川に挟まれたこの三角州(デルタ)地区が我が郷土、高田です。

高田の位置と地形
高田地区の境界

我が郷土の位置、姿は?

大分市高田地区は大野川と乙津川にはさまれた三角州(デルタ)地帯にあり、楽器の琵琶ににていることから、びわのす地区といわれています。周囲を大野川、乙津川に挟まれ多くの洪水に悩まされながら、私たちの先祖はそれを克服してきました。また、周囲を堤防で囲われた地域で全国でも有名な輪中地区でもあります。

1・高田地区を上空から眺める。

三角州だ、びわのすだ、輪中だといってもよくわかりません。上空から高田をながめてみましょう。

2・大分市のどこにあるのだろう?

大分県大分市  (右図参照)

   令和6年1月現在 (令和4年1月現在)
 ●人口    6,692人  (6,612)
 ●世帯数   3,068世帯 (2,931)
 ●面積約   3.6k㎡
 ●南北距離約 2.6km
 ●東西距離約 1.4km

赤い点線にかこまれた地域です。[【画像クリック拡大】]

人口・世帯の状況(令和4年1月現在 )

(令和3年1月現在 )

  1. 人口 6510人
  2. 男 3111人
  3. 女 3399人
  4. 世帯数 2859世帯
  5. 65歳以上 1822人
  6. 高齢化率 28.0%

*変動の状況を詳しく見たい人は当HP自治会の「高田の人口、世帯数 (過去30年の推移)」を参照してください。

👉高田地区過去30年の推移状況

高田の歴史と行政の変遷

大分市高田地区は大野川と乙津川にはさまれた三角州(面積390ha)の輪中地帯です。そして上流には松岡、下流には鶴崎、また大野川を挟んで東側に川添、西側は明治、別保と5つの地区に接しています。
大分市高田地区は大昔は海でした。高田には中の島や沖の小路・沖の下等の地名があり、また別保の東郵便局から明野に登る坂地域に浪上がりという地名もあります。高田が長い年月の間に大野川の上流からの砂礫の堆積により三角州の形成と共に出来たといわれています。

大分市高田地区が形成される中で歴史の資料によると1601年の洪水から1943年(昭和18年)までの342年間に45回ほどの大洪水にみまわれたそうです。しかし、その洪水の恵みにより高田は大変肥沃な土地となり畑作農業が盛んになります。

大分市高田地区は古くから、「高田荘」「高田郷」といわれ鶴崎地区の文化の中心でした。少し長くなりますが、上徳丸に岡松甕谷の生誕の地の史表示柱が立てられています。そこに並行して「高田会所跡」とあります。会所とは、高田は細川藩でしたが藩内の行政区として53手永に区画し、各手永御代官兼御惣庄屋を置いて手永内のおける一切の民生を行わせていました。大分では九重、野津原、谷村、高田、関の五か所の手水がありました。(熊本藩の参勤交代の通路にあたると思います )高田手永は現在の高田ではなく、わかりやすく言えば昔の鶴崎市ほどの広い地区でした。そして「高田会所」はその民生の執務所でした。会所の長を御代官兼御惣庄屋といいます。その歴代は省略しますが、宝暦七年(1757年)に上徳丸の松岡作右衛門が任じられその後、明治時代まで八代に渡り世襲されます。そして岡松家第六代御代官兼御惣庄屋岡松数右衛門の第二子で、第七代岡松俊助の弟して生まれたのが岡松甕谷です。長くなりましたが、江戸時代は高田はそれほど重要な位置を占めていたのです。

大分郡高田村

江戸時代まで高田はいくつかの村に分かれていましたが、明治時代になり廃藩置県により細川藩から大分県となり、その後、明治22年の町村制施 行により、堂園村、常行村、関門村、南村、下徳 丸村、上徳丸、亀甲村(大鶴村を含む)鵜猟河瀬(うりょうがせ)村の須ケ台八ケ村が合併して大分郡高田村が誕生しました。

鶴崎市の誕生

昭和29年3月 には、鶴崎町、高田村、川添村、明治村、松岡村の5ケ 町村が合併して鶴 崎市が誕生しました。

大分市の誕生

昭和38年には新産都の指定に伴ない大分市となり現在に至っています。

*昭和30年代の状況を旧鶴崎市地区の小中学校でつくっている社会科の研究サークルが、移り変わる鶴崎地区の姿を残そうと郷土資料集「鶴崎の歴史と地理」をまとめています。高田関係の興味深い部分を抜粋して このHP高田の歴史(戦後編)にのさせていただいています。

*大正から平成3年にかけての高田の歴史は中村文明氏が書かれた 高田郷土史「輪中のさと」に詳しく書かれています。下記をクリックすればリンクします。

👉輪中のさと 高田郷土史第1章

👉輪中のさと 高田郷土史第2章

👉輪中の里  高田郷土史第2章第3節