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今日、(令和4年4月10日)野津の山中を歩いているとフジの花が咲いているのに気づきました。そしてフジの花から西寒田神社のふじの花を連想し、昨年の西寒田神社のフジの花の記録を再度アップしてみました。

【西寒田神社の記録 令和3年4月30日】

西寒田神社のフジの花を見に行く。一昨年は4月24日に行き満開だったのでそれに合わせて行ったつもりですが、例年より10日ほど早く既に満開となっていました。2018年までは5月3日~5月5日に恒例の「藤まつり」を実施していたが、花の開花が早くなったため、2019年からは4月20日~5月5日に変更されたそうです。地球温暖化の影響でしょうか。

西寒田神社ふじまつりは例年

2021年04月20日(火)~2021年05月05日(水)に実施されます。

西寒田神社の藤は樹齢約450年とされ、市の天然記念物に指定されてます。450年前といえば1571年(室町時代が終わるのが1573年)で織田信長が足利義昭にとって代わる直前です。
この藤は幹回り2.3mの1本の木からなるフジです。ところで豆知識ですが、フジは大豆と同じマメ科だそうです。そういえば種が似ていたような気がします。
今日も多くの人が来ていました。(コロナを心配するほどの人ではありません。ほとんど人はいないと思っていたので考えていたより多かったという程度です)。また、確認はしていませんが夜は9時までライトアップしているそうです。GWまでは楽しめるのではないでしょうか。

樹齢約450年 幹回り2.3m
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西寒田神社

【西寒田神社公式サイトより】
 旧国幣中社、豊後一ノ宮として広く知られる西寒多神社の由緒は、神功皇后が三韓に兵を進めて帰陣の折、西寒多山(現在の本宮山)に行幸して四方の山々を御覧になり、そこに一本の白旗を立ててお帰りになった。その後、人々はそれを敬ってその地に端垣を結び、聖地として崇めるようになり、やがて応神天皇の御代にこの地に宮殿を建立するため朝廷に願い出て、勅許を得た。勅を奉じた武内宿禰は応神九年、豊後国に下向して宮殿の建立に当たった。

 さらに7世紀の中ごろ、藤原鎌足が百済救援のため豊前国仲津郡まで来た折、霊夢のお告げを受けて西寒多神社に参拝。老巧化した社殿を修築し、太刀一振りと八幡舞面を奉納した。貞観10年(869)、西寒多神社は朝廷から従五位下の神階が授けられ、延喜5年(905)に勅命により編纂された延喜式神名帳で式内大社とされた。

 以後、在地の有力武将の信仰あつく、大友家初代能直を初めとする歴代大友氏の尊崇を集め続けた。応永15年(1408)3月、大友家第十代の新世は尊崇のあまり社殿を山麓の現在の地に遷した。

 江戸時代には、この地を領した延岡藩の牧野氏、次いで内藤氏の信仰厚く、たびたび神殿の改修修繕が行われ、藩士による燈篭などの寄進もあった。

 明治4年(1871)4月、新たに設けられた社格制度で国幣中社に列格。昭和20年(1945)12月、社格制度の廃止に伴い別表神社となり、今日に至っている。

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神庫(市指定文化財)

神庫は、明治19年(1886年)に改築。入母屋の校倉(あぜくら)造り

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西寒田神社入り口の石橋アーチ橋(2018年1月20日撮影)
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【参考資料】
橋長:22.0メートル
橋幅:3.7メートル
径間:11メートル
拱矢(アーチ高):3.9メートル
竣工:文久2年(1862年)     江戸時代末期
石工:後藤郷兵衛(2代目)
文化財指定等:大分県指定有形文化財