂混りで極めて耕作し難い。
○肥料はすべて堂園村等に同じである。

戸口牛馬

竈(かまど)は七十軒余、男女は三百人余、馬は十三疋・牛は二疋いる。

とは
生活の単位としての家。独立して家庭生活をする一家。また、
戸数割りなどの賦課における家族生活の単位。世帯。


○村の中の瓦葺は五軒ある。
○持高三十石から七石までの百姓は七軒、二石から無高ま
で四十七軒
○高畝を人口で割ると、一人につき高は一石二斗余・畝数は
一反五畝余にあたる。
○御高札場一ヶ所ある。

高札場とは
幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを
木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所のことです。

課役

助水夫株三人ある。年々御参勤の時出る。其の外は堂園村等

神祠寺院

興聖寺は禅宗京都妙心寺末寺であり、境内は一反二畝余 御
年貢地であり、旦那百三十軒余りある。

山林原野

東の川辺土手に藪三反三畝余りある。川辺には少しの河原
があるだけで、薪・秣などは堂園村等に同じである。

まぐさ)とは
馬や牛の飼料とする草。


川池水利
村の東には大川が流れており、村内には水吐きの水道が二
ケ所ある
○村の中には井戸が五十余 [深さは水際まで二間から二間
 半まで]あり、水の勢いは強い。

半まで〕あり、水の勢いは強い。

三枚帆の船が一艘ある〔運上銀六匁である]。 常に百堂川に
繋いである。臼杵や佐伯などの港に網などを積んで運送す
る。網は鰯やその他の漁の網であって、村の中でこしらえ暮
らしに役立てるものであります。
街道
村の東側には鶴崎からの往還道があり、榎ヶ瀬渡し場より
百堂渡しへの道は村内を通り、府内から臼杵・佐伯などへ通
う本街道である。

産物

堂園村の内容と同じである。

餘産

この村には日雇・他所稼ぎに出る者もあり、女は縁り布を織
り、その外には桶屋・屋根葺を生業とし、造酒・揚げ酒など
の商いを生業にしている。

風俗

富裕の家もあるが、ほかには堂園村の内容に同じである。