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「高田風土記」に入る前に、日本での最古の書籍は何か知っていますか。学生時代に習ったと思いますが「古事記」です。奈良時代(710年に平城京に都をつくりました。)の初め、712年に書かれたものです。その8年後に書かれたのが「日本書紀」です。そしてその日本書紀を参考にしながら豊後の国司が地元の伝書を修正指摘したのが「豊後風土記」です。
この風土記は奈良時代に地方の文化風土や地勢等を各国ごとに記録編纂して天皇に献上 しました。今でもなお残っているのは『常陸国風土記』、『播磨国風土記』、『出雲国風土記』、『豊後国風土記』、『肥前国風土記』5つの風土記だけです。我が大分県、豊後の「豊後風土記」もその一つになります。
712年 古事記
713年 風土記 詔が下される 『出雲国風土記』 出雲国が天平5年(733)に差しだしたものが最古とされている。
720年 日本書紀
風土記<ウィくペディアより>
風土記(ふどき)とは―
和銅6年(713年)5月2日、各国の特産物・山川原野の名の由来等を撰進するよう詔が下され、国司を中心に編纂され、解文(げぶみ)(報告文書)として平城京に提出されたものが風土記です。 現存している風土記は5風土記(常陸国・出雲国・播磨国・肥前国・豊後国)で、完本は出雲国風土記だけです。
ちょっと横道にそれましたが、それから1000年以上たった1813年に細川藩によって書かれたものが「高田風土記」です。
「高田風土記」は細川藩領高田手永に所属する24村、1町鶴崎町についての状況を記したものです。この手永制度とは行政区分で今でいう大分市や別府市のようなもので高田手永は旧鶴崎市に近いが、もっと広い区域だったようです。細川藩この風土記が書かれた幕末には51の手永がありました。そして豊後にあったのが久住手永、野津原手永、高田手永、関手永の4ツです(元は5ツありました)。細川藩の参勤交代の通路に沿っているのではと思います。そしてその役所として高田会所(大分市市役所や鶴崎支所みたいなもの)がありました。その跡が下徳丸にある会所跡です。(岡松甕谷の生誕の地にもなっている) その会所の長が惣庄屋で、地域内の村庄屋を指揮して手永を統括し手永の村々への上意下意と村々からの報告のとりまとめをしていました。官として年貢米や雑税(小物成)の徴収も行っていました。甕谷の生誕の地があるのはこの地で岡松家が長い間惣庄屋を務めていたためでもあります。
高田風土記に関しては《大分県地方史料叢書1 豊後国村明細帳9 「高田風土記」昭和57年刊》の書籍がありましたが私の力では読みこなせず困っていましたが、「ふるさと歴史教室」の元会長をされていた故安部光太郎先生の意訳されたものがあったのでそれを参考に「高田風土記」について書いてみたいと思います。
高田風土記は、文化年間(一八〇〇年頃)の鶴崎地方 (肥後領高田手永に属する一町二十四村)の状況を詳細に記した地誌で、土地の状況 人口、田畑、牛馬数等から水利、街道、産物などを正確かつ具体的に記述しています。このような記録は、他の地方にも例がないといわれ、その点きわめて貴重な資料です。
「高田風土記」
大分郡 高田手永会所 上徳村にあり
・「高田風土記」は高田手永の様子を、鶴崎三ケ村(鶴崎・寺司・国 [宗村) ・ 近在四ヶ村(小中島・志村・迫・鶴村)
・洲(須)ゲ在八ケ村(堂園・常行・関門・南・下徳丸・上徳丸・亀甲・鵜猟ヶ瀬村)
・山奥在九ヶ村(門前・冬田・竹中・岩上・伊与床・高城・中野・中無礼・弓立村)
に分けて詳述しています。<当HPでは洲(須)ゲ在八ケ村 高田地区に関する部分 についてのみ記述したいと思います>
高田風土記(訳)
《高田周辺の 行政区分・地誌は》
大分郡 高田手永会所 上徳丸村にある。
この手永は、およそ二十四ヶ村、これを四つに分けて
鶴崎三ケ村(鶴崎村・寺司村・国宗村。これは鶴崎町に接
しているので、この名にしたのであろう)
