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大野川合戦祭りが11月の初めに大野川白滝橋上流で開催され、今年も11月13日に予定されていたのですが昨年に続き中止だそうです。(今年開催されていれば第17回目でした。)合戦祭りでは毎年、住民らによる鉄砲隊や騎馬隊、物産市や餅つき大会などが行われ県内外から4万人近くが集まるそうです。

左手奥の山に鶴ヶ城

 

鶴ヶ城・戸次川の戦い

戦国時代、大友は薩摩と九州を二分するほど (今では信じられないのですが) 巨大でした。しかし、薩摩との(宮崎)耳川の戦い(1578年)で大敗を帰し、そのことが引き金になり大友家の内部抗争や他の九州勢の反旗により危機的状況にまで陥っていきました 。そのすきを見て薩摩が豊後に攻めてきたのですが、その戦いの中で最大だったのがこの鶴ヶ城の戦い・戸次川の戦いです。佐伯の番匠川沿いに北上して栂牟礼城(佐伯の弥生にあった山城)を目指したのですが、島津軍は強い抵抗にあい、落とせず敗北しました。そこで島津軍は鶴ヶ城に兵を進めます。そこは大友宗麟のいる臼杵城と大友義統のいる府内城の中間地点でした。大友義統(よしむね、宗麟の息子)は、島津軍2万に包囲され籠城を続ける鶴賀城を救援に向かいます。大友軍には、豊臣秀吉の命で援軍に来た仙石秀久、長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)、信親(のぶちか)親子、十河存保(そごう・まさやす)の四国勢が加わります。これまでの戦いで窮地に陥っていた大友は秀吉に援軍を依頼していました。(秀吉はまだ日本全国の平定の前で薩摩との戦いを避けるように指示していました)。 この戦では長宗我部・十河・仙石三大名の連合軍に大友軍を加えた約6000人と島津軍25000人が衝突しました。しかし大友方は多勢に無勢であったことや、仙石秀久の無謀な作戦によりほとんど全滅状態となりました。戦いは4時間に及び、大友、四国連合軍は府内や鶴崎へ敗走します。この戦いで両軍合わせて3千名の死者を出し、長宗我部信親、十河存保、戸次統常(べっき・むねつね)らの武将が壮烈な死を遂げます。

次の年の3月には、秀吉が出陣してきて薩摩を破り九州を平定するのですが、かっては豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後と6か国を治めていた大友氏は豊後のみの所領となります。

大分の人間としては島津軍の攻略に落ちた 仙石秀久 ( 彼は豊臣秀吉の最古参の家臣でした)ではなく、長曾我部元親(彼は四国の統一寸前までいった名君だったといわれています。そして息子の信親も評判が良かったそうです)だったら歴史は豊後だけでなく高知土佐藩の運命もまた変わっていたのだろうか、など考えてしまいます。そして最後にはこの大友義統の代で大友氏は終わりを告げます。

戸次川合戦の跡 天正14年(1586) 435年前  (2021・11・11撮影)

当地には戦死した長宗我部信親や十河存保らの墓が残っており、今まで地元で供養が続けられてきました。その歴史的な出来事を後世に伝えようと大野川合戦祭りが毎年行われています。 

(2021・11・11撮影)

10月27日敦賀城址に行ってきました。

鶴ヶ城由緒及び縄張り図      (2021.10.27撮影)

鶴賀城の由来 (現地の表示板より)

鶴賀城は別名「利光城」とも言われ、険しい連山の頂きに築かれた山城である。以前は、豊後の豪族、緒方一族が治めていた。建久7年(1196)大友初代、熊直公が豊前・豊後の守護職として府内に入り、地元の旧族を一掃した。熊直の孫大友親家に「利光」と名のらせ、以来390年間代々府内南の要衝として始めた。

天正14年(1586)大友、島津の確執はやがて「豊薩の陣」へと進んだ。11月には家久率いる薩摩軍2万の精鋭が伊集院美作を先陣に、二陣、三陣と攻め寄せた。援軍の大友 、四国連合軍は、「戸次川の合戦」で大敗を喫する。

斜陽の大友家に節義を貫く城将、利光越前守宗魚の率いる三千余の豊後勢は、善戦数10日におよぶが、軍勢の差は大きく、水食料を絶たれ、矢弾つきはて、悲運な最期を遂げる。

翌15年、豊臣秀吉軍が九州平定に出陣し、薩将島津家久を収め、豊薩の天王山ともいわれる鶴賀城攻防戦は終わった。この山ろくに末院六ヶ寺を持つ成大寺があった。今は廃寺になっているが、境内に城将の霊を祭った次の基碑がある。

長空院殿前越州刺史水運宗魚大居士
天象天正14年丙戌歳12月7日
平成19年3月吉日
大分市地域まちづくり活性化事業
協力 鶴賀城保存会

                                                     

鶴ヶ城城址

鶴ヶ城頂上にある大分市の銘木 こじい  樹齢100年 樹高15m 幹回り2.9m

最後に鶴ヶ城よりかっての戸次川合戦の地を見つめてください。

追記》

「 戸次川の戦いは4時間に及び、大友、四国連合軍は府内や鶴崎へ敗走します。」とありましたが、その鶴崎地区での歴史の1ページが残っています。

鶴崎城攻防戦妙林尼

《当HP 高田の歴史 第3回大友から加藤清正へ》から一部引用  ⇒高田の歴史 

島津の勢いを止めることのできなかった大友軍は、高崎城(高崎山には土塁の跡が残っています)や、宇佐方面に後退していきます。大友宗麟は臼杵に移動していました。しかし、豊臣秀吉が大軍で九州に進出してきたことにより、島津は薩摩に戻っていきました。そして間もなく秀吉に降伏しました。この戦いの後、大友氏は豊後の国のみの支配を許されます。大友宗麟は次の年、隠居先の津久見で58歳の生涯を終えます。
なお、先の府内の戦いのときには、鶴崎地区も戦いに臨んでいます。鶴崎城では大友氏の家来、吉岡氏の妻、妙林尼(みょうりんに  吉岡氏は先に述べた耳川の戦いで戦死し、夫をともらうために出家していた)が、島津氏の16度の攻撃、三カ月間にも及ぶ攻防に耐え、最後は島津との和睦に応じ、全員の生命を保証するということを条件に開城しました。その時には、薩摩と酒を酌み交わしたともいわれています。 (薩摩側も先へ進めないこと、吉岡側も食料が尽きていたことが和睦を勧めたといえる)また、ここには、多くの高田の人が登場してきます。当時、高田は鶴崎城主吉岡氏の配下にあり、徳丸氏、中村氏、向氏等一族の者が多く参加し手柄を立てています。

 

          妙林尼像(鶴崎校区公民館前)

下記については計画中!

乙津(おとづ)川古戦場跡

東厳寺(とうごんじ)

琵琶の首