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*以前アップした《高田の伝統と祭り》から《高田の伝説と民話》として堂園の民話を抜き出したものです。 

(2) 高田の民話(堂園地区) 

第一話 ほーりゃまあ爺さんと貧乏神


昔、堂園村に「ほ―りゃまあ爺さん」と呼ばれるお爺さんがおりました。お爺さんには本当の名前がありましたが、いつもお話の前に「ほ―りゃまあ」と言うのが口癖でしたので、いつの間にか、みんながほ―りゃまあ爺さんと呼ぶようになりました。
お爺さんは草葺き(くさぶき)の小さな家に住んでいましたが、毎日朝早くから夕陽が西の山に沈む頃迄畑に出て麦や粟や牛芳(ごぼう)、大根などを作って、草一本ないように一生懸命働きました。そして日当たりのいい壁なし(原文のまま)には、いつもよく手入れされたピカピカの鍬や鎌や鋤が並べて吊り下げられてありました。
或る日、貧乏神がほ―りゃまあ爺さんの家にこっそりやって来て、家の中をキョロキョロ伺っていると、恐ろしい顔をした怪物がこっちを向いて動いているではないか。貧乏神は恐ろしくなってあわてて逃げて行きました。それは鏡の様に磨かれた鍬や鎌に映った貧乏神自身の姿でした。
それから、ほ―りゃまあ爺さんの家には貧乏神は寄りつきませんでした。爺さんはそんな事はちっとも知らず、いつものように湯呑一杯のお酒を楽しそうに飲んで、麦と粟に少しお米の入った三珍飯の雑炊を食べておりました。

第ニ話 釣鐘の渕 

昔々、関門村の補陀寺というお寺に偉い和尚さんがいました。ある日、檀家のお逮夜(タイヤ)に参って帰り道で5,6人の子どもたちが棒切れを持ってワイワイガヤガヤ騒いでいるので、何だろうと近寄ってみると大きな一匹の蛇を痛めつけていました。和尚さんは「これこれ、殺生するでない。一寸の虫も五分の魂、逃がしてやりなさい。」と言って、土産のぼた餅を一つづつやって蛇を助けてやりました。それから片目になり乍らも元気になった蛇が鐘つき堂の屋根裏に住みつくようになりました。
何年か過ぎた年の秋、毎日毎日降り続いた雨に大風も交えて大野川は大洪水となり、川岸の竹藪を越し濁流は村々の屋根と共に鐘つき堂も押し流してしまいました。檀家の人達が後片付けに来て、釣鐘を探しましたが見つからず、また何年か経ちました。
お寺の近所のお百姓さんがある朝、大野川の川原に草きりに行ったら、大きな蛇にであった。それは片目で、正しく釣鐘堂の主である。急いで和尚さんに報告すると、和尚さんも驚いてあの洪水で流されて死んだものと思っていたが……………..と早速河原に行ってみると、待っていたように頭を上げてゆっくりゆっくり何度も振り返りながら大野川を泳ぎ渡って種具岸に這い上がり、一本の大榎の川に拡げた枝に巻きついて下の川面を見廻すようでした。
この事がうわさとなり、泳ぎの達者な青年衆がその付近に潜ってみましたが、到底川底まで潜れる者がおらず、関のあわび取りの名人を頼んで潜ってみると鐘であった。洪水で流れた鐘はやっとまた補陀寺に返り、お堂も立派に修復されたという。それからこの渕は釣鐘堂の渕といわれるようになりました。恩返しをした蛇の姿もその後見た者もなく、この鐘も昭和の戦争で供出され今はない。

「あとがき」 別説あり
(天正年間、島津、大友の合戦で島津軍が鐘を持ち去る際、この渕で船が転覆して落ちたという。)

*補陀寺は高田歴史マップの№6にあります。

第三話 一本木の狸  

高田のお百姓さん達は昔から立派な野菜を作って大分や萩原や鶴崎の町に売りに出かけ、売ったお金でお米や魚や着物を買って生活しておりました。
大正の初め頃、堂園のお百姓の功やん(人名)は大八車に牛芳や大根など一杯積んで売って歩き、全部売れたので帰りに国宗の一杯茶屋で角打ちしていい機嫌となり、土産の竹皮包みのいなりずしを車の上の籠に入れて一本木の岐されまで来ると、早や日は西の山合に落ちて薄暗く長く延びた竹が道を覆う様に益々暗くしておりました。と急に車が重くなったので振り返って車の上を見た
が、何も見えない‥功やんは「ハハーン、うわさの古狸奴が出よったか」と思いながら、ちい―っとばかりおどかしてやれと大きな声で「こう寒くなると狸汁で一杯やりてえなあ」と独り言のように言うと、大八車の上の狸はびっくりして功やんに食われてはたまらんわいと一日散に逃げて行きました。
しかし、狸もだんだん悪賢くなって、功やんの知らぬ間に車に積んだ土産の塩鯖を取ったり、子供の土産の破れっまんじゅうを取って代わりに馬の糞が入れてあったり、功やんの負けが続いた。腹を立てた功やんは狸の好物はんぺんに真っ赤になるほど唐辛子の粉をふりかけて知らん顔をして通りかかるといつの間に取って食べたか、「ケケンケーン ケケンケーン」と苦しそうに咳をしながら泣き泣き逃げる様子の狸に「ザマー見よ」と言って溜飲を下げた。
しばらくして狸は小娘に化けて入湯にと誘い、一晩中百間東側のたんぼの中で東の山が白む頃迄泥んこになって入湯気分で都々逸をうたう功やんに、村の人達は売上の銭をはたいて飲み過ぎたので狸に化かされたと、言い逃れの口述だろうと専らのうわさであった。
〔あとがき〕大正の中頃、一本木の岐され(わかれ)から堂園の西村迄一直線に広い新道が出来た頃、岐されの東に大きな下肥溜(こえだめ)があって、ある朧月の夜花に浮かれたのか、年寄りになって眼が不自由になったか、この肥溜に狸が大きな腹をつき出して溺れて死んでいたのを見た。子供心に功やんと狸の出来事も満更うその作話だけではない様な気がした。その後、狸から化かされたという話は聞いた事がない。