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頼朝と義経

NHKの大河ドラマでは頼朝と後白河法皇の共通の敵、平家を滅ぼした後の物語が今展開されています。私たちは判官びいきのためか、義経は良い人で、頼朝は悪い人、と思っていました。しかし、このテレビの展開では黒幕は後白河法皇であり、義経はあやつられただけだと思われます。後白河法皇は平清盛がいなくなった後、源頼朝が清盛にとって代わることを恐れ、義経を利用し頼朝側にゆさぶりをかけます。義経はある意味では純粋な武人であり、法皇や頼朝のような政治家ではなかったようです。ある意味ではよい人だったのでしょう。そして、朝廷側と鎌倉幕府側とに溝ができていきます。
後白河法皇が頼朝を通さず義経を検非違使に任命したことにより、御家人の長を目指していた頼朝にとって勝手に官位を受けたことは裏切りだと思ったと思われます。また、梶原景時らが平家討伐時の義経の振る舞いを批判したことにより、頼朝は平家討伐の最大功労者だった義経を信頼することができず義経を追討するようになっていきます。

どうして義経は追われる運命となったのか。

  1. 義経も頼朝の一家来にもかかわらず、頼朝の家来を自分の家来でもあると思いこんだ点
  2. 義経の戦い方が当時では名乗り出て戦うことが普通の時代に、勝つことを主体にし、奇襲攻撃ばかりだった点
  3. 後白河法皇から勝手に冠位をもらってしまった点
  4. 戦上手な義経が次の敵になる奥羽の平泉の藤原氏と結びつくのを警戒した点
  5. 三種の神器の一つの宝刀を壇ノ浦の戦いで失った点

これらの要因が重なっていったのだろうと思います。


蛇足ですが、判官とは官職名で義経は左衛門尉(さえもんのじょう)だったことから、九郎判官(くろう ほうがん)と呼ばれていました。実名は義経でしたが仮名は九郎だったことからきており、源義朝の九男でした。また、どうして、判官びいきができたのでしょうか。鎌倉幕府が編纂した歴史書[吾妻鏡]では義経には批判的になると思われるのですが、そうはなっていません。義経に同情的になっています。これは北条氏側が義経を北条側に引きつけ、かっての鎌倉幕府の将軍を暗に批判し、北条氏が良い政治をやってきたということを書きたかったのではないでしょうか。吾妻鏡 が書かれた時にはもう、義経は見直されていたのだろうと思います。

落ち延びていく義経 豊後へ。

後白河法皇の思惑は失敗し、義経は落ち延びていきます。そして最終的に平泉に逃げていき、そこで藤原秀衡にかくまわれていたのですが秀衡の死後、嫡男泰衡は頼朝の威に恐れて義経を攻め、自害に追い込みます。

その落ち延びる過程で義経は豊後を目指したのです。
頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州の緒方氏を頼り、300騎を率いて豊後武士団 緒方惟栄(これよし)の先導により、義経は海路、豊後に落ち延びることを計画します。しかし、義経らを乗せた船は、折からの暴風により摂津大物浜(せっつ だいもつはま、現在の兵庫県尼崎市)で難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻されてしまいます。これにより義経が九州に渡ることは不可能となり、義経は落ち延びる場所を平泉(ひらいずみ、現在の岩手県の平泉町)に変更したのです。

では、緒方惟栄とはどのような人物だったのでしょうか。平家物語にも出てきます

平氏が太宰府を掌握後、平重盛(平清盛の嫡男)と主従関係を結び、緒方荘(宇佐神宮が荘園領主)の荘官から豊後武士団の棟梁となり、優れた指導力を発揮しますが、九州に支配力を強めていた平家に反発し源頼朝挙兵後(1180年)、臼杵氏・長野氏(ちょうのし)らと共に平家に反旗を翻し、豊後国の目代(もくだい)を追放します。この時、平家にそむいた九州武士の菊池氏、阿蘇氏などとともにたちあがりますが、惟栄はその中心的人物として目覚ましい活躍をします。また、荘園領主である宇佐神宮大宮司家の宇佐氏が平家方についていたためこれと対立し宇佐神宮の焼き討ちなどの暴挙にでますが、平家討伐の功によって赦免されます。源平の戦いでは源範頼(頼朝の異母弟 源平合戦では義経と並び平家討伐軍の総大将に。しかし、彼もまた源頼朝に謀反の疑いをかけられ、悲劇的な最期を迎えます)に惟栄は源頼朝の命に従い、平家追討軍に兵船八十二艘を献上し筑前の国の葦屋浦の戦い(福岡県 遠賀)で平家軍を打ち破り平家討伐に大いに貢献します。惟栄は、豊後の国衛機構を支配していたため、周防灘、豊後水道の制海権を掌握することができ、容易に兵船を集めることができたのだといわれています。その後、平家は壇ノ浦に追い詰められ、安徳天皇とともに滅亡しました。壇ノ浦の戦いでは源氏方へ多くの兵船を献じて平家滅亡に導くなど、惟栄は「平家物語」に度々登場します。
この功績により、惟栄は鎌倉幕府体制下では有力な御家人となり、おそらく豊後の守護職に任じられたはずでした。豊後は大友氏ではなく、緒方氏が治めていたかもしれません。
しかし、壇ノ浦後、義経が頼朝に背反した際には義経に荷担しますが(後白河院の宣旨により)、前に書いたように暴風により九州へ渡ることに失敗します。この時、義経をかくまうために築城されたのが岡城と言われています。義経は逃げうせますが、緒方惟栄は捉えられ上野国沼田(群馬県)へ流罪となり、後に赦され佐伯荘に帰ったとされます。また、赦免されて豊後に戻る途中、山香郷(杵築市山香町)で平家の祟りにより?落馬して死んだともいわれています。歴史からは消えていきます。唯一緒方の地名が残るのみです。上野国沼田(群馬県)へ遠流

もし、この時義経が緒方惟栄と一緒に豊後に落ち延びていたら、大分豊後の歴史はどうなっていたのでしょうか。

馬上八幡社

【画像クリック拡大】2021年11月28日撮影

山香 馬上八幡社
緒方大明神 神社手前右奥の祠


緒方町原尻の滝近くに「緒方三郎惟栄館跡」2018年6月撮影

緒方惟栄館跡

壇ノ浦後 豊後の国と大友氏

頼朝は、後白河法皇とつながり、九州の武士団を従える惟栄の影響を除くため、九州の中で唯一の幕府直轄地として守護を豊後に置きます。その守護として登場してくるのが大友氏です。しかし、すんなりと幕府任命の守護と、地元の国主との関係は順調に進むのでしょうか。

(その2)につなげたいとおもいます。