近在四ヶ村(小中島村・志村・迫村・鶴村。これは鶴崎町
に近いので、この名にしたのであろう)
洲ヶ在八ケ村(堂園村・常行村・関門村・南村・下徳丸村
上徳丸村・亀甲村・鶴猟ヶ瀬村。 これは、昔、この付近か
ら鶴崎までは洲の先の土地であったのでこの名にしたのであろう
山奥在九ヶ村
門前村・冬田村・竹中村・岩上村・伊予床村・高城村・中野村
中無礼村・弓立村
(これは洲ヶ在を離れて山中にあるのでこの名にした)
鶴崎より近在・洲ヶは、ひとつにまとめると、東は海辺
に近い関手永(佐賀関方面)に接し、東南から西にかけては臼杵領
丹生庄一木村・岡村・村・延命寺村・金谷村・毛井新田村・横尾村・
森村・森町村に接し、つづいて延岡領中島村・門田村、幕府
領乙津村、竹田領三佐に接し、西から北にかけては臼杵領家
島に接し、北は海辺で、全体でおよそ東西二十町余、南北一
黒半ほどの地域である。
山奥在九ヶ村部分 省略
《大野川・乙津川はどんなのだったのだろう》
この手永には大きな川が流れているので、洪水の被害がある。
川は白嵩川という。(白笠川というのは迫村の上に白嵩という
山がある。その下を流れるのでこの名がついたのだろう。
また、大川とも本川ともいう。水源は日向の方角というが
はっきりとは分からない、野尻・久住在の谷川もこの川
に流れ込むという) 竹田領犬飼より山奥在に流れ入り、西は
山奥在、東は臼杵領の間を流れて、そこから延岡領・公領・
臼杵領を経て、洲ヶ在の東を流れて鶴崎に至る、これを本川
という。海の潮は百堂村のあたりまで上る。
洲ヶ在の臼杵領毛井村のあたりから洪水の時は水流が二つに分かれる。
その一つ、西側を流れる方は、平常は河原で水も流れず、
その先は洲ヶ在の西をまわって猟ヶ瀬村のあたりでしだいに
水の流れとなって、延岡領中島・門田、公領乙津と寺司・
鶴崎との間を流れるころは大河となり、竹田領三佐と鶴崎村
の間で前川と合流する。この川を裏川という(乙津川ともいう)。
上流に水源がないのでいつもは穏やかな流れではあるが、
洪水の時は本川に劣らない激流になる。
海の潮は猟ヶ瀬のあたりまでさし上る。
本川は鶴崎町と志村の間で二つに分かれる。一つはまっす
ぐに北を指して小中島村と志村の間を流れる。小中島川とい
う一つの流れは、左むきに鶴崎と徳島との間を西方に向かい、
前川と呼ばれる御船着き場・御舟入などを通って、鶴崎村川
ロ御番所の下で裏川と落ち合い、北に向かい竹田領三佐の東、
臼杵領家島の西の間を通って海に入る。
小中島川のもう一つの流れは小中島村の上で二つに分かれ、
その一つはまっすぐ北にむかい臼杵領家島の東、志村の西を
通って海に入る。もう一つは左に曲がって小中島と徳島の間
を西に流れ、臼杵領家島の南で前川と裏川とに合流し、この
流れはまた小中島と家島の間を北に流れて小中島川の末に合
流して海に入る。
このようにいくつもに流れを分けたのは、洪水の時、被害
を避けるためである。したがって洪水の時は、洲ヶ在から鶴
崎までは中洲のようになる。 そこで、洲ヶ在の東より南西に
とりまくように大きな土手を造って洪水の被害を防ぎ、毎年
毎年川筋・土手などの手入れを怠ることがない。この川は山
奥在より洲ヶ在まで川筋が低く、堰をつくって水をあげて農
業用水にすることができない。ただ、竹田領犬飼そのほかの
山奥在などからの鶴崎・三佐・乙津への水上運送が便利なば
かりである。
○この手永は、山川の釣り合いもよく、海上の便もよく、 地
味も相応によくて、村々の自立状態もよく、まずは豊かな土
地といってもよいが、山奥在には零落の村もあって、全体的
には関手永よりは劣っている。人々の気性は、まずは正直で、
穏やかで強情はすくなく、強暴なことはしない。他の藩と入
り混じった所柄のため、風俗は箸美なところがある。その土
地に伝わる仏神を尊び敬う。これらは村々によって違いがあ
るが、それは次の各項毎に記す。
ーーその他の地域の記述になるため、省略します。ーー
※「高田風土記」を読む その2 に続きます。