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 (1) 伝説[カッパの仇討ち物語  高田校区の歴史散歩№9 筒井加右衛門

*以前アップした《高田の伝統と祭り》から《高田の伝説と民話》として下徳丸のカッパ伝説 「伝説[カッパの仇討ち物語」を抜き出したものです。 

カッパ物語りは、関東利l根 川から九州では筑後川、山国川等に数々の物語りが博えられておりますが、私共の郷土の大野川にも父より博え聞いた物語りに、武勇に勝れた槍の達人筒井加右衛門と言うすぐれた武士でありましたが、油断したためにあえない最後となりました物語です。
大分市高田の下徳丸に興聖寺があり、その門前の県道大分=自 杵線沿いに数基の立派な墓標が立っている。その中に筒井加右衛門という人のものがあり、墓には正徳4年(1714年 )10月 21日 とあり、興聖寺の高橋宗純住職の話や「高田村史」によると、筒井家は寛文から享保、つまり17世 紀後半から18世 紀初頭にかけて肥後藩高油手永の高田会所の長として、お代官惣庄屋などと呼ばれた家柄、のちに鶴崎の御浦奉行に転している。加右衛門はその筒井家の最初のお代官らしい。彼は、六畳の間で二間の槍を自由自在にあつかうほどの達人だったというが、大野川の百堂の渡しでカッパに仇討ちされて殺されたそうだ。百堂の渡しは高田から坂ノ市、佐賀関方面へ向かう途中にあり、いまは名だけが残っている。
ある朝、加右衛門が自宅の菜園に行ってみると二個のナスに九曜の模様が現れてぃた。これは藩主の紋所、彼は喜んで殿に献上しようと大事に育てることにした。ところがその夜、一個盗まれてしまった。歯がみした彼は、すぐさま竹矢来を畑のまわりに回し、不寝番を置いて監視することにした。だが、犯人は不敵、再びナスをとりに来たではないか。番人は飛び出して、相手を確認することなく、竹槍で逃げるところを突き刺した犯人はそのま姿をくらましたが、したる血は近くの大野川の岸まで続いていた。
あくる日、加右衛門は公用で佐賀関に行くことになり、百堂の渡しにさしかった。すると、子ガッパ三匹が現れて彼を呼び止め「私たちは昨夜、あなたの菜園で突かれ、ついに死んだヵッパの子だ。親の仇を討つため待っていた。勝負してほしい」という。しかし、加右衛門はお役目が大事、仕事をすませたあと、夕方には再びこを通るのでそのさいに試合をしようと約束した。
夕方、彼は百堂の渡しまで帰ってきてびっくりした。子ガッパ三匹に加えて数百匹のカッパが待ち構えているではないか。「これでは朝のうちに勝負をつけておけばよかった」とくやんだがあとのまつり、いまさらあとには引けず、そのまカッパの大群のなかに馬を乗り入れた。すると、乗馬用のハカマに小石を投げ入れるというゲリラ戦法、足が重くて、自由がきかなくなったが、それでもかなりの数のカッパを斬った。其の血で川原及び河水が真赤になったと博えられる。しかし、ついにずるずると水の中に弓|き ずり込まれてしまい、あえない最期をとげたということである。父より聞き語り停えられました。
カッパの好物がナスやキューリとよく言い博えられておりますが、私共が少年の頃、よく祖母より日(太 陽)が 入ってからはナスの植えてある畑には入らないようにと言われておりました。

                                                      ふるさとの歴史教室 [歴史小報]より 毛 利 太 喜