春祭りの思い出
若宮八幡社の春季例大祭の思い出について書かれた文書を「大分市鶴崎地区文化財研究会 [歴史小報 第11集] 昭和63年 鶴崎歴史散歩特集号」で見つけました。
30年以上前に高田の住民(作者不詳)が戦前戦後の若宮八幡社の秋季例大祭を思い出しながら書かれたものと思われます。現在とはまた違うところもあり、一人の昔の思い出として読んでいただきたいと思います。
春の大祭
(若宮八幡社の大祭は)春は3月 27日、28日 、秋は10月 11日 、12日 の2回 の大祭です。春の大祭は神様神興の各部落の巡幸があります。お供の獅子1、太鼓山車1、其の他4ケ の各部落から(鶴 崎のけんか山車と同じ形)、 が大人用4、 子供用4、 計8山車がお宮に集合して、御旅所の乙津川の中州に神輿のお供をして巡幸したものです。各山車から打鳴らす太鼓の音は山にこだまし大変勇壮な物でした。又近郊よりの祭り客(親 類)で 見物人も多く大変な人出です。薄ら寒い春の夕暮を往路と反対の順次で一定の地点まで引きかえし解散します。その間けんか山車は勇壮に練り回り途中何度となく激しくぶつかり合わせをくりかえした事です。平素は別に変りませんが祭りの時だけは四部落が2対2で仲が悪く、毎年よく山車同士のけんかをした事です。
第二次大戦後一時怪我人が出て一時中断しましたが、又復活しました。戦前、青年団30歳が戦後は25歳まで、今日では青年団員も無くなり、祭の御神輿も自動車に乗せて地域を巡幸です。お供の山の(太 鼓、笛の山車)は 昔のままに参加します。前記のけんか山車は地域の人目が多くなり4部落が5部落となりましたが、昔の青年団中心が今日では小学生中心で、部落の役員、及びPTの役員が付添う子供の山では、地域の都市化で人口も倍以上の今日ですが、又日常食生活の変化は近郊親戚との(行き来)も昔しの様になく、賑やかだった昔の春季大祭の面影は想像する事も出来ません。昔、都会(町)に 仕事に出ている (勤 務)し ている人でも30歳 以下でしたらお盆、お正月に帰らない人でも氏神様の春祭にはかならず帰って参加したものです。
今日お祭典等復興の声もありますが、制度が変わり、小学生主体のお祭りでは昔しのような全村民あげての体日祭典は残念ながら出来ない事でしょう。
(注)今日良く青年部と言う言葉を聞きますが、青年団と言う事はあまり戦後聞かないようです。教育又は働く職場の関係か戦前の村や町の青年団の活動は15歳 になると戦前では青年団に御挨拶して人団させていただいたものでした。
村の種々の行事には第一番目に良く貢献したことです。