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高田風土記(訳) 前回のつづき
なお、前回(堂園、常行)の訳は 安部光太郎先生 、今回以降は阿部勝弘氏の訳になります。
読む前に
高田風土記は細川藩が江戸時代の末期に肥後藩領だった高田手永(旧鶴崎市に近い領土)について詳細に調査した報告書です。
その中で高田地区に関係するところを抜粋してみました。
なお、当時高田荘といわれたところは、高田 をはじめ、鶴崎、三佐、桃園、別保、明治、日岡、東大分、大在字志村、川添字迫、鶴村の 1町9ケ 村に亘る地域でした。
高田風土記ついては下記を読んでください。
関門村
この村の中には中瀬・百堂と言う二つの枝村があり、庄屋は
一人で支配する。
(本村とは関門村を言い、枝村(中瀬村、百堂村)とは現在の
川添地区の渡し舟の渡し先の地区で関門村に属していました)
鶴崎御茶屋より南にあたり、東は本川の川辺を経て、堂園村
の南に続き、凡そ、二十丁余りある。
○中瀬村は南南東の方向にあたり、白嵩川(大野川)を渡って
迫村から続く。鶴村の南にあたり、凡そ、二十七丁余り、
百堂村は中瀬の南に続き、凡そ一里程である。
○この村の東は本川が流れ、川上からの土手を通って村内
を囲い、川を越しては鶴村の端と中瀬村に接する。 北は堂
園村に接する。東西は凡そ六丁程で、南北九丁程の地です。
○中瀬村は本村の東、川向いの山の下〔この山は志村の上ま
で続く峯尾である] で、東はすべて山の峯尾で臼杵領久所
村に接する。北は、鶴村に境、西は川を越し本村と下徳丸
村に接する。凡そ、東西四丁余りで南北七町程の地です。
○百堂村は本村の南東にあたり、川向の山かけで、東は山の
峯を限り臼杵領延命寺に接する。南は山の尾筋に同領金
谷村に接する。 〔この尾筋より西に本川を見渡し、大鶴村
の土手下に至って、臼杵領と高田須ヶ在との境である」。
西は川越しして上徳丸に接する。凡そ東西三丁余り・南北
一丁半ほどの地である。
り、田は土性浅く、耕すのに苦労する。畑は砂や岩土など。
田畑賦税(この項原文のまま)
畑弐拾五町九反四畝余、高弐百拾六石三斗余、物成百五拾六
石四斗余、免は塘内は七ツ三分余、塘外は弐ツ八分余なり、
(塘とは 川や池の岸の土手。 つつみ)
○中瀬村は田弐町四反五畝余・畑五反余、高三十石五斗余、
物成拾八石五斗余、免は六ツ余、
○百堂村は田壱反五畝・畑四反四畝余、高三石弐斗余、物成
壱石四斗余、免は四ツ六分余なり、この分は本方にして、
この外は枝村を束ねて新地分高四石弐斗余、田畑は新地・
諸開畝物等にて田壱反壱畝・畑三町八反余、上納米四石余
ありて運上銀百八匁余なり、本村は畑一式、中瀬はまつ田
畑つり合いよく、百堂は少なし、御年貢本村は堂園村等
に同じく銀納なり、枝村は米納もあり、船にて鶴崎御蔵下
まで運漕して弁理よし、舟路凡そ里はかり。
土地糞壤
村の土手内の畑は三方面にあって土地は高低なく、土手の
外は河辺にある、村の中は耕作に適する土地であるが、土性
は深く堅く耕すには労する所がある。そのほかの所は、ご
み・小砂まじりで、土性は柔らかで、土性は浅い。 土手の外
は、小石砂混りで極めて耕作し難い。年貢率も劣っている。
○中瀬村は平地より山の半ばまで棚田・段々畑となっており、
土性は浅く耕すのに苦労する。畑は砂や岩土など小石交じり
で同じように土地は工作に良くない。
○百堂村の田畑も中ノ瀬と同じように土地に高低があって、
土地は工作に良くない。
○この村の肥料は堂園村と同じで、枝村は劣っている。
戸口牛馬
この村の竈数は百三軒、男女四百四十九人、馬二十六疋い
る。中瀬は十六軒に八十一人、牛三疋いる。 百堂は十四軒に
六十八人いる、地待一人・御郡代直触の刀鍛冶が六人この村
に居住する。
○この村に瓦葺蔵三軒ある。
○この村の特高が十五石から七石までの百姓が三軒、六石
より三石まで六軒、二石九斗より無高まで九十五軒ある。
中瀬には、持高三石より二石までの百姓三軒、その外は一
石九斗より無高まで十三軒ある。百堂はすべて二石より
無高までの百姓である。
○高・敵を人口で割ると、一人に高四斗余・畝数は五畝に当
たる。
課役
水主株は七人この村にあって、その外はこの村・枝村ともに
堂園村常行村と同じである。
神祠寺院
補陀寺は禅宗で府内藩万寿寺の末寺で、境内一反余で御年貢地
である。旦那数は70軒余である。庵は一カ所で禅宗下徳丸村
の興聖寺末庵である。これらはこの村にある。
山林原野
この村の東の土手と人家の間に竹林がある。御藪 畝数九反
一畝余り、枝村には後ろに山がある。すなわち 臼杵領峯尾
を伝って鶴村・追村に続く山である。中瀬分の御山畝は五町
二反余りです。百堂分は四町一反二畝余です。 すべて中松・
小松立の山です。この村・枝村ともに原野はないので、薪・
秣(まぐさ)などは堂園・常行村に同じである。
川池水利
大川(大野川)はこの村の東の土手外と枝村の間を流れ、百堂
の渡し場にては百堂川と云う。村内水道二ヶ所ある。一ヶ所
は上徳丸からこの村の東を通って大川に入る道と、もう一ヶ
所は西側から常行との間を流れて、西川(乙津川)に入る。
すべて霖雨(何日も降り続く雨)の水吐きのためである。
洪水には、この水吐きから村内に水があふれ入る。
○中ノ瀬に堤一ヶ所があって、田を潤おしているが、水勢が
弱く霖雨でない時は、利用できない事が多い。又谷間には
泉があるが、山が低いので水は足りない。
○百堂は田の畝数が少なく、堤もなく谷間の僅かな泉にて
耕作している。
○この村の井戸は六十余〔深さは水際まで二間から二間半
まで〕あって、水の勢いは強い。中ノ瀬に六つ、百堂に三
つ〔すべて深さ一間半より二間まで〕あり清水である。
舟
この村には浦船三枚帆一艘(そう)ある。 中ノ瀬に九反帆から
三枚帆まで二艘ある。百堂には五反帆から二枚帆五艘がある。
○運上銭七十目 「文目(もんめ)」
○この船はあちこちの荷物を積み、近領浦々に漕ぎ、瀬戸内
の港へ運航する。このほか百堂には馬船一艘と、伝馬船が
七艘あって、往来の人や馬を渡している。
街道
この村の内には、鶴崎から臼杵へ通る街道がある。百堂の渡
しには土手の外から出る。 中瀬は人家の後ろに臼杵領丹生
庄から越す山道がある。又中瀬村の下には志村方面から鶴
村・迫村を通って百堂に出る小路がある。百堂は府内から臼
杵へ通る街道の渡し(百堂の渡しと云う)であって、〔川幅
凡そ七十間程である] 船場から少しばかり坂を登ると分かれ道
があって、臼杵との境がある。〔船場には馬船一艘あって、
船守四人で往来の人馬を渡す。船は在中からの出銀によって
造っている]。
右は臼杵へ行く道。左は丹生の庄を通って関手永の市村に出て、
鶴崎から佐賀関への街道に通じる。小路は臼杵領金屋村に通じる。
産物
この村は堂園・常行村等に同じ。枝村では稲は晩もの、もり
万石など、粟は甚内・赤ことり、裸麦は国中・二ふしの類、
小麦はざら坊主などを作る。 牛蒡・大根などの類は造らず。
餘産
この村は常行村と同じで、鎌鍛冶もあり、紺屋・桶屋・馬喰
などあり、紺屋は縁布を染めて京・大坂方面へ送っていま
す。
又船にてこの近辺の穀物・牛蒡・大根などを積み近くの町
や田舎へ売り捌(さば)く者もいる。
中瀬にも鍛冶屋があり、鋤や鍬を作って須ヶ在や近くの里
に売に出かけている。
百堂には街道筋で煮物を売り捌く者も居ます。
中瀬・百堂共に船で商売をして、臼杵領丹生から売りに出
る松葉を買って、近くの浜辺にて塩と交換する。又は、穀物
や野菜類を購入して近くの港や他の港に回って商売する。
其の外、馬船や伝馬船にて往来の人馬を渡し、代金を得て生
業にして居る。その間には、川での漁で生業とする者も居
る。
風俗
この村の生活状況はあまり宜しくないが、冨民の者もいて、
全体的に堂園や常行と同じである。中村は特別に貧しい者も
なく、総じて純朴の土地柄で気性も良い。百堂村は貧困の者
多くて、生活状態は非常に良くないが、身なりや装いは華美
ではない。
ここは街道の渡し場であるが故、多くの人に接している為か、
気性は好ましくない方である。農業にとっては、ともに協力
し合い、耕作については注意深く、丁寧で手が行き届いている。